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2001/7/14 フォーレ「レクイエム」
10楽しむ方法
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決して安くない演奏会チケット。わざわざ買ってまでフォーレ・レクイエムを聴きに行くネウチははたしてあるのか...?!

 

それがあるんだなー

 

このページ読んで、演奏会聴きに行って、人の十倍楽しんで、モトとってもろてお帰りいただきましょう。

”フォーレク”を10倍楽しむための方法、まことにひとりよがりなページですが、どうぞご笑覧くださいませ.....

 

2001年 夏 家主謹書


 

 
10倍楽しむための10のポイント
 

1 まずは聴いてみよう 6 「それは特権である」
 〜フォーレの音楽について
2 音の響きを聴いてくださいな。
 メロディだけでなく。
7 フォーレと合唱とコウノ
3 禅寺の庭園とディズニーランド
 〜フォーレクと対峙する
8 愛すべきわが合唱団
4 レクイエムとフォーレク 9 演奏会という体験
 〜演奏会?CD?
5 フォーレクという音楽はなんだろう 10 コウノはこう唱います

 


 

フォーレ レクイエム 作品48

Gabriel Fauré (1845〜1924) Requiem 

まずは簡単な解説をつけておきましょう。
全曲通じて、不安や恐怖と安らぎ、明るさとの間を行ったり来たりです。

T Introït et Kyrie 入祭唱とキリエ いきなり、この世の不安からはじまりますね。後になってでわかることですが、ここでは現世の不安と安らぎとの差は大変大きいです。ソプラノのテーマには心洗われます。
U Offertoire 奉献唱 地の底から天までの道を紡ぎます。これぞアートです。アルトとテノールにはじまり、バス、ソプラノと加わります。バリトンソロの部分は伴奏にも耳を傾けてくださいね。最後のアーメンで唱い手は昇天しそうになります。美しすぎです。
V Sanctus サンクトゥス ソプラノが表現する不安と美しさに聞き惚れましょう。美しく盛り上がったところで、男声がHosanna!!バンザーイ!不安な気持ちのソプラノを男声がそっと支えます。最後まで。
W Pie Jesu  ピエ・イエズ 子守歌のようにも聞こえますね。ハヤリの癒し系です。微妙な心の揺れを聴きとってください。
X Agnus Dei アニュス・デイ テノールは聴かせどころです。ここ唱えるの、うらやましいです。ソプラノの光が一筋差し込んだあとの響きはスゴイですぞ。
Y Libera me リベラ・メ 最もメロディアスな曲。まずはみなさん、この曲が好きになるのではないでしょうか。合唱団全員がひとつのメロディを唱います。気持ち、つたわるかな。
Z In paradisum イン・パラディスム 天国の様子が描写されます。現世との対比でいっそう穏やかに、美しく描かれているとコウノは思います。

初演 1888年1月16日 パリ マドレーヌ教会 その後、楽章追加、オーケストラ用への改訂が行われる。

 

各曲の勝手な解釈のページはまたそのうち...

独りよがり曲目紹介(Under Construction)

 

 


 

1.まずは聴いてみよう

まずは聴いてみましょう。

ただ、聴いたことのない人について。曲に対する先入観も何もなく聴くときの印象というのは貴重なもので、それを大事にされるといいと思います。

なのですが、それはそれとして、一方で曲の情報を得て、自分で感じたことと照らし合わせながらより深くその音楽に触れていく方が、幸せなことが多いのではないかと思います。「よい音楽」と言われているものほど、そういった要素は多いと思いますね。

2.音の響きを聴いてくださいな。メロディだけでなく。
フォーレクを聴くときは、音の響き、しかも重なった音の響きに耳を傾けるといいのではないでしょうか。メロディは自然に入ってきます。織物のぱっと見はもちろん大切ですが、その織り目がまた微妙で。

中で唱っていると、これをよく意識するのですね。この響きや音の重なりを感じ取ると、それまで印象がうすかった部分に、たいへんな魅力を感じるようになりますね。

 

3.禅寺の庭園とディズニーランド  〜フォーレクと対峙する
禅寺の枯山水に向き合うような気分でフォーレクに向き合う。そういう心構えで向かい合ってみるといいのではないでしょうか。喩えとして。ディズニーランドにいくときの気分ではありません。

竜安寺の石庭では何を見、何を感じますか?

それと同じものを感じるということではありませんけれども、心のあり方として、共通する部分は多いと思いますよ。

  

4.レクイエムとフォーレク
レクイエムというのは、カトリックのミサのうち「死者のためのミサ」にあたります。それで、入祭唱にはじまり、儀式の型に従ってキリエ、続唱...といくのがたいていのパターンです。

いろんな作曲家が書いていますが、音楽的には、それぞれ聴いてすぐわかるような特徴がありますね。モーツァルトのもヴェルディのも。

フォーレクの場合には、コトバの改変があったり、通常のレクイエムには加えられない"Z In Paradism(天国にて)"が付け加えられたりと、独自色が強いのが特徴です。

 

 

5.フォーレクという音楽はなんだろう
フォーレがレクイエムを書くきっかけとなったのは、父の死であると言われていますが、それをきっかけとして書かれたフォーレクという音楽とは、何なんでしょうか。

レクイエムという型を用いながらも、それはカトリックの儀礼の曲としての枠を越えて、フォーレは何かを伝えようとしているように思います。それはつまり、生と死に対するフォーレの感じ方、考え方を音楽で表現したものではないかと思います。モーツァルトでもヴェルディのでもなく。

それがどのようであるかというと、大枠では、穏やかな安らぎのある世界への祈りというものを感じることが出来ると思います。ただ、もっと掘り下げようとすると、これは音楽が語っているところであり、究極的には、言葉で表す答えというのはきっとないんでしょうね。

「死に対する恐怖感が表現されていない」

とする評者もいれば、

「ここに死への恐怖が見て取れる」

ともできる。

絶対的な答えはないものの、とにかく演奏者は聴衆との間に入って、一つの解釈のもとに表現するわけです。そして、間接的にそれを伝えるのですね。

みなさんはいかがお感じですか?

