すべての酒に花束を

 

 元巨人軍のエースであった野球解説者の江川卓氏に、『夢ワイン』という名著がある。

 この本は、江川氏が自身の経験談を中心に、ワインの種類や楽しみ方を紹介した大変面白い本なのだが、最近この本を久しぶりに読み直して、読んだ当時からどうしても気になっていた箇所を再発見した。

 それは江川氏が、もし友人五人でパーティーを開くとして飲み物の予算が一人二千円だったら、一万円のワインを一本買うことを提案した後に書かれている記述である。

 

「一本だと、五人だったら一人が二杯ずつしか飲めない。しかし、その分、持ち寄った料理をゆっくりと味わうこともできる。そしてワインは、そもそもビールや日本酒とは飲む目的が違うことを実感するだろう。(中略)一万円もあれば、日本酒なら一升瓶で四本、ビールなら大瓶数十本、ウィスキーだって三本ぐらいは飲める。つまりワインとそのほかのアルコール類では、飲む目的が違うのである。

 ワインはあくまでも「食中酒」。ほかの酒のように、酔っていい気持ちになるために飲むものではない。何杯もガブガブ飲むという代物でもない。」(『夢ワイン』江川卓著 講談社)

 

 ワインの飲み方の提案について、特に異論はない。それは人それぞれの趣味の問題だからだ。

 しかし、他の酒を十把ひとからげに「食中酒ではないただ酔うためにガブガブ飲む酒」と決め付けてしまうのは、なんともいただけない。どうもワイン信奉者というのは、ワインの素晴らしさを強調するあまり、つい他の酒類を低く見る困った傾向があるように思う。

 たとえば、この本の他の部分では、江川氏が赤ワインを寿司屋に持ち込んで、寿司にワインを合わせる話が出てくる。

 ワイン礼賛はけっこうだし、食べ物と飲み物との組み合わせも基本的に各人の自由である。しかし、自宅ならばまだしも、寿司屋では生魚や米の味を最大限に引き出してくれる日本酒という素晴らしい酒を置いているのに(もちろん、出来の悪い日本酒を置いてある場合も少なくないだろうが)、そこへわざわざワインを持ち込む、というのはどうもあまりいい趣味に思えない。たとえば、フランス料理屋に、客のわがままで日本酒を持ち込んだとしたらどうだろう。やっぱり店の人や周囲の客からは顰蹙ものではなかろうか。

 

 しかし、江川氏がこのような認識に至ったのも実は無理からぬ点がある。

 一つには、もともと我が国には酒と料理を合わせる、という概念が未発達であるということ。

 そのため、どうしてもフランス料理やイタリア料理の世界において、すでに料理との組み合わせや相性がある程度完成された、ワインという酒こそが最も食べ物と合わせやすい酒、と思いがちになるのである。

 また、もう一つには、日本酒・ビール・ウイスキー等は、長い間我が国においては「酔うための酒」「ガブガブと何杯も飲むための酒」の代表選手のような観があり、そのためどうしてもそういうニーズに合わせた製品ばかりが出回り(特に日本酒はその傾向が顕著である)、じっくり飲むタイプの高品質な酒があまり知られていない、という事情がある。

 

 おそらくは江川氏の念頭には、日本酒ならば大メーカーの大量生産アル添酒、ビールならば同じく大メーカーの副原料を多く使用したライトテイストのアメリカンタイプのラガービール、そういうイメージしかなかったものと思われる。

 

 ビールにも日本酒にも、そしてもちろんそれ以外の他の酒にも、じっくりと味わうに値するグレードの高いものは存在するし、それに色々な食べ物を合わせる楽しみというのもある。ただ、ワインほどそれが知られていない、というだけだ。

 

 日常的に飲むには適さないが、たまにはそういったグレードの高い酒――日本酒でもウィスキーでもビールでも、もちろんワインでも――を奮発して買ってきて、じっくり味わってみるのもよいものである。伝統ある酒類というのは、どれも皆それぞれに完成度が高く、素晴らしい酒文化の産物であることがわかるし、酒と食べ物と合わせる楽しみの範囲もぐっと広がるというものである。

