[ 松岡の遊廓 ]
松 岡 の 遊 廓
天保のころ、本町・松岡の町人総代らが両町の衰退を憂え、町奉行所を通じて家老丹羽備中に
嘆願した。その結果、天保2年(1821)に、城下繁栄策として本町・松岡に食売旅籠(飯盛女)が
許可された。家屋も一般店舗より優れた建築を許され、建築や改築に当たっての費用は藩が斡旋
した。有利な条件であった。当時、本町・松岡の営業者は14軒であったが幾度か盛衰があった。
文久2年(1862)には極度の衰退を見たので、町人総代文左衛門外1名が町奉行所に嘆願書を
提出し、はじめて売女としての許可を得た。
その後、明治35年(1902)には営業者は僅か7軒となったが、同年官命により本町・松岡での営業
は禁止され、根崎の大原に移転した。しかし、一部の業者は福島市に移転して、一本杉(現在の
矢剣町)の遊郭として繁栄した。
 
 ◆松岡165番地 小島喜一宅 「米花楼」 野津道貫大将療養の宿
 ◆松岡177番地 三本杉家所有地 遊郭・折檻部屋 高橋信次博士が居住
 ◆松岡195番地 菅野正喜様宅 「三春屋」 高橋信次博士誕生の地
[ 商家 ]  @出店地  A屋号 B町役職・褒章格式 C菩提寺 D略伝
 朝倉理兵衛家
@若宮 A堺屋 B与力格 C香泉寺 
D初代理兵衛(近行、文化7年没)は木幡村出身。
味噌醤油製造販売を行い、のち質屋業も兼ね一代で千金の富をなした。
2代理兵衛(甫副、天保9年没)、3代理兵衛(喜忠、天保8年没)は共に優れた商人でこの頃が
全盛期といわれ「堺屋には400人分の宿泊用具と100枚余の緋毛氈と20枚余の白毛氈が常備さ
れている」とうわさされたという。また文化代の御両社再建功労者のため、例祭時には同店前が神殿
帰還前の神輿休憩所となる。以来昭和初期まで継承された。
 朝倉宗三郎家
@若宮 A堺屋 B検断 C香泉寺 
D朝倉理兵衛家2代甫副の弟彦兵衛が分家して小間物商を営む。天保代に若宮町検断となり、
藩末期には表通りに屋敷を数ヶ所持つほどになった。藩末期〜近代の宗三郎(民輿、明治37年
は、士族授産のため明治8年6月に二本松紡績工場を創業、苦難の末経営も順調になったが、
のち社会の急変や宗家の没落により閉鎖にいたった。なお、明治9年天皇御巡行の際、二本松製
糸会社において女工の作業を天覧に供している。
 尾平惣吉家
@若宮 A尾平屋 C龍泉寺
D藩末期の褒誉に名はみられないが、この頃から頭角を現し荒物雑貨等を取り扱い、戊辰戦後の
惣吉の代になって急速に浮上したとみられる。呉服太物卸と雑貨商を営み、当時町内でも一、二を
競う繁昌で「尾平屋には7つの藍瓶があって、その中に黄金が一杯詰まっている」との噂があった程で
ある。のち経済事情の変改もあって材木商に転じたが、旧態に複する事はなかった。尾平惣蔵は当
の出身である。
 熊田平兵衛家
@若宮 A河内屋 B郷士格 C光現寺
D初代平兵衛(無元)は安積郡河内村出身で、享保以降若宮で薬種商を営み、2代(禄忠、宝
永6年没)を経て、3代(能忠、寛政11年没)の時全盛を極め奥州一と評され、天明飢餓に際し
1万3千人余の窮民を救ったことにより検断並みの褒誉を与えられた。その後、家業は益々発展し
間口10間の大店舗を構えたが、6代(善之)の代に戊辰戦争のため家勢は衰え始めたという。
 宍戸
  佐左衛門家
@松岡 A柏屋 B町年寄並 C顕法寺
D佐左衛門(政彜、元治2年没)は算学者として著名であるが、商人としても嫡男金四郎(明治15
年没)と共に成功している。当初は米穀店を開き、のち蚕物商を営み繁栄し、貧窮者に対する施し
等は勿論、御両社祭礼の際の字分若連んお揃いや消防組の纏の寄付は今でも語り伝えられ、
「松岡の殿様」と称された。明治9年天皇御巡行の時には、岩倉具視の宿舎、大久保利通の休憩
所にあてられた。
 松坂
  善左衛門家 
@若宮 A松坂屋 B与力格 C香泉寺 
D蒲生家に従い二本松に入ったといわれ、勢州屋等と共に旧家といえる。若宮に住し酒醤油業を営
み丹羽家入封時にはすでに大商人であったと考えられる。初代(寛文2年没)は丹羽家城下整備に
際し、独力で城門(松坂門)を献納したと伝えられている。その後は代々繁盛し、仏教を尊信し民生
に寄与する所が多く、特に5代(安永8年没)は菩提寺に銅造阿弥陀仏を建立している。14代(明
治31年没)まで繁栄したが、その後は転出した。松坂屋の類族は多い。
 松山弥惣太家
@若宮 A大和屋 B郷士格 C龍泉寺
D加藤嘉明に従って二本松に入り若宮で店を開いたといわれ、別に加藤家旧臣の説もある。
寛永9年没の墓碑が初代とも考えられる。累代の墓碑や天明飢饉の際の米買入れ使者、水戸家と
の縁組からみて、草創期から繁栄した家柄と思われる。分家に松山宗介家(本町 旅籠)、松山庄
八家(亀谷)がある。宗介家には潔松(昭和13年没)、庄八家には庄八(俳人、天保9年没)・正八
(彫刻師・俳人、号八年斎丁酉、明治9年没)らがいる。