― ⅰ 訪れた黒騎士 ―
耳を聾する雷鳴とともに
大地は大きく揺れ 引き裂かれた
建物はすべて倒壊し 山は崩れ 土石流が
樹木を 田畑を 家々を 押し流した
やがて巨大な津波が 海岸沿いの国々を襲った
荒廃しきった広大な大地に かろうじて生き残った人々は
傷つき 呻き 愛するものの名を叫び さまよっていた
しかも今や病と飢えが さらに多くの悲惨な死をもたらそうとしていた
その地に 寒風とともに 略奪の黒騎士が姿を現した
彼を守護する魔の馬の 暗い影に騎乗して
（彼もまた、私の円卓の七人の騎士の一人であった）
黒騎士はただちに略奪を始めた
魔物に命じ諸国を駆け廻ったのだった
遠く安全な地で 莫大な財と驕慢におぼれる富裕者は
商人も貴族も王侯も 財の十分の1を残して すべて略奪し尽くされた
貴人や富裕者のみを相手に安逸な暮らしを満喫していた医師たちも攫われ
黒騎士の鋭い剣に脅かされて 多くの弟子たちとともに窮民の治療に専心させられた
莫大な財で購入された厖大な食糧や医薬品が 惜しげもなく人々に行き渡っていった
黒騎士の後宮の百人余の女性たちも 寝食を忘れて労し 窮民の生活の再建を支えた
かっては手を汚すことのない深窓に暮らしていた奥方や令嬢たちであった
黒騎士に誘拐され 操を略奪され 貧民の女の仕事を強要され
一度は心の底から彼を憎悪しきった女性たちのはずであった
神をも恐れぬがごとくの逆賊 黒騎士
わずかに寝をとる短い夜 しかし彼が少年のように怯えて眠るのを 私は知っている
黒騎士が怯える?
莫大な賞金が彼の首にかけられ 憎悪する者・暗殺者は引きもきらず
しかし彼はそれを恐れない
愛する後宮の女たちも 女の誇りにかけて
いつか復讐の機が来るのを拒みはしないだろう
しかし彼はそれも恐れてはいない
窮地を脱した人々も 拝むように見あげていた彼を やがて疎んずるだろう
悪霊の化身に違いない不気味な馬に乗った彼を どうして信じきることができるだろう
財を奪われ憎悪をする人々の群れは あの地震さえ
実は彼がもたらした災厄だと言いふらすだろう
しかし裏切りも背信もいわれのない非難も孤立無援の孤独も
彼は恐れはしないだろう
彼が恐れるのは…
彼は魔物に魂を売り渡す契約を交わしていた
旅の途上で賊に撲殺されようとしていた領主を救い出したことがあった
領民を餓死寸前に追い込むほどの搾取を続けていた暴君だった
自分を襲った領民への残虐な復讐に 協力を求められ 初めて事情を知った彼は
命の恩人の権利として 悪逆な支配の廃止と改心を要求した
薬の入った酒にはめられ 気づいたときには 水牢の中で鎖につながれていた
餓死寸前の14日目の夜 その魔物は あろうことか父親の姿で現れた
七つの大罪のすべてを犯しつくし 放蕩の果てに身を滅ぼした憎むべき父王の姿で
あふれる美食・自由・富・地位・権力・快楽… どんな誘惑も受けつけない彼に
ため息を漏らしつつ 悪霊は 次のような提案をした
「こんなところで死んで何の益があるというのだお前は
お前の魂は 俺にとって極上の美食なのだよ
ふむ ではこれでどうだ 俺はお前の下僕になる
父親の犯した七つの大罪の 一つでも犯すことがなければ お前は自由だ
一つでも犯していたら 40歳の誕生日より お前の魂は俺のものだ」
七つの大罪 それは 嫉妬・怒り・怠惰・大食・色情・強欲・高慢
それらに溺れ 我を忘れること
そして40歳は 父王が彼の父となった歳…
以来 彼の騎乗する魔物は 暗き影のような馬となり
どんな重い荷を負っても 風より疾く 意のままに走った
黒い騎士の略奪の手始めは かの暴君の財のことごとくを
その領民に分かち与えることであった
