自然の脅威



その日、授業を受けに出たはずのルルーシュが、ふらふらとした足取りで自室に戻ってきたのは、太陽が西に傾きかけた頃だった。
ドアが開いた途端に、倒れこむようなかたちで部屋の中に入ってきたルルーシュを慌てて受け止めたジェレミアが、心配そうな顔をしながらルルーシュの体を椅子へと運んで座らせると、その傍らに膝を着いてじっと様子を窺っている。

「・・・一体、どうなされたのですか?」

疲れきった顔のルルーシュに恐る恐る声をかければ、足を床に投げ出してだらしない格好をしたルルーシュは、一瞬だけジェレミアに目を向けると、すぐにふいと視線を外してしまった。


それから数時間後。
雪に覆われた山間の湯煙の中に、ルルーシュはいた。
脱衣所も東屋なく、地面に穴を掘って石で囲っただけの小さな露天風呂だったが、湯量は豊富で、絶えず温泉が湧き出ている。
辺りに民家らしきものは見当たらず、人工の明かりはルルーシュが持参したランタンのみだったが、それでも澄んだ冬の夜空の星明りが雪に反射して、仄かに明るい。
こんな山奥にあるにもかかわらず、春から秋にかけての日中には、入浴する人の姿をちらほらと見かけることがある。
しかし、細い山道が雪に閉ざされる今の季節には、ここを訪れる人は殆どいなかった。
だから、心地よい温泉と、満天の星空を独り占めにしているルルーシュは、満足そうに温泉を満喫している。
少し離れたところでは、ジェレミアが蜃気楼の傍で、所在なさそうに突っ立っていた。

「折角来たのだから、お前も入ればいいだろう?」
「いえ・・・私は・・・」

囲いもない屋外での入浴に抵抗があるのか、ジェレミアはルルーシュから視線を背けている。

「まったく、ヴィレッタめ・・・、高校生の体育の授業で逆上がりなどさせおって・・・」

運動神経の乏しいルルーシュは、当然逆上がりなどできるはずがない。
結局ルルーシュ一人が居残りをさせられて、逆上がりの特訓と称した「しごき」を受けたのである。
その所為で、酷い肩こりと筋肉痛に見舞われたルルーシュは、ジェレミアを伴ってこの秘境の温泉にやってきたのだ。
道は雪に閉ざされていても、蜃気楼なら問題はない。

「よく、このような場所をご存知だったのですね・・・」
「前にも何度か来た事があるからな・・・まぁ、冬場は初めてだが、雪見風呂というのもなかなか気持ちのいいものだ」

何度か来た事があると言っても、ルルーシュは人気のない夜を選んで蜃気楼でここまで来るのだから、険しい山道を歩いたことは一度もなかった。
苦労の末に、ようやく辿り着いた秘境の温泉に浸かる悦びなどとは、無縁である。

「ところでジェレミア?」
「なんでしょうか?」
「どうしてさっきからそんなに離れた場所にいるんだ?」
「あ、いえ・・・そ、それは、その・・・」

言葉を濁すジェレミアに、上機嫌のルルーシュは苦笑を浮かべている。
ジェレミアが自分を警戒していることは一目瞭然で、ここにきてからのジェレミアは、ルルーシュの半径五メートル以内には決して近寄ろうとはしない。
これまでに、何度もルルーシュに酷い目にあわせられているジェレミアは、学習しているのだ。
こんな山奥の人気のない温泉で、裸の付き合いともなれば、ろくなことを考えていないだろうと、ジェレミアは思っているに違いない。
単純なジェレミアの思考を読むことなどは、ルルーシュにとって容易いことだ。

「安心しろジェレミア。今日はなにもしない」
「はぁ・・・」
「お前を連れてきたのには理由があるんだ。ちゃんと働いてもらうからそのつもりでいろ」
「そ、それは・・・?」
「もうすぐわかる」

