夢想花<後編>
夢想花<後編>
「…私ね、夢があるの…」
「…夢…」
高いビルの屋上の縁に腰掛け、眼下に広がる香港の夜景を眺めながら少女は傍らに立つハジに笑顔を見せた
「私、ここを出て世界を見て回るの!物心ついたときには、もう老師のところにいたから、外を見たことがないの…
だから旅にでるの!」
少女は立ち上がると、広い屋上で風を楽しむように痣だらけの両腕を大きく拡げ、くるくると回った。
「…ホントはマオと一緒に行きたかった…マオは、私の世話係だったの。両親を殺されたうえに、無理矢理連れてこられて…
私なんかの世話係にさせられ…自由を奪われた…彼は私にいろんなことを教えてくれたわ。外に出れない私のために沢山のことを…」
少女の頬を涙が伝う
「…彼が言ってくれた…一緒に世界を見て回ろうって…でも………殺されちゃった…」
頬を伝う涙を拭いもせず、少女はその濡れた黒い瞳に香港のきらびやかな夜景を映した。
少女の話を聞きながら、ハジは遠い昔に交した約束を思い出していた…
『一緒に世界を見て回ろう!その時はハジも一緒だからね!』
眩しい笑顔の小夜が瞼に浮かぶ…
「…小夜…」
ハジは切なげに愛しい人の名を呟いた…
「——お前にそんな自由は存在しない。」
突然、暗がりから声がかかる。
屋上のフェンスに持たれるように先程の長身の男が立っていた。
「蝎子(シエツ)!どうして…ここが!?」
怯えて後ずさるシュエ。ハジはシュエの前に立ちはだかった。
シェツと呼ばれたその男は、立ちはだかるハジをやんわりと手で征した。
表情は読み取れないが彼からは殺気も敵意も何も感じられなかった。
ハジはシュエの前から立ち退くしかなかった・・・
怯えるように後ずさるシュエの肩に触れる。
「さ、触らないで!——きゃっ!」
シェツの手がチャイナドレスの胸元を乱暴に開くと、白い胸が露になった。
その左胸には深紅の蠍の刺青が鮮やかに現れた。——その紅い刺青は少女が組織の…主のものであるとの証だった——
一瞬、シェツの顔が苦々しい表情をつくった——が、それを見たのはハジだけだった。
シェツの左手が胸を乱暴に鷲掴みにし、右手でシュエの体を抱き寄せると耳に低く囁いた
「この刺青の下に追跡チップが埋め込んである…お前は逃れることはできない…」
「っ———卑怯者!!」
強く抱き締められ、もがいてもその拘束が解かれる事はなかった。シュエの頬を涙が伝う…
「お前はただ、おとなしく言うことを聞いていればいいのだ……マオをお前の側に置いたのが間違いだった…ヤツは…」
「——だから殺したの?!私は、マオがいてくれればそれでよかったのに!」
涙を流しながら睨む少女をシェツはきつく抱き締めた
「ヤツは…マオはお前を利用していたんだ!何故気付かない!!…ヤツの本当の狙いは、お前の血、ボンベイ・ブラッドだったんだ!」
声を荒げ、抱き締めている腕に力を込めた。
「!——ぅ、うそ…嘘よっ!マオが、そんな、こと…そんなことするはずがないっ!シェツの嘘吐きぃ!!貴方なんて嫌い!放してぇーー!!」
シュエは泣きじゃくりながらシェツの胸板を叩いた…シェツはじっと目を閉じ、少女の華奢な体を掻き抱くように抱き締めた。
「…ボンベイ・ブラッド?」
ハジが切なげに少女を抱き締めているシェツに訪ねた。
「彼女はボンベイブラッドという、世界に数人しかいない特殊な血液型の持ち主なのだ。その血液は各国の研究者や金持ち達の間で高値で取引きされる。
我々組織の資金元のひとつでもあり、また、貴重な血液故に彼女は他国から狙われる存在でもある…」
はだけた服を直し、長身を屈めるとの腕の痣に優しく唇を寄せ、泣きじゃくるシュエの瞳を覗き込んだ。
「思い出してごらん、シュエ…マオはお前の血液を欲しがっていなかったか?様々な理由をでっち上げては血を抜いていただろう…こんなに痣ができ、体調を崩 すほど血を抜かれていたのに…だが、奴の思惑に気が付くのが遅れたのは私のミスだ…すまない…シュエ…」
「……うそよ…マオが…そんなこと…」
シェツの胸に抱かれ涙を流すシュエ…
