愛しさと切なさの狭間で惑う*2

 



ハジの声は静かなのに狭い店内によく通る……それはカイの耳に切ない響となって届いた……


……私が小夜に血を与えれば……記憶は戻ります………すべて……」


………………なら………………」


椅子の背に片肘を乗せて振り向いたカイは、ハジが何に躊躇っているのか理解できずぽかんとしていた。

そんなカイの様子を視界の端で捉えながら、ハジは言葉を続けた。


………小夜にとって私の存在は……忌まわしい過去でしかありません…」


静かな声でハジは言葉を切り、俯く下で唇を噛み、言葉を探しているようだった。

カイもじっとハジの様子を伺う・・・視線は床に向けられているが、その目は小夜の姿を思い浮かべているのは明白で・・・


…私がこれまでしてきたことは、小夜に辛い闘いを強いてきただけ…逃れられない現実を…突きつけて…」


シュヴァリエとして小夜と共に長い年月を戦ってきた男は、同時に苦悩もその胸に刻み込んできたのだ……

愛するが故に……愛を告げることもなく…ただ愛しい主に寄り添って……


……記憶が戻れば、リクの死や辛く忌まわしい過去に苦しめられます…私はもう…そんな思いをさせたくないのです…」


………おまえ…」


俯く横顔にどう声をかけたらいいのかわからない…言葉をかけたいのに、得体の知れないものに喉を締められているかのように、うまく言葉が出てこない…

カイの口は音もなく、ただパクパクと動いている。



薄暗い室内に何度目かの重苦し沈黙が広かった。






——小夜に辛い思いはさせたくない——






それはカイも同じだ…しかし、カイもだてに年をとってきたわけではない。この30年でそれなりに様々な経験をしてきたつもりだ。

だからと言うわけではないが、この二人をこのままにしてはいけない事だけはわかる。





——なんとかしてやりたい…小夜の為にも…





そして、一人で全ての過去と罪を背負い込もうとしているハジの為にも




「なぁ…顔くらい見ていけよ…」


……………いえ……」


重い沈黙の末に切り出したカイの言葉にも、ハジは首を縦にはふらない…その首はさらに俯いていく




「はぁ…まったくもう…」


……………?」


溜め息をつき、呆れたように頭をかくカイに、ハジは戸惑った視線を向けた。


「まったく見かけによらず不器用な男だよなぁ…おまえは。」


……………?」


カイは椅子から立ち上がると、壁に貼られた古い写真を見詰めていた。

そこには、在りし日のジョージやリクが、止まった時の中で笑っている。

………そして、小夜もあの頃と同じ姿で笑顔を零している……


一緒に写る自分だけが老いて……父と同じような年齢になった自分と≪妹≫だった≪娘≫・・・

次に小夜が目覚めるとき、自分は……カイの思考はいつもそこで打ち消された。



カイは溜息を一つつき、一枚の写真を壁から外すと、ハジに差し出した。


……小夜の好きな写真なんだ。」


…………?」


ハジは困惑の色を浮かべ、色あせた写真を受けとる。

そこには、高校の制服を着たカイが、悪友たちとじゃれあってる姿が楽しそうに写って


「右端をよく見てみな。」


言われた箇所に視線を向けると、ハジの目が僅かに見開かれた。

色褪せた写真の片隅に、俯く小夜と、小夜の髪に触れている自分が写っていた。


ピントが合っていない上に酷く小さいため、写真に写る小夜の表情は伺えない

ハジは食い入るように、俯く少女の横顔を見詰めた


…気がついたのは小夜なんだ。『この人は誰?』ってな。小夜は、毎日その写真を見てるよ……じっと…」


……………小夜……」


普段、なにがあっても殆ど表情を崩さないハジが、僅かに動揺の色を浮かべていた。

しかし、その指は、愛しい少女の姿を何度もなぞっている




——本当は逢いたい!会って…抱き締めたい!……………でも……




目に見えて判るほどの苦悶の表情を浮かべるハジ

見ている者にも伝わるほどの切なさに、カイは胸を締め付けられる。


…確かに、小夜は苦しむかも知れねぇ…でもな、元気そうに見える今でさえ、あいつは…苦しんでるみてぇなんだ…」


……くる……しんで……?」


ピンボケの小さい人物を食い入るように見詰めながら、唇だけがカイの言葉に答える


…なぁハジ…別に記憶を戻さなくても、傍にいるだけなら問題ねぇだろ?」


………いいえ………いいえ………」


漸く写真から目を離したハジは、苦悶の色を滲ませうわ言のように呟きながらカイを見上げた。

まるで縋るようなその顔は、記憶にある自信に満ちた男ではなく、恋に苦悩するただの男のそれだった。


「もう逃げる必要も、戦う理由もないんだ!」