そう言ったきり、ルルーシュは黙って温泉に浸かっている。
その沈黙が、一層ジェレミアの不安を煽って、ルルーシュになにをさせられるのか気が気ではないらしい。
しきりに辺りの様子を気にしながら、そわそわと落ち着かないジェレミアに、ルルーシュは心の中でほくそ笑む。
そして、

「そろそろだな・・・」

ルルーシュがそう言ったかと思うと、周りの木々がざわざわと騒ぎ出して、空気の流れが一変した。
真っ暗な闇の中を、なにかが近づいてきているのが、気配でもわかる。

「ル、ルルーシュ様・・・?」
「この辺りを縄張りにしている、猟師の吾作さんがそろそろ入りに来る頃だから、お前ちょっと行って追い払ってこい」
「し、しかし・・・折角温泉に来た人を追い払うのは、いくらなんでも・・・」
「いつもは俺が吾作に温泉を譲ってやっているんだから、いいんだ」
「はぁ・・・しかし・・・」

わざわざ温泉に入りに来た人を追い返すことに躊躇いを感じているジェレミアだったが、ルルーシュの命令は絶対だった。
仕方なしに気配の感じられる林の方へとジェレミアが歩き出したのとほぼ同時に、暗い木々の間からのっそりとした、大きな黒い影が現れた。

「ルルーシュ・・・様?」
「なんだ?」
「あ・・・あれが吾作さん・・・ですか?」
「そうだ」
「・・・りょ、猟師の?」
「そうだ」
「・・・って、どう見ても人じゃないじゃないですか!」

全身を黒い毛で覆われた鋭い目つきのそれは、どう見ても熊である。
体長二メートル以上はあるかと思われる巨大な熊は、その巨体を揺らしながらのっしのっしとこちらへ近づいてくる。

「ど、どうしてこの季節に熊がいるんですか!?」
「この辺りは温泉の地熱の影響で冬場でも食料が豊富らしくてな・・・冬眠しない熊が出没するという話を聞いたことがあるのだが、やはり吾作であったか・・・」
「吾作って誰ですか!?」
「そこにいる熊の名前だが?」
「・・・ルルーシュ様がおつけになったのですか?」
「そうだが?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

もう少しまともな名前がなかったのだろうかと、ジェレミアはルルーシュのネーミングセンスを疑っている。
自分につけられた「オレンジ」の方がまだましだ。
これがもし、「茂平」とか「与作」とか「権蔵」とかだったら、ルルーシュが敬愛するマリアンヌの遺児だと知っても、臣下にはならなかっただろう。
いや、未だに恨み続けていたに違いない。

「ルルーシュ様は、先程”猟師”と仰いましたよね?」
「熊は小動物を狩るものだろう?所謂ハンターだ。日本語に直せば”猟師”と言うことになる」
「・・・ルルーシュ様、それは少し違うような気がしますが・・・」
「とにかく、吾作をやっつけてこい!あいつの所為で、今まで何度優雅な入浴タイムを邪魔されたことか・・・」
「し、しかし、どうやって・・・」

熊と戦ったことなどないジェレミアは困惑している。
そうしている間にも、林を抜け出た大熊は、確実にこちらに近づいてきていた。

「ル、ルルーシュ様。蜃気楼をお借りしてもよろしいでしょうか?」
「馬鹿者!なにを弱気なことを言っている!熊を相手にナイトメアを使う奴がいるか。素手で戦え、素手で!」
「し、しかし・・・」
「それに、俺は前から、お前が熊と格闘するところを見てみたかったんだ」

結局ルルーシュは、温泉の余興の為にジェレミアを連れてきたのだ。
それがわかったところで、ジェレミアはルルーシュには逆らえない。
諦めて、重い足を一歩踏み出すと、それに気づいた熊は動きを止めて、凶暴な目つきでジェレミアを睨みつけた。
威嚇するように二本の後ろ足で立ち上がると、その巨体は更に大きく見える。

