≪始めに≫

 私が、足利という古い街に、興味を持ちだしたのは、ここ三年程前からのことです。それ以前から、足利の街中に、産みの両親や、その一族の墓があることは知っていました。そして、足利の山の中にある、ゴルフ場に足繁く通っていましたが、まさか、この街のについて、紹介をさせて頂くことになろうとは、思ったことすらありませんでした。
 とはいえ、このあしかが散歩は、私の身勝手な散歩でもあり、その訪ねていく先も、全てが亡き父に縁のある所と、私の記憶の片隅に残っていた所を掘り起こすことで、私にとっては、私の途切れていた過去を、繋ぐための散歩ということで、気軽にお目通しいただけたら幸いです。また、思いつきとまでは申しませんが、浅薄な知識により、書き込ませて頂いておりますので、間違いやお気づきの点等ございましたら、ご連絡いただけましたら幸いです。

≪第一話:大祥山 長林寺≫

 足利に長林寺という寺が二つあります。ともに曹洞宗の寺だそうです。山川町にあるのが福聚山で、西宮町にあるのが大祥山といいます。私が西宮の長林寺を訊ねた理由は、私の生父・杉山英樹が、若き日に折々にこの長林寺を訪れていたからです。特に私に宗教心があって、この寺を訪ねていたわけではありません。ここに来れば、若き日の父を偲ぶ、何かがあるかもしれないという気分で、訪ねていました。

 この寺の本堂の奥には、かつては離れがあり、そこに旧制の足利中学で学んだ、父・英樹の同級生の、壇一雄が住んでいたからです。壇一雄さんは教師をしている父親の転勤により、弘前から足利へ移ってきていました。親しい友人達と、織姫山から両崖山に続く尾根を越えて、街中にある学校に通うため、また休日には友人達と遊びのために出かけていたのです。今も長林寺の広い駐車場の奥から、織姫公園に登る道があります。そして英樹達は樹覚寺の隣りの、杉山の家からこの道を通って、長林寺に下ってきたのです。

 遊びの種は四季折々に限りなくあったでしょう。特に楽しみにしていたのが、厳寒のころの下駄スケートをすることだったそうです。長林寺の境内の外れ、というより、山門に入るための鳥居の近くに、広い池があり、一面に厚く凍っていたのです。現在は、住時の三分の一程の、広さになってしまったと聞いていますが、その池の氷の上を何人かの中学生が、空が朱に染まるまで、頬が冷たくなるまで、滑り続けていたのです。

 地元の慣れた人にはともかく、旅人には、少し見つけ難いところにある寺が、西宮の長林寺です。春は山桜の咲く綺麗な風景が見られそうな、そんな尾根に包まれるようにひっそり佇む、静かな寺が長林寺なのです。



長林寺山門


織姫山への登山道


山門前の池の景色
≪第二話 行道山・・・浄因寺(清心亭)≫

 もう四十年程も前、通勤途中の私が、駅で目に留めて立ち止まった、一枚のポスターがありました。きっと、夕暮れなのでしょう。秋雨の中に佇む、崖の上に建つ、一軒の庵が写されていました。凛とした中に滲むように寂しい風情が、堪らなく印象的でした。 あれから年月を経て、私が、三十六歳で亡くなった生父や、それに係る人々について辿っていくうちに、この庵と、父が深い絡がりのあることが分るなんて、その時の私には、全く気付く気配すらありませんでした。  

 私の父が、かつてこの庵に、二週間ほど籠って、物書きに没頭していたことを教えられたのは、足利で生まれ育った、私の従兄の一人からです。
「おじさんが、俺を後に乗せて、街中から自転車に乗って、行道山まで行ったことがあるんよ」、そう聞かせれたのは、今から二年程前のことでした。
 
そう教えられて、行道山に行かないわけにはまいりません。その後、私も、五・六回行道山参りをしてきました。ただ、残念なことに、あのポスターで見た、風韻を感じ取ることは出来ませんでした。建物が新しく建て替えられていたからです。

 先代のご住職にもお目にかかり、昔話を聞かせていただきましたが、多分、生父がお世話になっていたのは更に二代前のご住職の頃ではないかということです。生父が誕生して、百年目ということで、その父が三十歳のころの出来ごとであれば、七十年も前のことでもあります。きっと『バルザックの世界』を書き終えて、次の作品を書くために、庵を借りたのでは…と思っています。