領主はかろうじて生きていける遠き孤島に
贅沢なその家族ともども置き去りにされた
― ⅱ 七つの大罪 ―
七つの大罪 ― 嫉妬・怒り・怠惰・大食・色情・強欲・高慢
人間存在の現状そのものを愚劣と考える彼に 嫉妬 の対象はいなかった
怒り・怠惰・大食・強欲 ― 唾棄すべき父王の本質そのもののようなそれらは
それゆえに 彼にとっては溺れるようなものではありえなかった
色情 ― 彼は多くの宝石のような奥方や姫たちを攫い
その操をいとも簡単に陵辱したが それは色情ゆえではなく
昼間は多くの貧民や百姓の娘の恥知らずな陵辱を暴力的に繰り返しておきながら
夜は富貴の館の女性たちを 命を懸けて守るだの やれ決闘だの
至上の価値だのとか言って 騒ぐやつらの馬鹿馬鹿しさを
笑止千万に感じたからだった
陵辱の後に身ぐるみ剥いで汚れた野良着を着せれば
至上の価値と仰がれた女のほとんどが
ただの百姓女と変わるところはなかった いや
傲慢さがないぶん たいていは百姓女のほうがましだった
戯れに 奪った豪華な衣装でととのえさせれば 見事に証明されてしまうのだった
その後の浅ましい諍いが嫌で 衣装は女達の目の前で 燃やされた
やれ万金の価だの 一生働いても手に入らないだの 阿鼻叫喚の悲鳴が
貧しい女たちの口からさえ発せられたが 知ったことではなかった
自分たちを餓死寸前に追い込むような憎むべき搾取によって
支えられた着衣への欲望を 認めてしまうことに
他ならないのを どうして気づかないのだろう
高慢 ― 七つの大罪はすべて彼が最も嫌悪する存在である父親の属性であり
すべてについて彼はこれから遠ざかることを心がけていたが
これが一番危うく 彼の恐れるものであった… ？
高慢ゆえに悪魔に魂を奪われ地獄に落ちる
しかし彼はこれを恐れていたのでもなかった なぜなら
第一に 彼は｢今｣しか信じてはいなかった
存在するのは｢現在｣のみ 「過去｣は既に無く 「未来｣は 架空 に過ぎぬ
現時点のこの感覚が最高であり それ以外は存在しない だから
苦痛も現在の苦痛が常に頂点であり 常に今を耐えれば これ以上の苦痛は存在しない
少年期に度重なった父王による虐待 騎士となり罠にはめられる度に加えられた拷問
これらの体験から 彼は一つの哲学を持つにいたった
「恐怖とはありもしないものへの恐れに過ぎぬ
逃ぐれば妄想も恐怖も苦痛も無限に増殖する
立ち向かい 見極めよ 存在は現前し己が眼に捕らわれているものの他には 無し」
というものだった
第二に彼は 死 を恐れていなかった
ギリシャの哲学者の言ったように 死があるとき自己はなく 自己があるとき死はない
だから死を恐れるのは 無意味なのだ
第三に彼は魔物との契約そのものを馬鹿にしていた
七つの大罪に我を失う だと？ 彼は苦笑しながら思い起こしていた
情欲のさなかにさえ我を失うことができない呪われた俺だぞ…
「呪われた我」 言ってみてから彼は自分の言葉に少しぞっとした
そこに なんとなく悪魔の罠が潜んでいるような気がしたからである
ふん ここに何かしら謎があるかもしれないな しかしまあ冷静に考えてみることだ
恐れるようなことではない
しかし 騎士になる頃から 彼は自分の中に何か漠然と恐れているようなものが
ある気がして その部分がいつも霧がかかっているようで
釈然としない思いもあるにはあった それとも結びついているような気もする…
ダメだ このような妄想そのものが むしろ悪魔の罠なのだ
「存在は現前し己が眼に捕らわれているものの他には 無し」だった
彼が恐れていたのは 高慢ゆえに悪魔に魂を奪われ地獄に落ちることではなく
「高慢」 そのものだった