——シュエと小夜が重なり、ハジの胸が切なさで痛んだ…
「シュエ…そんな言葉を信じちゃいけないよ…さあ、こっちへおいで…」
三人しかいなかったはずの屋上に、四人目の声がシュエを呼んだ。
「ま、マオ!生きていたの!!」
「!!シュエ!行ってはいけない!!」
シェツの静止を振り切り、シュエはその声の主に駆け寄った。
「マオ!ああ、良かった…生きていたのね!…ねえ、私の血が目的だったなんて…嘘よね?違うわよね?」
シュエはすがるようにマオの瞳を覗き込んだ。マオはシュエの手を取り、頬に優しく触れるとにっこりと微笑んだ
「…僕のシュエ…知ってしまったんだね…君の魅力なんて、それしかないだろう?」
「…ま、マオ……い、痛っ!!」
シュエの腕を捻りあげると、背後から静に耳に囁いた。
「…君の血は、たった一滴でも莫大な金を生むんだよ?……シュエ…すばらしと思わないかい?」
マオの目には狂気がやどっていた。
「シュエを放せ!マオ!いや、本当の名は別にあるのだろう!他国に魂を売った薄汚いスパイがっ!!」
「ああ…本当の名か…何と言ったかな…もう、忘れてしまったよ…」
ニヤリと口元を歪めたマオは、ジーンズの腰に挿した銃を左手でゆっくりと取り出し、シェツに向けた。
「…シェツ…お前が邪魔だったよ…やっとの思いでシュエに取り入ったのに、邪魔ばかりしてくれたね…でも、僕の方が上手だったみたいだ…シュエは君ではな く、この僕の言う事を信じるようになり、君を嫌った…いや?…憎んだと言った方がいいかな?」
マオは至極愉しそうに顔を歪めながらくつくつと笑った。
「…な、なに?それは…どう言う意味?!」
シェツに答えを求めるように目を見開いた。…が、答えたのはマオだった。
「『僕の両親はシェツに殺され、僕を無理矢理連れてきて奴隷のように扱った…』って話しを覚えてるかい?」
「・・・そ、そんな・・・」
シュエの体がカタカタと震えた…その話しを聞いてから、誰よりも信頼していたはずのシェツを憎むようになったのだから・・・
マオは二人の顔を見ながら満足げにケラケラと笑った。
「さあ、もういいだろう?…シュエは手に入れたし…迎えのヘリがもうじき此処へくるんだ……シェツ…もう死んでいいよ…」
シェツに向けられた冷たく黒光りする銃…カチリと冷たい音を立てて弾が籠められた事を知らせた。
シェツの目がマオを冷たく見据える。
「シェツぅ…ばぁいばぁ〜い」
虚ろな笑顔でマオが引き金を引いた
パァーーーーーン!
マオが放った弾丸は渇いた音を立て、星が瞬く夜空を撃ち抜いた。
「——うぐっ!」
弾丸が放たれるその刹那、マオの左手をハジのナイフが貫いていた。ハジは素早くマオの手からシュエを引き剥がす。
「——シュエ!!」
腕の拘束が解かれたシュエを、シェツが素早く抱き寄せ背中に隠した。
「…っくそ…僕のシュエを…!シュエを返せぇぇぇ!」
左の手首を貫通しているハジのナイフを引き抜くと、おびただしい血を流しながら、狂ったようにシェツに切りかかる。
シェツの頬に幾つもの朱線が走った。
「——シェツ!!——マオ!もうやめてぇ——!!」
シェツの前に立ちはだかり、張り上げたシュエの声にマオが思わず立ち止まった。
「…シュエ?…なぜ今さらその男を庇うんだい?」
マオの虚ろな瞳は、理解できないと見開かれている
「…マオ…貴方を…信じていたかった…」
茫然と立ちすくむシュエの頬を涙が止めどなく流れた…
「——だけど…本当に私の事を想い守ってくれていたのは…シェツ…貴方だったのね…」
背後に立つシェツを見上げた
「シェツ…ごめんね…信じなくて…ごめっ…きゃっ!」
シェツがいきなりシュエを横に突き飛ばした。
どかっ
鈍い音にシュエが顔を挙げると、シェツの懐にマオが体ごとぶつかっていた。
シェツの端正な顔が苦痛に歪んむ…
「…し、シェツ…?」
マオの狂刃がシェツの胸を貫いていた。
ボタボタとおびただしい血が滴り落ち、屋上のコンクリートに大きな血だまりができた。
シェツはナイフが刺さったままの胸を抑えガクッと膝をついた
「シェツ!」
シュエは蹲るシェツに駆け寄った。
