今より二百数年前(宝暦四年 1754四年)美濃国郡上藩の藩主、金森頼錦(かなもりよりかね)は従来の一定の年貢を変え検見取りを実施しようとした。 |
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農民達は江戸の藩邸への直訴しかないと決意、代表達を江戸へ向けて出立させた。(禁制の一揆の首謀者とみなされれば生命の保障はなかった。) 幕府の最終裁定が降りる迄四年以上の年月を要し、一揆の罪で四十名もの死罪、打首、牢死、数十名もの流罪追放の重罪に処せられた。この壮烈な戦いが郡上一揆である。 郡上の母である先人たちは世のため命を捨て理不尽な搾取に対し「傘連判状」にて結束し死を覚悟した行動に農民達の正義と勇気に感動します。
この熱きおもいを清酒造りに打ち込み |