彼も 内心 微かに それに気づいていたのだったが
しかしそれは もっと深い謎とも結びついたことでもあったのだった
― ⅲ 出生の秘密 ―
かの白銀の騎士と同様
血族や祖国と闘うことも 最悪の汚名も孤立無援の境遇も
彼は恐れはしなかったのだが…
話は若き日の父王に遡る
嫡子が欲しくて すでに五度の結婚を繰り返していたが
どの妻も愛人たちも 彼にただ一人の子さえもたらすことはできなかった
身分を問わぬ代わりに 子を産むことをもって正式の妃とするという罰当たりな契約に
後宮はすでに10名の女性を抱えていた
五度目の妻にも失望し 老いた魔女に占いを求めたとき
あなたには人間の女を孕ませる子種はありませぬ と言われ
激怒のあまりに魔女を焼き殺したのが 思えば大罪の手始めだったのかもしれない
怒りを静めるために深い森に狩に出た 道に迷い
ついぞ耳にもせぬ エメラルドの沼に行き着いたが そこで見つけたのが
エルフにも見まがうような美しい乙女だった 記憶を持たず汚れ彷徨っていたのだった
王は真の意味で初めて愛に溺れ 深く愛し合って
新妻は月満ちることなく息子を産んだ
後宮の女たちはこぞって王の耳に毒を吹き込んだ
早産の御子でしょうか あなたには子種はないはず
あれは森の妖婦です 誰とでも寝ると聞きますよ
己が疑心の核の火に油を注がれて 嫉妬に怒り狂った王は 愛する人を烈しく打擲した
身も心も捧げた最愛の人の怒りの理由が分からず 子をかばって泣くばかりの妻に
ついに本音が投げつけられた 誰の子だこの淫売め！
しばし呆然とした妃は やがて 氷のような目で彼を見かえした
ぞっとした王は 怒りのやり場も失って 部屋を出た
彼女は二度と王を近づけなかった
王が酒と美食・後宮の女たちとの情欲に溺れて日々を過ごす間
妃は心虚ろなまま 息子を育てるのだった
どのようにその子を育てたのだろう 10年が過ぎると息子を残したまま
彼女は忽然と森の奥に姿を消した
ひたすら怠惰となり 浪費に耽る王によって領国はすでに傾き
王はますます吝嗇に強欲に 領民から税を搾り取るのだった
残された王子はそんな父を冷めた目で見つめるのみ その目が母にそっくりなのだった
こうして子息への虐待が始まった
「いにしえのエルフの言い伝えをお聞き及びかな 」
最も古代の魔法使いの化身との伝説がある 私たちの古い円卓が
彼に声を発したのは 彼が騎士に加えられて間もないことだった
「深い夜の湿りが 輝く朝露を生むように
もともとエルフ族は 地に生きる人間の悲しき願いと祈りが
天上に昇華して生まれた種族じゃ
じゃによって 彼らは生あるものを食さぬ
透明な水と空気と星々の光によってのみ生きておるのじゃ
人間的なあらゆる罪から離れ永世に生きるごとき彼らは
自らを人間よりも神に近しい存在とひそかに感じておるのじゃが
実はきわめて深く一つの罪に染まっており それゆえ
数百年を単位として 種族としてしだいに破滅に近づいていく宿命にもあるのじゃ
言葉に尽くせぬほど美しい彼らの国々もその都も彼らの姿態も
透明さをさらに高め やがてかすみつつ そのまま消滅してゆくという宿命にな
罪の名は 高慢 じゃ 人間から源を発しながら
彼らは生に汚れるものを蔑視する感情から 自由になりがたい種族なのだな
この呪われた宿命から逃れるために 二百年に一度 一人のエルフの乙女が選ばれる
彼女は地上に降り 人としてのあらゆる汚辱を味わい尽くさねばならぬ
しかも けだもののごとき人間の男を真に愛して 命を賭けその子を産まねばならぬ
その愛が真のものでなければ 激しい出産の痛みのうちに
その子とともにただ虚しく命を失うのみなのじゃ