 父の没後、評論家の平野謙さんが、「あと十年生きていたら日本文学史に貢献しただろう」と。そして、無頼派の作家、坂口安吾さんは「生きていたら文壇で、いくつも小さな風を巻き起こしていたに違いない」と記していました。そんな父のこと、この山奥の庵で、同人の作家仲間たちに負けない、いい作品をと、気負いを持って過ごしていたとしたら…何にも、父への記憶を持たない私も、出来ることなら、この庵で、若き日の父の思い出を辿って、一日を過ごしてみたいものですが、今は時代も変わってしまい、この庵に入ることは出来ないそうです。

 今の私の夢は、せめて一時間でも、この庵にいて、特に夏の日の夕暮れ、蜩の鳴く声に満たされていたい。そうすることで、何か時代を超えて、絡がるものでも見つかればと、淡い期待をかけています。行道山・浄因寺・清心亭、きっと心が洗われることと思います。 


浄因寺に向かう参道


清心亭遠景


行動山 浄因寺全景


≪第三話 渡良瀬川・・・猿田(やえんだ)≫

川の名の由来は、日光の二荒山に、日本最古の山岳信仰の礎を築いた、勝直上人が名づけたと聞き及んでいます。皇海山が源とされて、渡良瀬遊水地までの区域を渡良瀬川と呼んでいます。源流に近い、山に分け入った上人が、瀬を渡るのに、具合の良い所を見つけて、その場所を、渡良瀬と命名したことに、端を発しています。日光の二荒山に神を祀る、祠を建立する前のことですから、多分、今から千二百五十年程前のことかと思います。

 今回のあしかが散歩は、そんな昔の渡良瀬川の歴史や、川の地理についてではなく、あくまでも、足利市内を流れる渡良瀬川の、それも福猿橋(ふくさるばし)近くのことを、あれこれ考えてみたいと思います。 足利の市内には、上流の葉鹿橋から、下流にあたる、川崎橋に至るまで、九つの橋が架けられています。この中で、私が、特に興味を持っていたのが福猿橋という橋です。地名で言うと、猿田(やえんだ)という妙な地名に架かる橋です。

 私の生父が、この橋の近くで誕生していたからというのが、興味を抱いた理由ばかりではありません。この福猿橋を境にして、川の様子が変っていたからです。ここから上流の川底は、砂利になっていますが、ここから下流の川底は、砂混じりの、泥の川底となっているのです。
 では、だからそれがなんだ?ということですが、これが足利が、織物の集散地として、一時代を築くことになった、大きな理由の一つでもあるからです。 当時とは、川の流れも違ってしまいましたが、かつては、上流から激しく流れてきた渡良瀬の水が、岩井山にぶつかり、穏やかな流れに変わっていくのです。そのゆるやかな流れになった所に、船着場が造られていたのです。
 
 夜に、船着場を目指す、大きな燈篭が、現在も福猿橋の袂の、水神様に置かれています。海で言えばそれが灯台の役目を果たしていたようです。そして、この船着場の近くに、足利の名家である万屋(長家)の屋敷もありました。現在、市内に移設されている、茶室の物外軒も、その屋敷内に設けられていたものだそうです。 また、ヤエンダの語源は、アイヌ語の船着場との説もあり、また、古くから交易の行われていた、千葉県の銚子方向での、天狗様だという説もあるそうです。


福猿橋


福猿橋から望む上流


福猿橋から望む下流




≪第四話 足利学校≫

足利といえば、ばんな寺と足利学校、もう定番の有名な観光名所でもあります。今回私が取り上げた足利学校は、その中でも、図書館についてです。門を潜り、事務所を過ぎて、左側にある屋根の高い、洋風の応接間かと思わせる建物が、足利学校に付属する図書館です。それに隣接して収蔵庫も建てられています。図書館といっても、足利学校の図書館は、普通の図書館とは趣を少々異にしております。
 
 どこが違うかといえば、先ずここで蔵書している書籍の質です。日本最古の学校と言われる、足利学校のこと、そこで所蔵している古書も、質の高い、数も多い、秀れたものが集められています。
ちなみに確かめましたところ、国宝4種(77冊)、重要文化財8種(98冊)ということです。全国各地の、有名な寺院等で、博物館も併設している所は、多数あるようですが、学校としての図書館で、このような貴重な本を、多々所蔵している所があれば、ぜひ教えてほしいと願っています。