カイの言葉は、強く決意していたハジの心を揺るがす。

それはまるで、悪魔の囁きのようにハジの心に忍び込んでくる……


………いいえ!やはり駄目です!!」


悪魔のような甘い誘いを振り切るように、青年は首を振った。


———なんでだよ?!」


「一度でも!……一度でも小夜の顔を見てしまったら……名を呼んで欲しくなる……名を呼ばれたら…今度は触れたくなる……少しでも、触れてしまったら…

………私のことを…思い出して欲しくなる……それが彼女を苦しめることになると……分かっていても……私は……こんなにも欲深い…………」


ハジは苦しげに、胸の中で燻り続けていた苦悩を吐き出した・・・それは、常に控えめな彼らしい苦悩・・・

だがそれは、愛を知る者ならば至極当然ともいえる欲求で、カイはますます放っておけないと思った。


……愛してるなら、そう思うのが普通じゃねぇか…それなら、なおさら…」


——こんな姿を!小夜に見せたくないんです!………腕を失った時のことを思い出せば、小夜はまた自分を責めるでしょう…そんな思いは…もうしなくていい のです…」


薄っぺらな袖を握りしめ、ハジは珍しく声を荒げ、やがて消え入るような声に変わっていく・・・

それは、まさしくハジの本心なのだとカイは感じ取った。


苦し気に俯き、右手がさらに強く握られる。黒服の袖は虚しい皺を刻む


…カイなら、小夜を悲しませることはない…それがわかっていたから…あの時…」




———あの時。




カイの脳裏にも、オペラハウスで、ハジが最後に微笑みを浮かべ瓦礫に消えた一瞬が過った。

ただ『愛しています』とだけ告げて……小夜の返事も待たず……


……あのまま終わるなら…それでよかった…小夜が幸せなら…笑顔でいられるなら………それでいいと…」


ゆらりと立ち上がると、テーブルの上の写真にもう一度視線を落とし、そしてカイに背を向けた

カイは言葉もなく、黒ずくめの男の背中を見つめる


……こんな……こんな無様な姿で…生き残ってしまった…」


結ばず下ろされた髪が、整った顔を隠す

ハジとこれ程長く話した記憶はないカイだったが、なんだか無性に腹が立ってきた。

年を経てゴツゴツになったカイの両手が強く握り締められた。全身が怒りで戦慄く


「生き残って何が悪ぃんだよっ!!」


自分より上背のある男の肩を掴み、力ずくで自分の方を向かせる。

ハジは、乱れた前髪越しにカイを見下ろした。


「あのなぁ!俺はさっきお前を見て、生きてるって思って本気で嬉しかったんだぜ?!それなのに…」


ハジの肩を掴む手に力が入る。

左の二の腕から先は、やはり薄っぺらくゆれる…それを歯を喰いしばって見詰めた。



愛する女を守るべく失った腕・・・何もできなかったカイには、それは戦い抜いた男の勲章にさえ思えた



————それなのに!



……片腕だから無様だっていうのか……?!違うな!俺には、いつまでもウジウジしてるお前の方がよっぽど無様に見えるぜ!?」


…………………カイ……私は……」


ハジが云わんとする事は、カイにも痛いほど理解できた。しかし、それをすんなり受け入れることは絶対にできない!

小夜への溢れるほどの愛を押し隠し、100年以上も苦悩を抱え込んで生きてきたハジ。

この男だって小夜と同様、もう救われていいはずだ! カイの怒りは、まるで父親が子供達の幸せを願うかのような色を帯びていた


「過去に怯えて前に進めねぇのは、てめぇの方じゃねーか!!いいかげん目ぇさませっ!!」


バシッとカイの拳がハジの白い頬を打ち、ハジはその反動で壁に背中を打ちつけた。

切れた唇から血が顎に一筋の線を引いた。


「ふざけんなっ!!小夜は!………あいつはどうなるんだよ…眠りに付く前のあの頃も…そして、目覚めた今も、ずっとお前を待ってるのに…」


………カイ………」


薄蒼い瞳が戸惑いに揺れる


………小夜がこれまで戦ってこれたのは、お前がいたからじゃないのか?どんなに苦しくても、お前が傍にいたから堪えられたんだろう?違うか?」


畳み掛けるカイの言葉は、ハジの胸に突き刺さる


…………そ…れは……あなた方がいたから……」


「まだ言うか!!」


ハジは苦しげに顔を背けると、流れ落ちた髪が打たれて赤く色ずく頬をそっと覆い隠す

カイは黒服の胸座を掴み、もう一発くれようかと拳を振り上げたその時。


カイの携帯電話がカウンターの隅で勢いよく震えだした。




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UP* 10.2.10

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