●丁寧な字ときれいな字●(06/15)

「もっと字は丁寧にかきな」
と、塾講師のバイトをしていた時、生徒によく言った。
「そんなこと言ったって、字汚いんだもん」。必ず言い返される。
「丁寧な字と、きれいな字は違うんだぞ」と、私。


人に見てもらう時。人に伝えたい時。字を一生懸命丁寧に書くこと。
それは読み手への心遣いだし、敬意にもあたる。
例えそれがへたくそでも、みみずがのたまったような字であっても。
それでも、丁寧に書けば、雑に殴り書きしたのよりは、気持ちが伝わるし、読む気もする。
そりゃあ、きれいなことに越したことはない。
けど、「一生懸命丁寧に書いた結果」がイコール、「きれいな字」とは限らないし、
「きれいに書こうと思って丁寧に書いた字」が「きれいな字」とも限らない。
それでも、丁寧に書こう、という努力だけでも大切だし、評価されるべきだと思う。

だから、きれいな字ばかり評価されるのはおかしい。そして、
きれいな字がかけないから一生懸命書かないとか、
きれいな字がかけないから字を書くことをぞんざいにしたりとか、、
書くことそのものを辞めてしまう、とか、
一生懸命丁寧に書いた字がきれいじゃないから人にけなされる、というのはおかしい。
ただ整ったきれいな字よりも丁寧に書いた字の方が味があるってことも多々ある。
丁寧に書いた字や、その努力は心を動かす(と思う)。価値がある。
「・・・だから、字は丁寧に」。
幾度となく言ったような気はする。が、果たして誰か覚えているかしら。
これって結構深い。


「一生懸命努力した結果が成功するとは限らない」。
私はスポーツの世界でこれを痛いくらい悟ったし、一般社会にも沢山あることだと思う。
でも、成果が出なかったとしても、努力することが無駄なことだとは少しも思わない。
いいことだと思う。
いつも向上心をもって実行するというのは。疲れることだけど。
それに、いつもいつも形の整った「きれいな字」だけでは人生もつまらない。
いろんな形の字−時にはとっても美しかったり、時にはつぶれていたり、極端に右上がりになっている−があってこそ、味のある人生。


でも、私は憂えている。
目に見える「美しさ」。
例えば、スマートであること、器用であること、世渡りがうまいこと、頭の回転がいいこと。
そういうもともと人に備わっている「能力」だけが、賛辞されたり、評価されたりすることがこれからもっともっと多くなるのではないかと。(全然評価されないのも考えものだが)
代表的な例では、不況の中で優秀な学生だけを少数取ろうとする企業。
そして、努力と、それに伴う実績を数字にして評価しようとする「能力主義」を採用する企業。

利益追求なら、当たり前のことだし、努力して成功した人にはこの上ないことだ。
でも、一生懸命書いているけど、結果的にきれいな字がかけなかった人、つまり、
影で努力をしたのに報われなかった人は?
不器用で、頑張ってはいるけどどうしてもうまく作業ができない人は?
世渡りが下手な人は?
実績もそこそこ残したけど、自分をうまくPRすることが苦手な人は?
即戦力ではないけれど、秘めた力を持っている人は?
そして、障害者は?

社会につぶされてしまわないだろうか。
人生を狂わされたり、努力することや生きてゆくことを投げてしまわないかなぁ。
だれが、そういう影の部分を見るのだろう。
そういう部分が、ばっさり切り捨てられたりしないだろうか。
そうすると、ほんの一握りの人々にしか「富」はなくなってしまう?
確かに共産主義は古い。でも、手放しに実力・能力主義をもてはやしていいのかなぁ。
(なんだか小難しい話になってしまった・・・。)


こういう世の中でも、いつも丁寧な字を書き続けていたいと思う。
きれいな字ばかりでなくてもいいから。
それから、結果だけでなく、目に見えるものだけでなく、見えないところも見る努力をしたい、と思う。
美しい字を見るよりも、不恰好でも丁寧な字をみて感動できるように。
人でも、ものでも、そこにあるものに、流れているものに、きちんと気づけるように。

だからね、「いい顔」って言われて嬉しいです。
「いい顔」は、きっと、「美しい顔」に勝つと思うから。最高な誉め言葉をありがとうございます。Kさん。

今日のこのテクストなんて全然「きれいな字」じゃない。
(もー全然うまくかけなかった・・・反省。)でも、「丁寧な字」ではあるよ。いつもね


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