これらの一切はエルフとしての記憶を失ったままに成されねばならぬ
すべてが成就された暁には 彼女の帰還とともに その苦しみと涙を共にしていた
エルフたちは 再び確固とした美の世界を生き生きと回復するのじゃ…」
「では 私の母は エルフの乙女だったと ? 」
「そうじゃ おそらくのう しかし10歳までとは
長くて３歳までと聞くがの… 」
― ⅳ 母と息子 ―
母は わが子を抱き やがてはその小さな手を引いて 日々野山を歩いた
紅葉する山や森 冷たく透明な水が揺れ 底に沈む落ち葉
霧が湖水から川面から 牧場に草原に流れる そして夕焼け
枯葉が舞う林 秋空を渡る鳥の群れ
庭の霜 ちらつく雪 雪空にかすむ陽 湖面の氷
朝 いちめんの銀世界 きらめく樹氷 獣たちの足跡 透明な氷柱
積雪の下の若草の萌え 雪解けの音のしたたり まばゆい陽光
早春の花々の匂い 朧に霞む夕月 金星の輝き
一斉の開花 鳥たちのさえずり 花の乱舞
萌黄色の林 若草の匂い 草原を渡り光る風
青空 緑の丘 そよ風と川のせせらぎ
やさしい雨 雫たちの調べ 波紋 水面にうつる雲
雨に濡れ微かに震える草花 流れを集める川の音
雷雲と雷鳴 積乱雲 雲たちの狂宴 大風に揺れる樹と森
金色の麦畑 夏の月 虫の声 …
時に頬を寄せる母と同じ視線で
樹を見 雲を見 花々を見 水のきらめきを見た
母は無口なままに この自然なる世界の美しさと
生きる幸せを 教えたのだった
やがて息子は 自分と母の存在を忘れ
風のように雲のように
自然の美しさの中を漂う すべを身につけた
二つの意識はすでに一つに 溶けあったようだった
彼は紅葉とともに宙を舞った
透きとおった水とともに川を流れた
霧となって草原や林をめぐり
霜となり雪となって木々に積った
氷となって湖面に張り
風となり獣たちの耳や体に触れた
朧に霞む大気となって 花々の匂いと交じり
鳥たちと共に囀り飛び
冷えた空気の中 はるかに地上を見下ろしながら
空を越え 山と海を越えて
遠くの島に渡った
雲の中から雨となって落ちると
心やすらぐ調べをかなで
波紋となって 水面に広がった
小さな魚になって湖底に沈み
透明なゆれる湖面をとおして
雲が流れる 夏の空をながめた…
一つと思われた心の奥に 自分に届かない悲しみの扉があるのに気づいたのは
九歳をすぎた頃だった その扉の奥で母は一人涙を流し続けていたのだった
母は 彼の心に 自分の物語を伝えはじめた
― ⅴ エルフの乙女 ―
衰弱しきった乙女を森のはずれで発見したのは 貧しい農家の夫婦だった
温かいスープもパンもすべて吐き戻した
肉片の入ったシチューには最も激しく嘔吐した
ひもじさの苦痛 空腹の恐しい痛み これらを経て
食物を口にする喜びを初めて知った
農家の仕事を手伝った 単調で過酷なつらい一日を終えての夕刻は嬉しかった
泥のようにねむる心地よさ さわやかな朝 そしてまたつらい一日が始まる
つかの間にひとりで過ごす夕刻に 森への散歩に誘われた 何の警戒もない彼女だった
とびぬけて美しい彼女だったから たいていの男は かえって遠慮していた
最も乱暴なずるい男が 彼女の無邪気さにつけこんだ
彼女はその夜の記憶を消し去りたいと悲しんだが
若い男たちの間で激しいいさかいが起こり まじめな農家の夫婦は
彼女の妖しさを疑って 家から追い出した
ひもじさを抱えて森をさまよう彼女に 男たちはもう遠慮はしなかった
わずかな食べものや寒さをしのぐ粗末な寝具・衣類
そんなものと引き換えに 男たちの欲望のはけ口になった
女たちは彼女を蔑視し罵倒したが 彼女にはなぜ
男たちがそんなにも自分に夢中になるのか分からなかった