「…う、うそ…ねえ!シェツ!死なないで!やっと誤解が解けたのに、貴方が死んでしまったら私は本当に独りになってしまうじゃない!!」
「う・・・シュ…エ…逃げ…ろ…」
苦しげにうめくシェツの胸からは血が溢れ止まらない・・・
「はっ…あはははは!やった!シェツを倒したぞ!今日から僕が蝎子だ!!組織のナンバー2の名は僕のものだ!!」
マオは狂ったように奇声を挙げ、喜びに跳ね回った。
「・・・マオ・・・貴方に『蝎子』の名はふさわしくないわ・・・貴方は猫(マオ)未来永劫、薄汚い猫のままよ。」
怒りに震えながらシュエがマオの落とした銃を構えた。
「は…はははは!撃てるのかい?この僕を?君が??ははははは!!滑稽だね!!ははははははは!!」
マオは腹を抱えて笑い狂った。シュエは震える両手で銃を構え睨む・・・
その震える手をハジの包帯が巻かれた手が止めた。
「ハジ!止めないで!!」
「貴女が手をかけるほどの事はありません・・・シェツについていて下さい。」
ハジに諭され、銃を下ろすとシェツに駆け寄った。
ハジはゆっくりとマオに向き直ると、その瞳が怒りを称えて青く燃えた。
「…く…来るなよ…な、なんなんだよ…お前…」
ハジが一歩近付く毎にマオの全身から脂汗が流れ、ジリジリと後退していく・・・
フェンスのない場所へ追いつめて行くハジ
「く、来るな!!ーーーうわあああああああ!!」
マオは、まるで絡み付くクモの巣を振払うように腕を振り回すと、屋上の縁に脚をとられ、まっ逆さまに香港の夜景の中へ消えて行った。
「ーーーシェツ!!しっかりして!!」
シュエの声に僅かに目を開いたシェツは、震える手でシュエの頬に触れると、力なく顔を引寄せ唇を合わせた・・・
「シュエ・・・君を守る為に…私は『蝎子』にまで上り詰めた…全てはシュエ…お前の…ために…」
「シェツ…もう喋らないで!いま老師の医師を呼ぶから!」
涙声でシェツの懐に入っている小型無線機に手を伸ばすと、シェツの手が止めた。
「シュエ…いいんだ…私はもう…助からないよ…」
「いや!そんな事言わないで…ユエ!」
シェツの目が僅かに見開くと薄い笑いを浮かべた
「またその名を…呼んでくれるのかい?…ああ…シュエ…もう…君の顔が…見え、ない…」
「いやいやいやいや!!ユエ!何度でも呼ぶか ら!だから…もう一度シュエって…呼んでよお………ユエ………」
ユエの胸にすがりつき、シュエが必死で呼びかけると、唇が何かを呟き薄い笑顔のまま閉じた瞼は…もう二度と開く事はなかった。
「ねえ…ユエ?ユエ!!・・・なんて言ったの?・・・もう一度言って?ねえ!!ユ エーーーー!!!」
シュエの哀しい絶叫が冷たい夜空に吸い込まれて行った。
「愛している・・・彼は最後にそういいました」
ハジがシェツ…いや、ユエの最後の言葉を告げるとシュエに背を向けた。
「…ずるいよ…ユエ…私の答えは…聞いてくれないの…?…私だってずっとユエが好きだったのよ?……ねえ…聞いてる?ユエ…ユエ…」
冷たくなた体を揺するシュエの、その黒い瞳から溢れ落ちた涙はユエの頬を濡らした…
涙に濡れた瞳が足元の銃を映し、誘われるように掴むと強く握りしめた…
。
ユエの頭を抱えあげると冷たい唇にキスをし、冷たい頬を暖めるように自らの頬を押し当てると、自らのこめかみに銃口を当てた。
「…私が追いかけても…もう、怒ったりしないよね?…ユエ…愛してるわ…」
切ない涙声がハジの耳に突き刺さる…ハジは止める事はしなかった…ただ背を向けたまま立ち去ろう と歩き出す
パンッ
乾いた銃声に一瞬立ち止まるが、後ろを振り返る事なく夜が明け始めた星空を仰ぐと、吹き付ける風と共に姿を消した・・・・
この夜、ハジが見たものは…
光と影が交錯するこの巨大都市香港の中で、その巨 大な力に逆らおうともがく一輪の華がみせた
・・・夢想(まぼろし)だったのかもしれない…
end
壁紙は、【Miracl Page】様からお借りしました
*UP* 09.12.3
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