 それと、この図書館には、足利に所縁のある方々の、書籍も足利文庫として収蔵されているとのことです。私の生父・杉山英樹に関係する書物も、先年寄贈させていただいた数点が置かれています。生父は生前、5冊の本を出版させていただいておりますが、私の手元にあるものだけでは足りず、あと二点ほど探して、近日中に寄贈させていただく予定でいます。それで生父の書いた本はこれで全作揃うこととなります。

 建物の外見は、小振りな感じですが、隣接して、古書を守るための、完璧な収蔵庫もあり、改めていうまでもなく、国宝や重要文化財をしっかりと守るための、施設を有してもおります。所蔵の本の貸出しは致しておりませんが、足利学校に寄られた折りは、図書館にも入られてみてはいかがですか。

 その昔は、学生達にも利用され、近くの旧制の中学校(現在の県立足利高校の前身)に通っていた学生達も、その天上の高い、静謐な洋風な雰囲気の中で、勉学に励んでいたそうです。足利で生まれた私の父も、家が近くだったこともあり、狭い慌しい我が家よりも、ここに通って勉強をしていたそうです。その仲間の一人には、織姫山を越えて、長林寺の離れから通っていた、檀一雄さんもいました。授業を終えた、父や檀さん達の、同級生など、上級の学校を目指す学生達の、溜り場の一つでもあったのです。


足利学校 正門


足利学校 図書館・蔵書館


図書館室内





≪第五話 鑁阿寺(ばんな寺)≫


 足利学校に隣接する「ばんな寺」と言えばいいのか、「ばんな寺」の隣にあるのが足利学校といえばいいのか、そのくらいに有名なのが、足利氏にゆかりの寺でもある。大日如来を祀り、本堂や鐘楼などが重要文化財に指定された建造物が、ばんな寺です。ちなみに、旧制の中学生だった杉山英樹や檀一雄たちは、毎年の大晦日には長い列に並んで、この鐘楼の鐘を一つ突いていたそうです。

 でも、そのばんな寺が私にとって大切な散歩道のひとつなのは、その文化財としての歴史的な価値の意味合いではなく、実に個人的な理由で、短絡的な理由ではありますが、この寺の山門前に架かる「太鼓橋」が私の記憶の原点の大切な一つでもあるからです。
 私は四歳で母を亡くし、足利の新富町にある親戚の家に引き取られることになりました。その家が大日様(ばんな寺)の近くにあり、ある年の大晦日の晩に、従妹に手を引かれて除夜の鐘の音を聞くために訪れていました。そして、この太鼓橋の前で、何かに興味を引かれた幼い私は、従姉の手を離してしまい、迷子になってしまったのです。
 当時は、寺を廻る堀も深く、その堤も整備されておらず、高い木々も鬱蒼として、迷子になった幼い私は、寂しさも重なって、その太鼓橋がとても大きな橋にも思えて、闇の深さもあり、堀の深さにも恐怖を覚えて、その恐ろしさだけが、いつまでも忘れることのできない、辛い思い出として消え去ることがなかったのです。

 不幸にして、育ててくれた両親は、その恐ろしい記憶を忘れさせるために、『それは夢をみていたんで、そんな事は無かったんだよ』と言って、記憶を夢とをすり替えようとしたのです。しかし、それは幼い私が、嘘をついたように思えてしまい、物心が付いてからは、その記憶を封印しようと決めたのです。
それ以降、育ての親にも、他の誰かにも、あの迷子になった夜のことを話すことはなくなりました。
 今ともなれば、当時のことを、一旦は離れてしまった従姉に、あの大晦日の晩に、迷子になってしまった幼い私を探すために、彼女がどれだけ心配と苦労をして探し回ったか、そして、幼い私を見つけたときの喜びの話を、半世紀以上も過ぎてから、聞かされたとき、嘘をついていなかった自分にもほっとしたし、その事実を隠し続けなければならなかった、育ての親の苦悩にも気付かされたのです

 そして今、当時とは全く姿を変えてしまった、堀に架けられていた、当時と同じままの太鼓橋の上に立ち、心の傷の苦さも感じながら、穏やかに泳ぐ鯉の群れを眺めている自分を、不思議な物の様にも思いながら、何も無かったように、隣に立つ妻にも振舞ってみせていたのです。