絶望して死にたく思う度にさまよった森の奥で
小さな美しいエメラルドの湖に出あった 冷たい湖水で身を清めると
すべてがぬぐわれ もとの自分になったと思えた
食糧に困らなくなったある日 最初のあの男がやってきた
激しく抗ったが 手ひどく陵辱したあげく
愛する家族への手土産だと言って 男は食糧もめぼしい衣類もすべて奪っていった
「楽しみにしていな また来てやるから…」と言い残して
汚れ傷ついて 今度こそあの湖に身を投げようと思ったとき
かの父王に出会ったのだった
一目惚れした王は はじめて女性への愛に溺れた
自分を愛おしんでくれるその優しさに包まれて
彼女ははじめて安息し 男の愛を受け入れた
日々 二人は お互いの愛に溺れ耽けり
目くるめくような時を繰り返し 飽くことがなかった
出逢って五ヶ月 幸せと愛の日々の絶頂で妊娠を知り
それからわずか三ヶ月 死を乗り越える恐ろしくも不思議な夢の後に
彼女は小さな息子を産んだのだった
「どんな 夢だったの？」
「あなたも見るわ きっと もうじき… 」
十歳になった夜 彼はその夢を見た
― ⅵ 永遠の夢 ―
それは世界そのものを見る夢だった
世界は 想像できる大きさの限界の さらに幾万倍を超えるより大きいものだった
その巨大な球体の世界の中で 砂漠の砂粒よりも小さな自分を 思い知らされ
驚愕に渇きあがった咽喉からは 言葉もでなかった
ところがその球体から それを小船のように浮かべる
大海原の 彼方にあるような太陽は
想像を絶して巨大だった世界が
その眼球より小さく喩えられるほど 厖大な巨人のような球だった
そしてその太陽が 大海に浮かぶ１個の塵のように思われるほど
果てしない闇の空間の果てに 最初の恒星があった
しかしあまりの衝撃に ついに意識が遠のいたのは
この光る塵が無数に集まって 渦巻く雲のように見えるという
銀河の姿を知ったときだった
もはや正気が保っていられないと感じた
これらがすべて永遠大の事実だという確かな感覚があり
しかもその永遠の宇宙さえ 極小の一部にしてしまう真実が
予感される恐怖のさなか 意識は失われていった
いったいどれほど時が過ぎた後であったのか
たゆたうように 意識が回復していくと
身の震えと怯えは 少しずつおさまっていった
ふと 身の回りの世話を手伝ってくれる老女が教えてくれた
世界を七日間で作ったという 創世記の神のことを思った 人の姿に似ている神…
それは今 あまりに馬鹿馬鹿しく幼稚な童話に思えた
ここには人の想像を超えた悠久の時のながれがあり
神という存在があるとすれば それは人の姿などのはずがない
それはこの銀河の姿にこそ近いに違いない…
不思議な安らぎの中に 星屑の一つになっていくような気がして
やがて なんだかすべてがどうでもよく このままいつまでも
漂っていようという気になった
そのとき かすかに 母のこえがきこえた…
― ⅶ 母の声 ―
そのとき… わたしの中の あなたが 動いたの
それで ０に等しい どうでもいいようにさえ思えるあの世界に
愛するあの人のもとに なんとしても
戻らなくてはと思ったの あなたを産んでそして…
でも 不思議な声が聞こえ
わたしは わたしがいずれ帰らねばならない 美しい世界を見せられたの
「お前は いつ戻ってよいのも いつでも自由なのも 知っていたはず… 」
そう わたしは失われた記憶の底で 実はいつでもすべて知っていた気がする…
「だが これだけは とりもどしようのない最後の決断になるのだよ
もどっておいで もともとお前には何の義務もないのだから…
わたしたちの世界で もとどおり自由に生きなさい 」
あの人とあなたを失っての 自由 ?
