(出典・「二本松市史」 第9巻 各論編2 「自然・文化・人物」)
@没年月日・享年 A出生地 B死亡地 C墓所 D幼名・通称・字・諱・雅号など E伝記
 
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◆木村銃太郎 (二本松少年隊長 ) 
@慶応4年7月29日・22歳 AB二本松 C大隣寺 D貞信
E武衛流砲術師範木村寛治の長男、算学者渡辺東岳の曾孫に当たる。幼少より体格は人に優れ、15歳のとき
の競射に優勝している。18歳のとき藩命により江戸に出て西洋流砲術を学び、慶応3年末頃に帰潘し、父と共に砲
術の指導に当たった。戊辰戦争に際し、門下生16人と父の門人を合わせた12歳から17歳までの少年25人を率いて、
丹羽右近隊大大砲方として大壇口に出陣した。
  関連>>二階堂衛守(二本松少年隊副長)  山田光尚(少年隊・町長)
  ※更に詳しく知りたい方は、歴史的遺産コーナー「曹洞宗巨邦大隣寺(成田一丁目)」よりジャンプ!
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◆丹羽一学 (家老 ) 
@慶応4年7月29日・46歳 AB二本松 C大隣寺 D富穀・主税・友求
E代々五郎兵衛または一学を名乗り、番頭から執政に進むのを例とした家柄。慶応4年4月に番頭から家老に進み、
州越列藩使臣会議が白石城で開かれた時の藩代表。強硬に主戦論を主張し戦ったが、城の炎上を見て、丹羽新
・服部久左衛門を従えて自刃した。辞世「風に散る霞の我が身はいとわねど心にかかる君が行く末」。
戦後、戦争責任者として家名断絶の処罰を受けたが、のち、明治16年2月21日に家名再興が許された。
  関連>>丹羽新十郎(藩士)  丹羽和左衛門(藩士)  服部久左衛門(藩士)
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安部井磐根 (政治家・歌人 )
@大正5年11月19日・85歳 AB二本松 C法輪寺 D清介・良成。惣右衛門・真清水廼舎・梅叟
E藩士・勘定奉行安部井又之丞の子。弘化3年8月江戸藩邸に移り奏者番となる。本居宣長の国学に傾倒、万葉
等を渉猟、詠歌をよくし書は王羲之に学ぶ。明治戊辰の際勤王を志向し、会津・仙台潘への潘使者に随伴して帰
順工作に奔走した。明治3年から5年まで若松県の權少参事・参事などを勤めたが、のち帰郷。
  関連>>(藩士)安部井又之丞  (陸軍少尉)安部井香木  (詩人)小沢正夫
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◆上田用茂 (藩士 )
@宝暦3年12月15日・84歳 AB二本松 C大隣寺 D清左衛門・伊織・金五郎・蔵人・雹軒
E御用人・郡代を経て、元禄16年江戸城石垣修築の指揮監督を行い、成功して将軍家より褒賞を得る。のち先鋒
隊将、御旗奉行となり、享保14年越前国福井にある御廟参拝の使者をつとめ、到仕して雹軒と号す。文学・兵学に
精通していた。
  関連>>(藩士)上田義亮/梅原大善/加藤幸保/川木勘右衛門/神田正次/鈴木忠太/東條久達/東條幹孝
      東條幹武/内藤隼人/成田頼元/丹羽喜明/丹羽茂明/藤田八郎兵衛/藤田正教/星実良星実陳
      松井勝直/松井直規/松井慎太/三崎甚右衛門/三田保和/諸田安親/安井時僚/安井宗右衛門
      安井元恭/山岡権右衛門/吉岡方副/吉田守章/吉田守舒/依包佳芳/渡辺貫
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◆神田政久 (忠臣)
@昭和19年3月3日・73歳 A山形県鶴岡 B仙台市
E旧庄内藩士竹内茂承の4男。明治35年東京帝国大学法科卒業後、田倉岱洲の養子となる。明治45年から大正
3年まで二本松町長、明治44年から大正14年まで県会議員をつとめる傍ら、二本松銀行・二本松羽二重会社・二本
松電気会社の取締役など要職にあり、安達郡きっての実業家であり、また地方公共のために尽くした功績は大きい。
  関連>>井上安重(畠山家臣)  大谷信道(城代)  安井時廉(城代)  藤田直方(剣客)
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◆高橋信次 (世界的な放射線医学研究者 1912〜1985) 
@昭和60年4月2日・74歳 A二本松(松岡) B愛知県 C蓮華寺
E信次は明治45年(1912)1月28日、高橋定之助・サキの次男として、松岡72番地(旧番地・三春屋・松岡八坂
社社殿の北側)に出生。大正13年(1924)二本松町立第二尋常高等小学校を卒業後、旧制安達中学校に入
