かわうその生態 part 4

 

 


ペシミスト 000902

 私のような人間は、ペシミストという範疇におさめることができるらしい。ペシミストというのは、およそ褒め言葉ではなく、けなし言葉である。
  ペシミストは、未来に否定的なイメージを持ったり、人間に対しても否定的なイメージを抱いてしまう。そして、自分の殻の中に閉じこもろうとする傾向がある。自分から進んで何かしようとせずに、受け身の姿勢で、なにかを欲して待っている。このようなペシミストの性質で、もっとも忌むべきものだと思うのは、人の愛情に気づかず、日々感謝する気持ちを忘れているということだ。 
 今日はおおいに反省させられる一日だった。多くの人が自分のことを気にかけてくれていること、自分が多くの人に心配をかけている存在であることを再確認させられた。うれしさを覚えると同時に、それ以上に恥ずかしさに囚われずにはいられない。 
 しかし、こうした性質というのは、変えることができるのだろうか。オプティミストになれるだろうか....いかん、いかん、またこうして悲観的になる。自分さえも信じられないようでは、まだまだダメなのだろうな。
 ともかく、自惚れや思い込みをおそれる一方で、なにも信じられなくなっている。その奥には、実におおきな自尊心が隠されているのだろう。

 


凄まじいということ 000423

 北山の京都コンサートホールに出かけた.これまでコンサートホールは,客席よりも舞台の上にいる方が多かったが,今日は客席で並々ならぬ感動と興奮を覚えて帰ってきた.関西の学生のなかからオーディションで選抜された団員たちによって構成された,グリーン・ユース・オーケストラの演奏.指揮は,若手実力者の金聖響.曲目は,斉木由美の「扉」(委嘱作品・世界初演)と,マーラーの交響曲第九番である.

 これらの楽曲は,ともに,生と死というテーマを扱った作品である.未知なる世界への憧れと戸惑い,決意と拒絶という矛盾,その最たるものである生と死とのはざまを,斉木氏は「扉」とする.そして,マーラーの第九番は,人生の優しさと恐怖,純粋で喜びに満ちた生への別れ,都市的で躍動的な生への別れ,そして,生の回復の祈りと空虚を描きつつ,死への恐怖と生への強い思いを表現した作品である.

 楽曲に描かれるこうした生と死の凄絶さに圧倒された.そして,久しぶりに体験したホールの生演奏もよかった.しかし,感動を大きくしたのは,なによりも,作曲者・指揮者・演奏者といった作り手たちのパフォーマンスであった.

 演奏会に至るまでの過程で,金聖響氏と斉木氏は,それぞれの言葉で,曲に対する思いを楽団員に語りかけ,団員はそれを理解,表現しようとし,音楽をつくってきた.そして,その過程を通じて,20代を中心とした楽員からなるこの集団は,生と死というテーマにぶつかり,表現しようとしてきた.その経験は何にも代え難いものではないか.「私達が音楽に育てられてきたのだ」(オーケストラ代表)という言葉は,まさにそのことを示している.このオーケストラのメンバーというのは,金聖響氏(マーラーを含めて)や,斉木氏の思いを,音にして表現できる,それだけの技術をもった集団である.それだけに,われわれに対する説得力を持っている.

 「演奏することでしか知ることのできない世界(評論家や音楽学者にはわからない世界)」(金聖響氏)を,最高のパフォーマンスでわれわれに伝えてくれたように思う.

 

 第九番の終楽章,ヴィオラの音が消え入ってゆく.緊張とそこからの解放のはざまにある静寂がつづく.割れんばかりの拍手がその静寂をうち破る.指揮者の金聖響氏もこのプログラムを成功させ,たいへんな感激の様子である.アンコール曲など,もちろん必要のないことだった.

 

 細かい言い回しは忘れてしまったが,村治佳織がいっていた.「作曲者(ロドリーゴ)が何を考えていたのかということを追求することも一つだけれども,それよりもむしろ,自分がロドリーゴに出会って何を感じたのかを表現したい.」と.

 われわれは演奏を聴くことを通じて,演奏する楽団員の姿を見,大音響や静寂の中にあるその場の緊張感を共有することができる.これはライブならではのすばらしさである.しかし,楽団員が演奏を作ってきたなかで体験したことは,残念ながら私は味わうことはできない.クラリネットを抱えて,そのまねごとをやってみたところで,そのうちのいったいどれだけを味わうことができるだろうか...

 楽団員の体験したことが何にも代え難いというのは,そこに「生のすさまじさ」があるからだと思う.解釈が難解で,演奏に高度な技術を要する楽曲の性質がそのことを強めている.私が,そうしたすさまじさを体験するとすれば,またべつのことを通じてということになる.