鑁阿寺山門


山門前の太鼓橋


近年改修された堀割





《 第六話 大岩毘沙門天 ( 最勝寺 )

 


 何時の時代も、人は、住む街や、身の回りにあるものに、誇りを込める性癖もあるようです。この足利の街にも、日本三大…の一つ、と、呼ばれるものを持つ寺があります。私の知っているその寺は、一つは杉山の菩提寺でもある、徳蔵寺です。ここには、萬屋の長家が寄進したとされる五百羅漢が祭られており、これも日本三大五百羅漢の一つとされているそうです。
 そしてもう一つの三大…は、毘沙門天です。夜叉・羅刹を率いて、北方世界を守護し、財宝を守る神が毘沙門天とされています。今回、紹介させて頂くのが、その三大毘沙門天の一つを持つ、大岩山最勝寺です。足利の西に位置する、何面が大きく開けた、山の中にあります。この寺の庫裡は、尾根への登り口にあたる、谷合にひっそりと建てられています。

 今回の主人公は、その毘沙門天ではなく、大晦日の晩に行われている、「悪口(あくたい)祭り」と呼ばれている、珍しい行事についてです。最勝寺の本殿は、両崖山から行動山の続く尾根の下の、山の中にあります。江戸時代から発祥を遡るという、この奇祭は、戦後一時期中止されていたと聞いています。それがまた近年復活され。大晦日の夜中には、初詣もかねた参拝者も増えているそうです。
 山道から本殿に登る石段の中ほどに、広い踊り場があり、そこにある山門に、運慶の作とされる、仁王像が待ち構えています。かつての江戸期の昔人達は、この仏法を護持する、対の金剛力士像に、新しい夢を託すために、月明かりと提燈を頼りに、本殿に向かい、街中を抜けて登ってきたのです。たぶん、当時のことですから、旧暦の正月のことだったと思います。
 
 寒中の凍えるような寒さの中、仁王像の前に辿り着いた昔人達は、それが豊作であったか、嫁取りであったか、願いを心を込めて祈ったことと思います。ところが多くの人々は、前年の、願いもかなえることの出来なかった仁王に向かって、思わず大声で叫んだのです。
「獏(ばく)に食われてしまえ!」と。(注:中国では、人の悪夢を食べてくれるという、想像上の動物)仁王も人の口にはかないませんでした。
 
 それが、何時のころからか、「馬鹿野郎!」となり、更に、新暦となった現在も、大晦日の晩の、本殿を包む山中や境内では、「バカヤロー」の声が、闇に木霊しているのです。近年は、庫裏の近くにある、大きな駐車者の前から、山門の下の駐車場まで、深夜にもかかわらず、バスが無料で送迎してくれるようになりました。確かに、昔の風情は望むべきもありませんが、…もし、私も若ければ、昔を偲びながら、闇夜を歩きながら、昔人の心に触れてみたい、と、願ってもいるのですが…。



両崖山からの尾根道

山門への石段

運慶作と云われる仁王像





≪第七話 徳蔵寺≫


「あしかが散歩」の第3話で、渡良瀬川・・・猿田(やえんだ)というタイトルで、福猿橋を取り上げました。今回の徳蔵寺は、この福猿橋のたもと近くにある寺で、生父・杉山英樹の一族の菩提寺でもあります。

 わたしがこの寺を知ったのは、今から30年も前の事になります。杉山の家を継ぐべき英樹も36歳で亡くなり、わたしの母であるその妻も父を追うように他界し、わたしも養子として杉山の家を去ったため、杉山という家系が途絶えることになってしまいました。今から60年以上も昔の話になります。

 幸いな事にその墓地は、英樹の姉の三女・泰の子供達の手により永代供養も済ませ、また、寺のご好意もあり現在も守り継がれています。ということで、かつての杉山の家、父・英樹が生まれ育った家も、この徳蔵寺からは程近い、現在では渡良瀬川の河川敷の中にあったと聞かされています。

 この寺には、萬屋の長家から寄贈された、日本の3大五百羅漢の一つとされる羅漢像が安置されています。地元ではピンポン寺という愛称で親しまれている寺でもあります。特に建物が古く素晴らしいとか、杜が深く荘厳といった寺ではありませんが、足利にあまた数あるてらの中、わたしにとってはもっとも縁の深い寺でもあるのです。