わたしは わたしの自由意志で拒んだわ
あの人と あなたを失って どうして もとどおりに 生きられるでしょう
あの人への愛が真のものでなければ あなたも失って 死ななければならない
でもそれは いずれにしろ わたしには同じことにすぎなかった…
出産は 死ぬよりひどい苦しみだったわ
でもそれは わたしの世界にはかりしれない恩恵をもたらしたの
わたしは いずれあなたとあの人を 栄光に包まれて
真の幸福の世界に迎え入れる権利を得たの
だからもう すべての記憶をとりもどしもした私は いつもどってもよかった…
わたしの世界にとっての充分な成就 でもそれは あのことがあって
わたしにとっては哀しい不充分な成就になってしまった
あの人が信じられなくなって 私の心の半分は死んでしまったの
よく聞いて
わたしは結局失敗したの 半分しか成就していない
でも私にはもう とりもどす術も力も残っていない
それは あなたが成し遂げるのよ…
それが この世の最後の別れになるのを直感して 母の名を叫んだのだが
無駄だった その夜を境に 母は姿を消した
どんな現実より はっきりと真実だと分かるその夢から覚めたとき
多くの謎とともに この世界に独り残されていたのだ
― ⅷ もうひとつの夢 ―
こころが引き裂かれて 泣き叫ぶ少年を 気が狂ったと人々は思ったかもしれない
七日間がすぎて 泣きやんだ少年を見て諦めがついたのかと思ったかもしれない
少年の心の中で 母への思慕は 恨みに変わっていた
結局あの人は あの男だけを愛していたのだ と
あの人自身が言ったように あの男を失うことで
あの人の心はとうに死んで虚ろになっていたのだ
それなのにあの人は 去っていくときでさえあの男のことを思い
あの男の愛を失ったことを悔やみ 結局できたら取り戻したいとまで思っていたのだ
あの唾棄すべき最低の男 父王を
彼は 愛し合う男女のすべてを殺してしまいたかった
生きているものすべてを 殺せるもののすべてを殺してまわり
最後には自身の命も殺すのだ
憤怒に囚われ 食も寝も忘れ 怒りと悲しみに疲れ果てて
倒れるように眠りに落ちた少年は 七日七晩うなされながら 再び不思議な夢を見た
最初の夢は あの銀河に至る無限大の夢だった
次の夢は 久遠の時間の中で 偶然の出遭いと
組み合わせの積み重ねの果てに 誕生する生命を…
それはもう奇跡としか言いようのない 至極 稀な出来事だったのだ
さらに 夢を見 想像することのできる 真実を見出し価値を生むことのできる
存在の誕生に至る 気の遠くなるような悠久の物語
この塵ほどの大きささえない矮小な星は 生命の歴史を連綿とつむぎながら
宇宙の奇跡といえるような稀少な存在を生んだ 宝玉でもあったのだ
大宇宙の膨大な無機質な歴史も生命の歴史も すべてが連なって
現存するもののすべて そして自分につながっている
母はその小宇宙のような母胎の内で 生命の歴史を再現しながら
死ぬよりも苦しい痛みを乗りこえて 自分を生み出したのだ
その痛みとそれを圧倒する産みの歓びに 触れた彼は
そこに貫かれているものの存在を 認めないわけにはいかなかった
そして春夏秋冬 母と共にひたったこの世界の美しさを
生きとし生けるもののすばらしさと その幸せを想い起こしたのだった
そこにも 母の愛は貫かれていた…
長い長い眠りから 怒りと恨みの闇から 救い出されるように目覚めたとき