 実はこのすばらしい体験をした団員の一人が,今度から所属上の後輩となる.できれば,彼の感じたであろう凄絶さについて聞いてみたいと思っている.

(グリーンユースオーケストラ2000の歩みがテレビで放送される.―5月7日日曜日 am 10:00〜10:54 MBS毎日放送―)


花の季節 000418

 ここ京都では桜の季節も終わってしまった感がする.けれども,まだまだ花の季節だ.

 ここのところ,掲示板の方ではハーブがちょっとしたブームであり,私もそれに刺激されてか,ハーブ園に新顔を加えるなどしている.ハーブ園における自由競争の図というのは見るに耐えないものがあるので,手入れの方もしっかりとしてやらねばならない.

 ハーブなどはまだ世話をしなくてもいい方であるが,綺麗な花を咲かせようとすると,寒い日は家の中に入れてやったりと,手間がかかる.花屋さんに苗を買いに行ったときに店員さんと話をして,そういうことにもちょっと意識が向いてきた.花屋さんはいろんなことをよく知っているなぁ,などと感心.そういえば,花屋さんってずいぶんと増えたような気がする.商店街の中でも,いろんな店が閉まっていく中で,花屋さんがその跡に入っていたりする.

 今日はいい天気であり,(比較的)早起きでもあったので,自転車で学校へいくことにする.心にゆとりがある証拠だ.そうして,学校への行き道で出会う花々に目を奪われたのだった.

 学校までの道中の住宅街.その玄関先に置かれた花のなんと見事なこと.パンジーとか,あとの花の名前はよくわからないけれども,黄色や赤や紫といった色が多いみたいだ.それで,鉢に植えられたり,花壇がこしらえてあったり,その飾り方もいろいろで,なんとも,みち行くものを楽しませてくれる.

 しかも,そういう家はぽつぽつとあるというのではなく,むしろそういった家の方が多い.そういう,色とりどりの花や,その飾り方をみていると,まるでそれぞれの家の住人の顔が見えるかのようだ.

 家から学校へ行く間には,豪邸街を抜ける.そうすると,これまではただ,「でかい家が多いなぁ」としか思わなかったのが,別の見方ができる.もっとも花の飾り方という観点で見ると,しゃれた飾りを家も多いけれども,素っ気ない家のほうが目に付く.これは気のせいもあるのか.

 と,まぁこんなふうにして,学校に行くまでにそれぞれのお宅の花を見るという,ひとつの街を楽しむ方法を見つけた.自転車で通っているからこその発見である.北大路橋の上にはいったい何十,いや,何百輪のタンポポが咲いていることだろうか,と考えてみたりもする.春とはこんな季節だったのだなぁ.


芸能人の効用 000416

 広末涼子が笑顔を絶やさない人として取りあげられ,その秘けつを探るという新聞記事があった.

 「楽しい場所に自分を置いて,楽しいことを選び取るようにしています.自分がやりたくて選んだことなら大変でも苦にならない.」
 「どうしてもだめな時は,好きな音楽とか小物で遊んだりとか,まわりに好きなものを集めます.やっぱり笑うには理由がいるんですよね.」

 ファンによるインタビューに答える形で,こんなふうにその秘けつを説いていた.

 なるほど.19歳のむすめさんもがんばってるのねぇ,と自分を省みながら感心していた.と同時に,芸能人の持っている効用とはこういうことを言うのだなぁと思った.

 一時期,「ワイドショーってまったくつまらん」と思っていた時期があった.有名人のプライバシーを追っかけて,それをああだこうだといって,それがどうした!って.感じで.近所のおばちゃんたちの井戸端会議のネタにでもなるのだろうか.近所の井戸端会議は,ワイドショーのローカル版みたいになっているのかもしれない.(かなりおばちゃんに対する偏見が入ってるかな?でも,おとうさんのためのワイドショー講座というのもあるしねぇ.)

 そんなワイドショーだが,ともかくわれわれは,ワイドショーを通じて,芸能人に私生活の部分があるという側面を知っており,そしてまた,芸能人というものはこうしてプライバシーを追っかけられ,いろいろな声を受ける仕事であるという側面を知っている.(プライバシーがネタにならない芸能人は芸能人ではなく,一方で,自ら面白そうなネタを撒く者もいるのだろう.)だから,「おっかけられて大変ねぇ」という,本人の持っているつらさを知ることができる.そして,本人が笑顔でいるということが,いかに大変なことであるかということを,ある程度理解することができるのではないかと思う.

 もっとも,人のつらさなんていうのは,その人にしかなかなかわからないものではある.

 笑顔の秘けつとか言うように,他人の説く「生き方」はどれだけ役に立つのだろうかと思うことがある.たしかに,言っていることはもっともだ.けれども,置かれた状況は人それぞれ違うわけだし,自分はその人となりをそれほど知っているわけではない.