 

 

 さて、ビールである。

 日本のビールの主流はピルスナーやアメリカンラガー一辺倒であり、「ビール=これらの種類」と思われがちである。

 だが、ワインとともに最も古い酒の歴史を持つビールの世界はもっとずっと広く、深い。

 上面発酵のエールや自然発酵のビールになると、種類も豊富な上に、味わいもぐっと複雑になる。

 

 江東区のこだわりの酒店「すぎうら」で、面白いビールを見つけた。

 シャンパンにそっくりのビンに入り、しかもうやうやしくも箱に入っているのだ。

 

「マラー・ブリュット 750ml。ベルギーのビールだ。値段を見ると、なんと2,850円とある。ビールとしてはかなり高い値段だ。

 しかし、たまにはこういうグレードの高いビールも飲むのもいいものだ。理由は前述した通りである。

 ついでにトラピストビールとして知名度の高い、ベルギーはシメイビールの青ラベル「シメイ・グランド・リザーヴ 750mlも購入する。こちらは1,100円だった。

 

 「マラー・ブリュット」のビンにはこのようなことが書かれている。

 

製法

 厳選したモルトのみで仕込み、1次発酵と2次発酵に1カ月かけた後、瓶詰めをし、さらに3次発酵である瓶内熟成において3カ月以上寝かせます。

 その後、発酵具合をチェックしつつ、傾けた瓶を少しずつ回転させながら、瓶の口に酵母・オリ等を集めます。集まったオリ等は、瓶の口をマイナス20度に凍らせ、抜栓をし、ガス圧でオリ等が飛び出した後に封栓します。

 このビールはシャンパンとほぼ同じ醸造方法で造られています。

 

味わい

 かのビール博士、マイケル・ジャクソン氏はこうコメントしています。

「世界で最初のBRUTビールであり、20世紀のビールの中で最高級な物の一つである。」

 マラー・ブリュットは、食前・食中・食後酒として、いずれにもマッチし、絹のようななめらかな味わい、ふくよかなアロマ、色々な果物や花を連想させるほのかな香り、力強いボディでありながら、すっきりした辛口で、素晴らしいハーモニーを合わせ持つビールです。しかも、アルコール度約11度でありながら、アルコール感の突出を全く感じさせない、バランスの良さはシャンパンをも凌駕させる味わいです。

 

 とまあ、これだけ詳しい解説があると、さすがにもうこれに付け加える気はしない。

 実際、飲んでみると、この解説が決して誇張とは思えず、「仰せの通りでございます」という気にさせられる。

 

 

 シメイ・ビールは、修道院の中の醸造所で作られるトラピストビールの中でも特に有名で、「シメイ・レッド」「シメイ・ホワイト(トリプル)」「シメイ・ブルー」の三種類があり、ラベルの色もそれぞれのカラーとなっているが、このブルーラベルの750mlビンが「シメイ・グランド・リザーブ」である。ラベルに製造年が記されており、適温を保って管理すれば、ワインほど長期は無理なものの、5年程度のビン内熟成は可能だという。

 濃厚で複雑な香りと味わいは、完全にビール観を変えるだけのものを持っている。

 ただし、ピルスナーやアメリカンラガータイプのビールのように、キンキンに冷やして喉にぐいぐいと流し込んでしまっては、その真価はわからないし、きちんと温度管理をしている店で買う必要もあるが。(ワイン以外の醸造酒は、飲み方や品質管理についてはぞんざいに扱われている場合が少なくない。残念な話である。)

 

 

 ワインの世界も素晴らしいかもしれないけれど、ビールだって素晴らしい。もちろん、日本酒やウィスキーも。

 それぞれの酒の真価を知れば、優劣は比較できなくなる。

 そして、素晴らしい酒達と、それを生んだ文化に乾杯したくなるのである。

 すべての酒に祝福の花束を。

 

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