(この頃の住居は、現在松岡177番地三本杉家所有の駐車場の所)旧制第二高等学校を経て、昭和13年(1938)
東北帝国大学医学部を卒業、放射線医学教室に入局。
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◆野地菊司(眼科臨床医の権威 1867〜1940) 
@昭和15年2月25日・73歳 AB二本松 C光現寺 D蘇莽
E菊司は、慶応3年(1868)10月3日二本松町字栗ヶ柵に生まれる。曽祖父玄針は盲目であったが藩公の侍鍼
め、祖父玄信も同業を営む。また、父の宗固は手術に優れた名医として有名であり、脱臼骨折等の治療には独特の技
量をもっていた。しかし眼病を患い家運は衰退した。そのため菊司は眼科を学び、父の病を治し、また多く眼病患者を救
おうと強い志を立て、松岡の開業医長沢良中(旧藩校医学教授)に師事した。さらに明治15年(1882)福島医学校に
入学、のち猪苗代町の眼科医・宇南山誠一郎(文庵)のもとで2年間学んだ。
  関連>>野地忠司(医師)  長沢良中(医師)  桐生玄貫(医師)
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◆小此木天然 (二本松潘西洋医学の先駆者 )
@天保11年(1840)11月11日・56歳 AB二本松 C心安寺 D利沢・裕民・玄智
E天然は天明5年(1785)、江沼氏の子として出生、小此木家の婿養子となる。 同家初代の屋之は長崎で外科を
び、帰藩して松岡町で開業。2代貞安は寛政元年(1789)、側医となり100石を給される。
天然は3代として跡を継ぎ、長崎でシーボルトの門下生となり臨床実験と解剖学を学ぶ。そして、乳ガンの手術執刀
功し、患者は全快したという。
通詞木本正栄から当時新輸入の西洋大家内外二科の書を与えられ、日夜これを研究した。
  関連>>小此木間雅(藩医)  小此木忠七郎(考古学者)
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◆遠藤鹿山 (藩医 ) 
@寛政12年9月24・64歳 C少林寺 D好昌・宗英・停雲
E医を江戸で学び、帰郷して町医者となるがのち侍医に列せられる。また詩文にも長じて、成田頼綏・高橋質・中野
台・関屋致鶴・綿見謙伯らと詩社を結ぶ。
  関連>>(藩医)遠藤玄岱/斎藤耕雲/酒井周行/酒井玄輪/塩田頷庵/塩田良知/塩田中庵/関宗庵
       関口蘇庵/橋本宗針/長沢大中  (藩医・画人)長沢良元  (藩医・宗教家)熊田良得
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◆大沢悠久 (書家 )
@文久2年9月13日・72歳 AB二本松 C少林寺 D権次・半右衛門・成強
E藩士槙忠次の第3子で、大沢家を継ぐ。奥御祐筆より祐筆頭に進み80石を給され、ほかに20石の御手画を賜る。
荒木流書道の師範として、弟子は1千余人を数えた。特に行草二体を得意とした。
  関連>>大沢対鴎(書家)  杉内萬蔵門(書家)  武谷嘯雲(書家)  丹羽明斎(書家)
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◆安保実久 (武芸家 ) 
@寛保3年3月17日・71歳 AB二本松 C大隣寺 D勘解由・隼人・一郎兵衛・白水武極
E家禄400石。射芸を好み、伴直正より免許皆伝され、当時藩随一の弓術の達人と称され、木本広東ら多くの門弟
を輩出したが、晩年不行届があり職を奪われた。
  関連>>(武芸家)石松短明/加藤遠炊/加藤藤兵衛/清野正親/武谷/短明/丹羽明融/丹羽重明/花沢道護
       増子博人/山本彦右衛門/吉田守祀/渡辺未分/渡辺貫
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◆宍戸佐左衛門 (算学者・商人 ) 
@元治1年2月24日・84歳 AB二本松 C顕法寺 D正彜
E松岡町に住し、柏屋と称して米穀商を営む。算を好み、渡辺東岳の高弟として名をはせ、多くの門人を輩出。文政
9年版「古今名人算者鑑」では西幕下14枚目に位置された。
また、苗字帯刀後免、町検断補佐役に任じられ、仁慈・公共心に厚く、困窮者には米・塩・衣を与えて救助し、両社
祭礼には町内若連に揃いの衣服を新調して贈るなど篤志の行いが多かった。さらに同町の纏に分銅型を用いたのは江
戸消防6番組の纏を擬して製作し寄付したのが始まりとされ、「松岡の殿様」として尊敬された。
  関連>>(教育者)戸城伝八郎/明石健太郎/野辺保蔵  (算学者)渡辺東岳  (町人学者)中島黄山
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◆高泉性激 (僧侶 ) 