 そこへいくと,自分の身近な人,同じ環境に置かれている人の生き方というのは,たしかに参考になる.けれども,身近すぎるからだろうか,それとも,普通のひとだからだろうか.同じようにと考えると,かえって,人は人などと考えたりして,自分との違いを意識してしまう.

 一方,アイドルを考えてみると,いまの私には同年代の(ちょっと無理があるか?)人間であり,近くにいそうでいない人間だ.芸能人は,芸を見せると同時に,(イメージであれ)人を見せるのが仕事だ.夢を売る仕事でもある.その分だけ,あかの他人なのに,その人を知っているような気分になる.そして,端から,自分とは違う世界の人として認識しているにもかかわらず,その人の普段見えない部分を見せられると,急に親近感がわいてきて,考えに共感を覚えるようになる.ちがってもともとという前提は,こんな風にはたらくのかもしれない.

 こんなふうに,芸能人の見え方と,この距離感,なんてことを考えてみると,芸能人の説く,こうした「笑顔の秘けつ」というものには,(その内容がどこまで真理をついているかや真実であるかは別として,)それなりの説得力があるのではないかと思えてくるのだ.
 そして,それも芸能人の一つの仕事なのかもしれない.


把酒臨風 000406

 桜の季節になった.京都では,次の週くらいがちょうどいい時期なのだろうか.たまに気の早いのが花を咲かせているが,総じて木々はまだやせた姿をしており,すこし濁ったピンク色のつぼみを膨らませつつある状態である.これから毎日,日ごとに違う表情を楽しむことができるだろう.色が薄く変わり,「桜の雨」を浴び,もう十日もすれば桜も散ってしまったなぁ,と少し切ない気分になっているだろうから,その間の一日一日はゆっくりと時間を味わいたいと思う.それに,二三日前に見た桜をまた別のところへ探しにいくのもまた楽しみの一つだろう.

 さて一方で,桜といえば,「花見」であるけれども,花見の席で「花より団子」というのは,もはや当然になりつつある.「団子より花」という言葉を作った方がいいのではないかとさえ思われる.

 会社で花見というと,若年社員が場所をとらされたり,その他にもいろいろとやっかいなこともあるようだが,細かいことはおいておいて,まぁ,いいではないかと思う.(つらい経験をしたことがないからそう言えるのかもしれない.)外の空気のもとでお酒を飲めるというのは,なんとも気持ちのいいものだから,それを楽しめばいい.(もちろん,お酒がなくても,つまみの類を口にするのでも十分にうまいのだが.)日頃朝から晩まで働き,しかも家庭を持っているひとなどは,年に数度このように昼間っぱらから外で公然と酒を飲める機会があっていいと思う.花見とは,そういう機会なのだろう.

 ところで,酒を飲む場所というのは,国によっていろいろなのだろうなと思う.酒場の雰囲気もそうだけれども,酒場以外についても思索をめぐらせると楽しい.外で酒を飲むと罰せられる国とか,カフェなんかで昼からでも気軽にお酒を飲める国とか.ピクニックの習慣がある国だとまた違うのかもしれない.あまり海外のことは知らないが,きっといろいろあるのだろうと思う.日本の花見のような習慣も特異なのではないだろうか.(そして新幹線のビールという習慣も同じく特異な光景なのかもしれない.)けれど,青空にしろ,星空にしろ,広い空の下で飲むのが一番うまいんではないかなと思われる.

 もっとも,私のような学生であれば,酒を飲むのに,時や場所はかなり自由に与えられていたりする.べつに桜が咲いてようが咲いてまいが関係ないし,周りの目も気にしなくていい.いつでも好きなときに,お弁当作って,外で酒を飲んで,生きている幸せを実感する.つかれたらそうする.やろうと思えば,そんな日はわりと簡単につくれてしまうのだ.学生ってそういう意味でも恵まれた,甘えた身分なのだと思う.

【把酒臨風】:さけをとりてふうにのぞむ――杯を手にして風景にのぞむ.自適の境地.(范仲淹・岳陽楼記) へぇ,こんなことばもあるのだなぁ...


小心者の初体験記 000404

 久々に本をたくさん買い込んだ.もうすこし財政基盤がしっかりするまで待てばいいのだが,異常な学習意欲のある季節の変わり目にて,我慢をさせてくれない.自転車に乗って四条のジュンク堂へ.たしかここには研究室の後輩がいて,良くしてくれるはずだが,フロアが違ったか.まぁ,入社してまだ一日かそこらだろうから,また今度行けばよい.学習と入ったものの,そんな高尚なものではなく,専門書ではなく,「よくわかる△△」,「面白いほどわかる○○」,「やさしくわかる☆☆」,「□□100の常識」といった具合の本ばかりだ.たとえではない.今日買った本5冊のうち4冊の題名を書いたものだ.レジの兄ちゃんの目には,少しダッシュの遅れた就職活動生くらいに映っているだろうか.いや,このぼさぼさの髪を見てなおそう思うとすれば,彼には洞察力が足りないということになるのかもしれない.

