郡上一揆とは

今より二百数年前(宝暦四年 1754四年)美濃国郡上藩の藩主、金森頼錦(かなもりよりかね)は従来の一定の年貢を変え検見取りを実施しようとした。
藩の放漫財政によって唯でさえ重税にあえいできた農民は更なる増税に怒り阻止しようと立ち上がった。百二十余の村々から三千五百人を超えた農民たちは八幡城に「検見取りお断り願い」を出した。
農民たちの結束振りに狼狽した国家老は騒動を恐れてこの願いを聞き届ける約束をする。
しかし江戸藩主は幕府要人に取り入り美濃郡代を使って庄屋達に圧力をかけ検見取りを強行しようとする。

農民達は江戸の藩邸への直訴しかないと決意、代表達を江戸へ向けて出立させた。(禁制の一揆の首謀者とみなされれば生命の保障はなかった。)
幕府の最終裁定が降りる迄四年以上の年月を要し、一揆の罪で四十名もの死罪、打首、牢死、数十名もの流罪追放の重罪に処せられた。この壮烈な戦いが郡上一揆である。
郡上の母である先人たちは世のため命を捨て理不尽な搾取に対し「傘連判状」にて結束し死を覚悟した行動に農民達の正義と勇気に感動します。

この熱きおもいを清酒造りに打ち込み
母情「郡上一揆」が誕生するに至りました。
飲むほど酔うほどに先人達の懐いが伝わります。