少年の顔には 癒された者の別人のような 安らぎと哀しみの表情が浮かんでいた
しかし蟻さえ殺すのをためらうようになったその後にあっても 彼の心の奥の深い
悲しみの残滓と父への憎しみばかりは 拭い去られることはなかった
― ⅸ 父と子 ―
深い死の淵の昏睡から浮かび上がった少年が
健康を回復するには それからさらに長い日々が必要だった
その間 姿を消した妃の行方は 依然として不明のままだった
父王は 泣き狂い続けたあげく久しく死線の昏迷をさまよっていた息子の
癇の強さと体力のなさが気に入らず
父から離され甘やかされすぎていた所為だと考えた
かろうじて健康を回復した少年の前に現れた父王は
酒臭い息で醜く肥った大男だった 連日の酒色に溺れているその目はどんよりとくもり
足元さえおぼつかないのでは と思われるのだった
片手に酒瓶 片手に二本の木剣を下げ その一本を少年の足もとにほうりなげた
母を奪った敵だと思い 死ぬ気でかかってこいというのである
拒ばむ度に したたかに打ちすえられた
こんな酔っ払いと思って 反撃してみたら
てもなく さらに手ひどく打ちのめされるのであった
はたから見ても少年の身からしても それは
日々繰り返される 虐待の時間に他ならなかった
なぜ逃げなかったのか 一撃でいいから食らわしたい
その意地だけで 策をこらし翌日を迎える毎日だった
虐待は日々止むことなく数年続き
成長期の少年は同世代と比べても早く
圧倒的に逞しい体つきに変わっていったが
退廃した生活に日々衰えを深めている酔っ払いの父王に
一撃を返すこともできず 依然として打ちすえられるばかりであった
剛勇の巨人王として名をはせていた父は 剣の達人としても有名だった
おぼつかないような足取りの上に どこも隙ばかりのように見えるのに
この男は酒を飲みながら ひらりひらりと まるで
意識もしていないかのように 何の苦もなく攻撃をかわすのであった
昔と違ったのは 打ちすえられるのは一度きりに減ったことだった
ところがその一撃が常に急所を捉えたものであって
ただの一発で悶絶し 攻撃不能の状態になるのであった
毎日ただ無言で打ちのめされるばかりで
剣についての教示など一度もない虐待だったが
人間の身体にこんなにも急所が多いのかということだけは
文字どうり骨身にこたえて叩き込まれたようなものであった
初めて父の一撃をかわせたのは 16歳になった春だった
それから半年たつと父は数度の攻撃を加えないと 息子を打ちのめせなくなっていた
時間は三倍四倍に延びた いつの間にか息子は
ひらりとかわす身のこなしを覚え 一撃から急所をずらすこつも覚えた
数ヶ月来酒臭さの消えた父の息がはずみ 額の汗もはじめて見るようになった
17歳をすぎた頃 初めて彼の木剣の切先が 父の手の甲を傷つけた
一瞬驚いた父以上に驚いた息子 その一瞬の隙を逃さず脳天を打ちすえられ意識を失った
その日を境に父と木剣を交わすことはなくなった
その晩 城では夜を徹してドンチャン騒ぎの宴が開かれ
嬌声が寂しく離れた彼の居室にまで響いてきた
彼も不思議に気持ちが高ぶりまるで寝られなかった
明け方知らぬうちにうとうとしていると
思いもかけない訃報に驚かされた
久しぶりの酒色にしたたか溺れた父王が
突然 心臓の発作で倒れ 逝ったのだった
― ⅹ 旅立ち ―
城に遺された物すべてに父の匂いが感じられ 母を思い起こさせるものは何もなかった
母の面影は常に 城の外はるかに広がってゆく美しい自然とともにあった