 

6.「それは特権である」  〜フォーレの音楽について

「フォーレを愛し、理解することは、いわば一種の特権を得ることであり、洗練された感受性と真正の詩精神の証明書とも思われる。フォーレの芸術の持つあの無上の快感を体験したものは、もう二度とその味を忘れることは出来ぬ。そして本能的に、周囲の人々にもその恩恵を分配しようとする。フォーレの音楽の周りには、自然に親愛な改宗勧誘熱がわき起こる。そうしてその伝授を受けたものの間には、道徳的な小さい連帯と知的な優しい交流が作り出されるのだ−」(エミール・ヴュイエルモ)

 

7.フォーレと合唱とコウノ
フォーレを唱っているときというのは、私も美しさに心が洗われるような気分になりますね。多くの評者が言うように、フォーレの音楽は過度な装飾はせず、節度を持った表現をしている。そのなかに美しさがある。

コウノは合唱を通じて、虚飾や駆け引きやハッタリの多い日常から離れ、節度と慎ましさの美の中に穏やかな気持ちで身を置くことができます。身を置けること、こうした機会をもてることに大きな喜びを感じています。

フォーレクを練習している時間というのは、そういう意味でも貴重なのです。

 

8.愛すべきわが合唱団
合唱団は、会社員、学生、主婦、フリーター、いろいろな人で構成されています。団員一人一人は、団を離れると自分のくらし、生活をもっています。そうした人々が音楽を愛するという動機のもとに集い、一つの音楽を奏で、音、単なる空気の振動以上のものを伝える。アマチュアの醍醐味というのは、そこにあるのではないでしょうか。だから、プロではなく、アマチュアでしか表現できないこと・伝達できないこと、というものがあるのだと思います。

 

9.演奏会という体験 〜演奏会?CD?
演奏者と聴衆が一回限りの同じ時空を共有できるということは、すばらしいことだと思います。演奏者は自身の想いを伝え、聴衆はそれを受け取る(とともに、自身のなかにある何かが呼び覚まされる)。フォーレクの場合、主要なテーマは生と死とそれに対する気持ちであると思います。一堂に会するといいながら、演奏者300人と聴衆1500人皆それぞれがそれぞれの感じ方を持っていることでしょう。

演奏会へ行くと、コウノはよくこんなことを考えます。あの人(各演奏者たち。指揮者なり、ソリストなり、ヴァイオリン奏者なり、管楽器奏者なり。)は何を思いながら演奏しているのだろうと。そして、音楽を聴きながら、またなにかを感じています。音楽だけじゃなくて、絵を見る場合でもそうですね。

CDやレコードにも良さはありますが、演奏会の良さ、それは音楽だけが切り取られるのではなく、共に奏で、聴き、感じ、考えるということ。その体験こそが、生きているわれわれが音楽に接する一つの意味なのではないでしょうか。

10.コウノはこう唱います
一つ一つの音符、一つ一つの休符を感じながら唱っています。もちろん、流れを感じつつですが、うっかりしてると、惰性でいってしまうので。フォーレクの部分部分についての、コウノの感じ方は、別の機会にでもまた書ければと思います。

で、おおかたについて言えば、コウノは唱うときには、やはりこの世を去っていった人のことが脳裏をよぎることが多いです。しかし、同時に、生きている自分のことを意識します。それは、団員さんたちとともに唱うときであり、コンサートホールで聴衆の人とともに時空を共有することを意識するときでもあります。だから、これまでの演奏会当日というのは、どこに座ってはるのか見えなくても、ホールのなかの人のことをよく思い起こします。

音楽の大方の方向性は、指揮者や合唱指揮者がつくっていきます。しかし、最後は一人一人にかかってくるのでしょうね。

 

で、少し前にも書きましたが、自分が聴く側になったとき、少し思うところがあります。

それは、聴く側というのは必ずしも、単に演奏者の伝えたいメッセージを受け取るだけではないと考えています。メッセージ通りにうけとることが重要なのでなく、聴いたそれぞれがなにを感じるのかが、その個人、自分にとって大切なのではないかと思っています。感じるというのは、自分の中にある何かが呼び覚まされることだと思いますが(逆に、自分のなかにないものは感じられない)、いい曲、いい演奏(または芸術)というのは、そういった内にあるものを呼び覚ます力をもっていると思いますね。フォーレのレクイエムはすばらしい曲ですので、そういう呼び覚ます演奏になればいいなと願っています。

 

7月14日、いい演奏会になるといいですね。
みなさまのご来聴を楽しみにしております。

 

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