エッセイ






「マザーグースのうた」から

ぼくがつきをみると
   つきもぼくをみる
  かみさまつきをおまもりください
    かみさまぼくをおまもりください
                       (谷川俊太郎 訳)

 「一人の人間の命は、地球より思い。」という言葉もあるのに、か
けがえのない人の魂を扱う職業でありながら、人間の価値を常に相対
化させる慌ただしくも恐ろしい競争社会の中で、ついつい「自己」や
「他者」や「世界」の存在意義を見失いそうになるとき、「自己」の
本来性を取り戻させてくれる祈りにも似た救いの詩が、私にとっては
上記の詩である。このまことに平易で心優しい詩は、その本来の意味
    についての複雑な問題を最初から越えて、私に深い示唆を与える。
 「ぼく」がつきを見ることを通して「つき」は存在する。とすると
「ぼく」の存在もまた「ぼく」をみる他者によって可能になっている
はずだ。世界がかけがえもなく美しいとき、それを成り立たせている
我々の生命もまたかけがえがない。われわれのかけがえのなさが守ら
れるためには、世界のかけがえのなさも守られなければならない。驚
くほど深い智慧が、こんなにもやさしい表現の中にこめられている。
    世界を、他者を、愛することは、自己を愛することなのだ。
 われわれが、このような他者のかけがえのなさを気にしなくなった
のは、いつの時代からなのだろう。いや問題の恐ろしい本質は、時代
を越えて、かけがえのない他者の生命を犠牲にしてはじめて成り立つ
    われわれの生の本質に至るのかもしれない。宮澤賢治の『よだかの星』
の中で、夜鷹は数知れぬ羽虫を飲み込みながら、その罪深さに涙を流
    す。「神様……」………。
 「神が存在しなかったら、人間は神を発明したであろう。」と言っ
たのはドストエフスキ−だったろうか。神の親である偉大な存在は、
あるいは人間かもしれない。我々の知覚の中にはじめて月が存在する
ように、我々の思いやりの心と生の悲しみの中に、はじめて神は存在
するのかもしれない。仏教で言う「あまねく世界に偏在する仏性」の
    『慈悲』も、案外そんな意味であったように思う





「マルメラードフの詩」自己解説  

  三歳児が、食卓の焼き魚を見て「熱ったでしょ、つらかったでしょ、 魚さんごめんね。」
とささやくのを聞いて、閉口したことがある。
  宮澤賢治の「よだかの星」からは、弱者である生物を犠牲にしなければ成り立たな 
い「人間の生の意味」とは何なのか、というこの作者の生涯を貫いた叫びが聞こえてくる。
  他者・弱者への思いやりを前提としないで、モラルも豊かな人間性 もその社会も民 
主主義も成立しない。同時に、弱者の犠牲を前提とし ないかぎり「人間の生」そのも 
のが成り立たないとしたら、人間の思 いやりの心は、罪の意識・良心の痛み・生の悲 
しみから、生涯逃れられないことになる。それはどうしようもないことである。いや、
その逃れようもないどうしようもなさを自己の本質として担いつづけてい くことこそ 
が、人間本来の悲しい姿であると言えるのかもしれない。

     どうしようもない自分がいる       (山頭火) 

  親鸞もまた、蛇蠍のようだと自身の内面を見つめたとき、弥陀の本願によって救われ 
るしかない、どうしようもない悪人としての自己をみとめざるを得なかった。その自己 顕示
欲の強さゆえに、山頭火には胡散臭さも感じてしまうのだが、同じ接点を持つテーマを追究
しつづ けたドフトエフスキーの作家としての営為は本物であったように思う。
  その作品「罪と罰」の中のヒロインであるソーニャの、義理の父親でアル中のマルメ 
ラードフは、妻によって立ち直るきっかけを優しく あたえられる度にそれを裏切り、 
飲んだくれて身の破滅をくりかえす。そしてその度に愛する妻に少ない頭髪を引きずりまわ
され、苛みつづ けられる彼は「これこそ私の最高の悦びなのですよ。」と言う。 
いっ ぽう、一家の生計を支えるために、ソーニャは売春をせざるを得なくなっていく。実
は、ドフトエフスキーの「罪と罰」を語る場合、むしろ核心とすべき登場人物は 、ラスコー
リニコフよりも、このマルメラードフではないだろうか。その人物像は、やがて「悪霊」の
主人公像にも重なっていく、この作家の本質に最も近い人間像なのではないだろうか。 
  苛みつづけるのは、美しい純潔な生への憧れでもある。

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