葬儀は質素であったが その代りの財産分けは実に盛大に行われた
傾いていた王国に たいした財産が遺されていたわけではなかったが 後宮の婦人たち
警備の兵たち 使用人たちに 城にあるものすべてが分与された
彼がこのような相談を持ちかけたとき 母代わりに身の回りの一切の
世話をしていた老女は 途惑いもし反対もしたが
最小限のものしか受け継ぎたくはない 後は公平な分与を という
彼の決心が固いのを知って 適切な助言を彼に与えはじめた
聡明な女性で 人間関係を含め城のすべてを熟知しているのだった
俸給すらきちんと払わぬ暴君の下に留まる騎士はすでにいなかった
警備の兵たち 使用人たちも 同じ理由で残っていた人数は多くはなかった
にもかかわらず 石の壁を覆うタピストリーを含め すべてが分かち与えられると
城は石造り外観のみを残し まるで廃墟と化してしまった
自分の取り分の最後の金品のほとんどを
固く辞退する老女の老後の資金にと無理やり渡すと
彼に残ったのは 数枚の金貨と十枚足らずの銀貨
武器庫から事前に確保しておいた
身に合った黒い甲冑と武具
白い駿馬 これだけだった
領地は暴政の償いにと すべてこれを耕す領民に分け与えられた
怠惰に落ちた父は久しく審判の義務さえ果たしていなかったので
領地は賢明な古老・長老のまわりに すでに自治的な管理を経験していた
自由民の自治領に変わると伝えられると 小さな王国に歓喜の渦が広がっていった
老女の孫が 従者にと追いすがったが
彼が今求めるのは 孤独で危険な旅だった
少年を蹴倒すと 彼は巻き上がる風とともに
生まれ故郷を後にした
黒騎士のその後姿は 若き日の父に酷似していたのだが
彼にはそれを知る由もなかった…
彼の竜槍は折れ 白銀の兜も鎧も凹みが目立つ…
私の円卓から旅立った七人の騎士のうちの一人
彼の闘いはもっとも悲惨な闘いだった
彼を産み育てたものと闘い
彼に魔力を与え壁を破らせたものと闘った
武術を教え鍛え 最強の武器を与えたものと闘ったのだ
親兄弟親族と闘い師とも闘った
祖国と闘い自分の民族とも闘った
最悪の汚名を孤独な身に負いきった彼の
最も悲痛な闘いは しかしそれらの どれでもなかった
彼の人生はただ一つの愛に貫らぬかれていた
彼を支え 導き 誘（いざな）う
宿命そのもののような 愛 だった
彼の憧れそのものであり 力と英知の源泉でもあった
底知れぬ魔力を持った美の権化
それが彼の愛した人だった
最強の敵が彼の前に立ちはだかり
ついに逃れられぬ敗北が訪れたかと覚悟を決めた時
透明なルビー色のその恐ろしい竜は 美しい正体を現した
彼女だった そしてその言葉とともに
彼女は どんな 鋭い一撃よりも深く
彼の心に致命傷を負わせた
滴る血が 流れ止むことは
もはや決してないだろう…
貴方を支え 導き 誘う 宿命
私は 貴方を 見守り続けてきた
『ほんとうに好きなものは、呪うか、
殺すか、争うかしなければならないのよ…』
彼はその癒されようのない痛手によって
彼のもっとも深い時が止められてしまったのを知った
彼はもはや老いることも許されず
永遠に彷徨うであろう者になったことを知った
「死」という別名を持つ彼女と 一つになる日まで
（『 』の部分は、坂口安吾の「夜長姫と耳男」からの引用です）
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