◆戸城伝八郎 (教育者 )
@昭和9年1月30日・73歳 AB二本松 C大隣寺
E明治16年東京師範卒。福島師範教諭となり教育会の創立、教育雑誌の発刊に尽力。同19年教諭を辞して上京
日下部三之助らと雑誌「教育報知」を発行。同30年教職に復して福島高女首席教諭、のち福島県視学、次いで静
岡県視学となるが、教科書事件大疑獄に連座して免職となる。事件終決後、中国に渡り、文化事業、教育事業に携
わる。「二本松藩史」の編纂に参画。
◆明石健次郎 (教育者 )
@大正9年8月1日・66歳 C少林寺
E給人格日下部左平の次男、明石家を継ぐ。文筆の才があり、令兄日下部三之介と共に上京し、帝国教育会の創
立、また雑誌「教育報知」の発刊に尽力した。
◆野辺保蔵 (教育者 )
A安積郡多田野村 C龍泉寺
E安積郡多田野村の片吉半助の弟で、藩士野辺減十郎宣健の長女の婿となる。福島県教育界の機関紙「福島県
教育」の編集主任となり、次いで小浜・岳下・上川崎等の小学校長を勤める。この間、「安達郡誌」の編纂にあたる。
東野辺薫の父
◆宍戸佐左衛門 (算学者・商人 )
@元治1年2月24日・84歳 AB二本松 C顕法寺 D正彜
E松岡町に住し、柏屋と称して米穀商を営む。算を好み、渡辺東岳の高弟として名をはせ、多くの門人を輩出。文政
9年版「古今名人算者鑑」では西幕下14枚目に位置された。
また、苗字帯刀後免、町検断補佐役に任じられ、仁慈・公共心に厚く、困窮者には米・塩・衣を与えて救助し、両社
祭礼には町内若連に揃いの衣服を新調して贈るなど篤志の行いが多かった。さらに同町の纏に分銅型を用いたのは江
戸消防6番組の纏を擬して製作し寄付したのが始まりとされ、「松岡の殿様」として尊敬された。
◆渡辺東岳 (算学者 )
@天保10年10月7日・72歳 A信夫郡土湯村 C法輪寺 D一・治左衛門・貫郷・西河
E父に関流の算法を、のち会田安明に数年間師事して最上流算法を完成。関流と最上流の併用で算法が一層円
熟し、会田門下四天王の1人と称され、最上流2世の学統を継承する。藩算学師範として藩校教授となり、門弟には、
佐久間庸軒・宍戸佐左衛門・たかだ分量・丹治庄作など数百人を数えた。また岳温泉埋没後の引湯工事を完成させ
た。算学の傍ら俳諧にも親しんだ。弟に蝶六、子孫に木村銃太郎がいる。
著書に、「身之加減」「神通陰陽巻」「砲器製作算法」等がある。
◆中島黄山 (町人学者 )
@明治3年11月9日・56歳 A二本松 C松岡寺 D淳・大初・長蔵
E家は代々亀谷で蚕種紙業を営み、屋号を中屋または種屋と称した。幼少より学問を好み、藩儒鈴木尭民の門に入
り研鑚を積むこと数年、書・詩をもよくした。勤王の志厚く、諸国を遍歴してえ藤田東湖・斎藤抽堂・柳川星巌らと交友
があった。戊辰当時は藩命により奥羽諸藩との調整にあたり奔走し、戦後はその処理にあたるなど、戊辰前後の活躍に
は目覚しいものがある。維新後、藩校教授となり、さらに新潟県大属・同県小惨事を歴任。
著書に「中庸解」「月課私録」「池南草堂録」「黄山日誌」などがある。