「灘コロンビア」の思い出(その4)
新井さんが死んだ。1992年の11月のことであった。
実はそのことを知ったのは翌年になってからだった。仕事がすっかり忙しくなり、灘コロとも随分とご無沙汰してしまっていたのである。
新井さんの死を知らせてくれたのは、当時発刊していた同人誌「びいるじゃあなる」の同人の一人である。彼が久し振りに「灘コロ」を訪れたところ、新井さんは既に写真のパネルの人となってしまっていたのだという。
「亡くなる前日までカウンターに立っていたらしい」という話をその同人より聞き、地団駄を踏む思いであった。
新井氏はもう高齢であったし、人は皆いつかは死ぬものである。だから、新井氏との別離もいつかは訪れることはわかっていたつもりだった。だが、いざ実際にその時が来てみると、名状しがたい喪失感を覚えるのだった。
「せめてもう一度だけ、あのビールを飲んでおきたかった……」という思いが強く残った。
新井さんの死後も、灘コロは「おかあさん」と呼ばれていた新井氏の未亡人によって経営が引き継がれ、店は営業を続けた。
ビールを注ぐのは新井さんの唯一の弟子であった、松尾光平氏である。
灘コロは今まで通り美味しいビールを提供してくれた。ただ、新井さんの笑顔が写真でしか見られなくなってしまったことを除けば。
だから我々も今まで通り、機会あるごとに灘コロを訪ね、松尾氏の注ぐ、新井さん譲りの旨いビールを飲み続けた。だが……。
ある日を境に、灘コロは営業時間が来てもシャッターが開かなくなった。そしてそれは何日経っても変わらなかった。
風の便りで「おかあさん」が他界し、店の経営を引き継ぐ人がいなくなってしまったらしいことを知った。
灘コロは事実上閉店してしまったのである。
ずっとシャッターが下りたままの灘コロの前を通り過ぎるのは寂しかった。しかし、それでも何かを期待して、東京駅に行く度に、なるべく灘コロのある道を通りかかるようにした。
しかし、依然としてシャッターは閉じたままであり、そのたびに虚しいため息をついた。
そんな日々がどれだけ続いたろう。
ある日、例によって灘コロの前を通りかかると、なんと、シャッターが開いて店の中に灯りがついているではないか!
期待に胸を膨らませて中へ入った私の目に最初に入ったのは、カラオケ用の大きなテレビだった。
カウンターの中から見慣れた旧式サーバーがなくなり、代わりにどこででもみられるディスペンサースタイルのサーバーがそこに設置されていた。そしてその前には小太りの中年の男が立っていた。
男はこちらを見て「いらっしゃいませ」と言った。
ビールを一杯頼んで、店長とおぼしきその男と話してわかったことは、「おかあさん」の死後、灘コロは売りに出されたということ。それを別の経営者が買い取ったこと。新たに店を始めるに当たって、「灘コロンビア」という名称は知名度が高いので、名前はそのまま残したということ。そして本日がちょうどその新装開店の日であること、などであった。
店内は、かつての灘コロの装飾がほとんどそのまま流用されていた。けれども、そこで出されるビールは、どこにでもあるありきたりの「生ビール」に過ぎなかった。もちろん、新井さんの遺影は店内のどこにもなかった。
ビールを飲干すと、男に礼を言い、勘定をすませて外に出た。
改めて振り返ると、店の外観は以前とまったく変わっていない。
しかし、そこがもうまったく別の場所になってしまったことを、つくづく痛感した。
そして、その日が灘コロとの永遠の別れの日となった。
新井さんの愛弟子であった松尾光平氏が、灘コロが経営権を売り渡す際、旧式サーバーだけを引き取って、「ビアライゼ98」を新橋にオープンさせたことを知ったのは、ずっと後になってからであった。(了)