@元禄8年10月16日・63歳 A明国(福州福清県) B宇治黄檗山 D暾・仏国・雲外・曇華道人
E福州木檗山の慧門如沛に師事し、その法を学び、寛文1年隱元隆奇の招きによって来日し、京都宇治の黄檗山
福寺に遇する。同5年初代藩主丹羽光重に招請されて来藩、甘露山珊瑚寺を創設した。書家としても著名で中
書風を我が国に伝える。藩主菩提所大隣寺の扁額は高泉の筆によるものであり、また同寺には書幅が所蔵
されている。元禄5年宇治黄檗山第5世を継ぎ、中興の祖といわれている。
  関連>>(僧侶)太獄祖清/覚範玄洪/全祝/紋達/雪山コウ秀/孝道/智隆/智達/長全
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◆安藤義重 (神官 )
@昭和2年4月1日・83歳 AB二本松 D勝弥・淋・掬月・我里
E二本松神社の宮司。藩校助教授ののち、明治6年開校した松岡小学校の初代校長となる。また安積艮斎著著を
はじめ、多くの古文書・古記録の写本を手がけ小学校などへ図書教材として寄贈した。
  関連>>(善行者)加茂石松  (儒学者)香西宣秋  (修験者)貴岳坊/三蔵院  (舘主)秩父道閑
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◆塩田力蔵 (窯業研究家 ) 
@昭和21年2月3日・83歳 A二本松 B耶麻郡猪苗代町
E元治元年(1864)9月8日、若宮で半農半商(製粉業)を営む、「扇屋」塩田喜介の次男として誕生。松岡小学
卒業後、福島師範学校を経て、松岡小学校訓導、のち首席訓導。
明治18年(1885)陶器研究の大志を立て上京、雑誌記者となる。陶器の研究に没頭し、明治32年(1899)美術学
長岡倉天心に招請され、同校に陶器講座を開設。
  関連>>塩田喜介(商業)
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◆梅原親固 (日本蚕種会会頭 ) 
@明治15年9月12日・45歳 A二本松 C大隣寺 D吉之助・剛太左衛門・親則
E旧藩士時代、17歳にして潘老に建言し人材登用をすすめ、洋式訓練の兵制をはじめた。20歳の時、広間蕃より小
姓に挙げられ、つぎに少納戸役になり藩主に近侍して内政の整理を図り、寵遇があつく御側御用達となり200石を給さ
れた。戊辰戦争においては勤王帰順の説を唱えたが用いられず、戦後の藩主の周旋に活躍した。
◆山田脩 (実業家 )
@大正10年5月24日・81歳 AB二本松 C大隣寺 D省吾・権左衛門
E藩士梅原直次郎の次男、同山田友松の養子となる。維新後、三菱財閥の創始者岩崎弥太郎との出会いにより、
志を殖産(蚕糸業)に注ぐことを決意。明治6年小野組代理人佐野理八や実兄梅原親固らと共に二本松製糸会社
創立に参画、同年6月8日完成、18日創業を開始。梅原・山田兄弟の献身的な努力は相当のものがあったという。   
  関連>>(実業家)山田一/山田宗三郎
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◆田倉岱洲 (実業家・政治家 ) 
@明治43年12月2日・70歳 A越前 B二本松 C大隣寺 D物外
E明治11年横浜七十四銀行二本松支店長として移住、退職して当地に永住し巨万の財をなした。福島自由党の
有力党員となり、明治22年二本松町の誕生により初代町長・翌年県会議員に当選し、以来10年間在任し三度副
議長に選ばれ自由党・立憲政友会に所属し県政に尽力。
  関連>>田倉孝雄(実業家・政治家)
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◆熊田能範 (商人 ) 
@寛政11年10月1日・71歳 AB二本松 C光現寺 D平兵衛
E代々薬種業を営む、若宮町河内屋の3代。天明4年の大飢饉には、率先して窮民救済にあたり、その炊き出しには
一家総動員であたった。その功績により、町検断、苗字帯刀の待遇を賜る。
  関連>>(商人)宍戸金四郎/松坂庄八/渡辺乙介
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◆大沢成功 (士族授産功労者 ) 
@明治37年2月19日・66歳 AB二本松 C少林寺 D半右衛門
E藩士羽木郷介の次男で、大沢対鴎の養子となる。書道は達者であったが、維新後士族授産養蚕資金貸下願の
総代に選ばれ、尽力した結果許可され、一時的にも窮乏藩士の急場をしのいだ。
  関連>>(功労者)津田染子  (氷餅創始者)大谷桃  (才女)金子類  (雄弁家)斎藤弘
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