「・・・ルルーシュ様、無理です!勝ち目がありません!!」
「お前は俺が熊に食い殺されてもいいと思っているのか?そうなんだろう?」
「そ、そんなことは・・・」

言いかけて、「いっそのこと、ルルーシュ様がここで死んでくれれば・・・」などと、一瞬不穏なことを考えないでもないジェレミアだった。
それくらい、ジェレミアはルルーシュの性質の悪い我侭に振り回されっぱなしなのである。
しかし、どんなに性格が悪くてもルルーシュはジェレミアの主君だ。
その主に生命の危機が迫れば、命がけで守らなければならない。
例え、相手が熊であったとしても、である。
覚悟を決めて、腕に仕込んだ暗器を抜き払ったジェレミアを、温泉に浸かりながら暢気に眺めていたルルーシュはにやりと、意地の悪い笑みを浮かべた。

「あ、そうそう。言い忘れていたが、ここは鳥獣保護区内だから、そいつを絶対に殺すなよ。後が面倒だ」
「えッ!?ルルーシュ様、そういうことはもっと早く・・・」

一撃で仕留めるつもりだったジェレミアの殺気が、一瞬削がれた。
その隙を狙ったように、熊はジェレミアめがけて一目散に突進してくる。
それをかわしきれずに、ジェレミアは突進してきた熊の頭突きに突き飛ばされた。
空中を舞ったジェレミアの体は、軽く10メートルは飛ばされただろうか。
それでも、滞空時間の長い分、空中でなんとか体勢を立て直したジェレミアは、地面に足が着くと同時に熊に向かって走り出している。

「なかなかやるではないか」

感心しているルルーシュを余所に、鋭い爪の攻撃をかわしながら熊の懐に入り込んだジェレミアは、がっしりとその巨体に組みついて、腕に渾身の力を篭めて、組みついた熊の体を絞め上げた。
しかし、腕が完全に回らない状態ではその攻撃力も半減する。
投げ飛ばそうにも、この状態では体勢が悪すぎてそれもできない。
熊の方も、懐に入り込まれては攻撃することができずに、組みついたジェレミアを振り払おうと闇雲に暴れている。

「これは持久戦になりそうだな・・・」
「暢気なことを言ってないで、何とかしてください!」
「馬鹿者!俺に何とかできると思うか?」
「で、ですが、このままでは・・・」
「そんな奴、投げ飛ばせばいいだろう」
「それができていたら苦労はしません!」
「・・・そうか、では、吾作の弱点を教えてやるから、あとはお前が何とかしろ」
「何とかと言われましても・・・」
「いいか、熊は背後を取られると攻撃ができなくなるんだ。だから背中に回れば勝機はあるはずだ」
「こ、この状態では、無理です!」

少しでも体を離せば、鋭い爪の攻撃が容赦なくジェレミアを襲うことは間違いない。

「大丈夫だ。お前はできる子だ!」
「なにを根拠に仰っているのですかッ!?」

このままルルーシュを熊の餌にしてしまおうかと、ジェレミアは本気で思っている。

「やれやれ・・・仕様のない奴だ・・・」

格闘中のジェレミアを横目に見ながら、ルルーシュは「これだけは使いたくなかったのだが・・・」と温泉の淵に置いた荷物の中を探りだした。

「ジェレミア、助けてはやるが、これを使ったらすぐに蜃気楼を出せるようにしておけ」
「わ、私がですか?」
「当たり前だろう。お前まさか、俺に裸のままで蜃気楼を操縦しろなんて言うんじゃないだろうな?」
「そんなことは言いませんが・・・しかし、どうしてそんなに急ぐ必要が?」

熊に組みついたまま、首を傾げるジェレミアの目に、ルルーシュの手元で小さく紅く光る何かが映し出された。
そして、それがルルーシュの手から放たれたと思うと、ジェレミアの足元に落下したそれは、「パンパン」と大きな乾いた音を出して弾けだした。
何のことはない、ただの爆竹である。
しかし、突然の音に驚いた熊は、組みついているジェレミアのことを忘れて、一目散に逃げ出し始めた。
慌てて熊から離れたジェレミアは、遠ざかっていく熊の後姿を見送りながら、ほっと安堵の息を洩らした。