 わたしは養子となって別の家の菩提寺と墓を持つ身のため、やはり育ての親の墓を守るのがわたしの務めでもあります。そんなこともあり時折の寄り道のような墓参ではありますが、命のある限り、通わなければならない寺でもあります。そして、この墓には、戦前の大女優、岡田嘉子と共に日本を脱国してしまった、英樹の姉の智恵子も、どうゆう因果なのか一緒に祭られています。





≪第八話 巖華園≫

過る十一月の二日・三日の両日、父・杉山英樹と同級生である檀一雄さんの生誕百年を記念する催事が、足利高校同窓会が主催し、足利文化財団などの後援により開催されました。その折にわたしが泊まった宿が巖華園だったのです。

この宿は檀一雄・坂口安吾を始めとする、著名な作家達、また、岡本太郎・森繁久弥等の画家や俳優のみならず、多数の政財界人も利用している、歴史のある宿でもあります。

実はわたしとゴルフ仲間達が、今度行ってみようと言いながら、今は、その仲間達も散らばってしまいとうとう行けなかった宿でもあるのです。20年ほど前に足利の外れにあるゴルフ場に通っていたわたしたちは、時に土・日曜と連日でプレーすることもあり、足利市内のホテルに泊まっていたのです。

納得のいかないプレーの後に、皆で行動山の麓にある練習場に立寄る度に、場違いな瀟洒な建物の前を通る度に、次はここに泊まろうと話し合っていたのが足利を代表する巖華園だったのです。その想いも果たせないままに、その後十数年たってそのグループも解散することになってしまいました。

そして今回、想いもよらない催事を開催して頂く運びとなり、この鄙びた庭園を持つ趣のある建物の宿に妻と二人お世話になったのです。宿の由緒ある歴史や由来等については、また所蔵品等の質の高さについてはわたしの拙文でまとめるよりも、旅館のホームページをご覧になって頂いたほうが格段の印象を持たれる事と思います。

わたしもまた、来年の遅い夏にもう一度、この宿に足を運び、畳の青い匂いを感じながら、秋の風が交じった部屋で、蜩の鳴く声を一杯に浴びながら、ぼんやりと酒を飲みたいものだと、心待ちにしています。

そんなわたしたちの忘れかけている、何か大切なことを、ふっと気付かせてくれる、貴重なときの流れを与えてくれる宿が巖華園なのです。


《第9話 物外軒茶室》

わたしは18年会という集まりの、会員の一人でもあります。何をする会かといえば、集まって情報交換をしながら、人としての品格を磨いていこうと、二十数年前から続いている、昭和18年生まれが十数人で作っている会でもあります。この会が足利とどう関係があるのかといえば、何もないのですが、この会の春の行事の一つに、ハイク&俳句という催しがあります。半日、近郊の寺や山路を散策して、格調の高い句を詠み、後の半日は湯で汗を流し、旨い肴と酒を口にしながら、下手な句を披露しあうというと、聞こえはいいですが、まあ揚げ足を取り合う程ではないにしても、要は、酒の肴に俳句を作ろうという程度のことなのです。ということで、参加する人間の俳句力の向上なんて、どこにも感じられません。

それで、持ち回りになっている幹事が、三・四年前に足利の散歩をする事を選んだのです。当然のこととして、足利学校や鑁阿寺(ばんなじ)や織姫神社も回りました。そして、最後に寄ってのんびりとくつろぐ時間を持ったのが物外軒の茶室で、静かで穏やかな午後を過ごす事になりました。かつて萬屋の三代目である長四郎三(ちょうしろぞう)により、明治初年に建てられた物を、現在の地に移築されたものだそうです。

この程良く手入れされた茶室で、友人達がガイドをして下さっていた長太三さんから、わたしの生父の話を教えられ、わたしに父のことについて何か書いたらと、そそのかされ、おっちょこちょいが幾つになっても治らないわたしが、じゃあと言って書き始めたのが、今年の二月中旬に発売された「血をわたる」という、昭和初期から現在までに至る、杉山という家と、それを取り巻く人間模様を描いた本となっていったのです。

…あの日、物外軒の茶室で寝転がって友人達にそそのかされていなかったら、「血をわたる」もなかったことでしょう。そして、この物外軒について私の父の英樹や、壇一雄さんたちが、見知っていたのかどうかも、思い返してもいたのです。