「なにをしているジェレミア!早く蜃気楼を出せ!」

湯船から上がったルルーシュは、慌しく着替えを始めていた。
なぜ、そんなに慌てる必要があるのだろうか。
ジェレミアにはわからない。
わからないながらも、ジェレミアはルルーシュに言われたとおり、蜃気楼の起動を始めた。
勝手の違う機種の操作に手間取りながらも、なんとかそれをしてのけると、服を簡単に纏っただけのルルーシュが慌てて乗り込んでくる。
顔を上げて、ルルーシュに目を向けたジェレミアには、その後ろにある山肌が一瞬動いたように見えた。

「早く上昇しろ!雪崩に巻き込まれてしまう」
「な、雪崩!?」

山肌が動いているように見えたのは、斜面に積もった雪が崩れ落ちていたからだ。
それは、低い地鳴りのような音をたてながら、谷間になっているこちらの方へと確実に雪崩れ込んできている。
ルルーシュが乗り込んだのを確認してからハッチを閉めると、ジェレミアは蜃気楼を一気に上空へと浮上させた。
間一髪、雪の波がもの凄い勢いで、小さな温泉を飲み込んでいくのが足元に見える。

「ルルーシュ様、大丈夫ですか?」
「・・・ちっとも、大丈夫じゃない!」

ほっと一息ついて、ジェレミアがルルーシュを見れば、ジェレミアの膝の上に這い蹲ったような格好をして、睨みつけているルルーシュの視線と目が合った。

「・・・なにをなさって、いらっしゃるのですか?」
「お前は・・・どうしてそう乱暴なんだ!もう少しスムーズに上昇できないのか!?」

ジェレミアが一気に上昇させたものだから、体勢の悪いルルーシュは下にかかる重力に耐え切れずに、押し潰されたのだ。
だから、不自然な格好をしている。
しかしジェレミアは、急浮上したつもりはないらしい。
困った顔をしながら、ルルーシュを見つめるジェレミアは、主のひ弱さに片頬をヒクヒクと引き攣らせている。
そもそも、高校生にもなって逆上がりもできないとは、どういうことなのか・・・とでも言いたそうな顔だった。
事の始まりは、ルルーシュが逆上がりができなかったことが原因なのだ。
しかも、一時間やそこらの特訓で、肩こりや筋肉痛になるとは、ジェレミアには考えられないことだ。
狭いコックピットの中で、睨みつけられたジェレミアは呆れたように溜息を吐く。
その膝の上で、ようやく体を起こしたルルーシュは訝しそうな顔をして、ジェレミアを覗き込んだ。

「・・・あの、なにか?」
「獣臭い」
「熊と格闘させられましたから・・・」
「温泉、入るか?」
「結構ですッ!」

こんな危険な温泉は懲り懲りだと言わんばかりに、ジェレミアは憮然とした表情で、首を横に振った。
膝の上では、ルルーシュがつまらなさそうな顔でジェレミアを見上げている。
薄手のシャツ一枚を羽織っただけのルルーシュの白い肌が、ジェレミアの目に飛び込んできて、思わずゴクリと喉が鳴った。

「今度はちゃんと安全な温泉に連れて行ってやるから・・・」

そう言って、上目遣いに見上げるルルーシュの瞳に弱いジェレミアは、呆然とルルーシュに見惚れている。
もう一押しとばかりに、ルルーシュはジェレミアの首に腕を回した。

「・・・一緒に、温泉に入ってくれるか?」

これまで何度もその仕草に騙されていると言うのに、ジェレミアの頭の中からはそんな事実は抹消されてしまっているらしい。
まるで催眠術にかかったかのように、ルルーシュの言葉に素直にこくりと頷いてしまった。
頷いてから、とんでもない約束をしたことにジェレミアが気づくまでには、まだしばらく時間がかかりそうだ。