 本当は御幸町の方へいって服でもみてまわってくる予定だったのだけれども,内容をまじめに見比べるあまり,時間が経って疲れてしまい,これを諦めて代わりにお茶をしようと思い立った.

「そうだ,イノダへいこう.」

 25年京都にいるが,まだイノダには行ったことがなかった.いまいち京都人の顔をできないのもここらあたりに原因があると思われる.火災から再開した堺町のイノダ本店に行くつもりだったが,こちらは6時までの営業らしく,残念ながら時間が合わず,あきらめて百メートルほど離れた三条店へ行くことにした.

 支配人のようなおっさん(もっといかめしい顔をしている)に,奥の方にあるドーナツ型のカウンター席を案内される.ドーナツの中では,コーヒー職人のような兄ちゃんが1人陣取っており,機能的に配置されたあれこれのポットやカップを扱っている.ドーナツ卓には20人ほどが座れるだろうか.なんか国際首脳会議でもやりそうな卓だ.「こんなところ座っていいのかな.」とも思う.しかし,騙されてはいけない.機能的に見れば牛丼屋のカウンターとさして違わないだろう.そうだ.所詮は,なか卯とかわらんのだ.

 けれども席に着いた時には,そんなことを考える余裕など全くなかった.はじめての雰囲気にのまれてしまって,なんだか落ち着かない.コーヒー職人から注文は?と聞かれる.ホットというのは,喫茶店の共通語だろうか.

「いや,おれは初心者だ.あんまり知ったような顔をしてはならない.」

 そう思って,メニューを見せてくれと頼んだ.

「メニューですかぁ?」

と職人は怪訝そうな顔をする.メニューに何があったかは良く覚えていない.「とりあえずコーヒーを飲むのだ」と.ヨーロッパタイプとアメリカンタイプとあったので,ヨーロッパの方である,「アラビアの真珠」とかいうのを注文した.「ミルクと砂糖を入れますけれども」と聞かれる.私は普段ミルクはあまり入れず,ブラックか少々の砂糖を入れるのがたいていなのだが,言われるがままだ.

「はい,お願いします.」

 もっとも,店のスタイルというものがあるかもしれないではないか.デフォルトでクリームが入っているところだってある.とりあえず,言われるがままにする.「ふふふ,これで正解なのだ.」

 しかし,落ち着かなさは変わらない.周りの客はみんな常連のような感じもする.職人も変な客に戸惑っているのか(→考えすぎである),「がちゃーん」とやってしまった.とはいっても,さすがにそこは職人であり,片付けた後には何事もなかったかのように次から次へと来る客に職人らしい対応をしている.席に客がつくやいなや,スポーツ新聞を差し出すということもしていた.なるほど,ここはやはり常連が多いのだ.

 また服の格好が合ってなかった.いつもはもう少しこぎれいな格好をしているが,今日はずいぶんときちゃない格好だ.セーター,カラージーンズともにくすんだ色で,そこへ来て,髪もまたぼさぼさだ.リュックを背負って,ディスカウントスーパーで買ったお菓子の袋をさげてやってきた.周りを見回すと,ビジネスマンや檀那みたいなのがほとんどだったが,その中にいわゆるきちゃなめ格好をした若いやつらを見つけた.そしてそれをみて少しホッとした.そんなもんらしい.

 先ほど買った入門書を片手に,コーヒーを飲む.しかし,飲むのもそう簡単には行かない.このカップは口が厚くて,飲んだ後に外側にたくさん垂れてくるのがキタナい.こちらは飲みかたにしてもずいぶんと初心者である.垂れないようにするためには,口に流し込んだ後,傾けたカップを元に戻し,口から放すまでの動作に注意が必要だ.なかなかコツが要る.

 飲み方に慣れてきたころには,もう中身はない.わりとお客の開店は早いようだ.私もそれに倣って席を立つ.420円.

 明るく,天井の高い喫茶店だ.けれども,なにより敷居の高いような感じがした.最近人気のスターバックスに囲まれても,どぅってことはない.さすがに古くから続いているだけのことはある.イノダはイノダだ.ヨーロッパのを真似たオープンカフェだって競争相手ではないかもしれない.主張のある空間だ.

 このイノダだけではない.せいほう,フランソワ,築地,柳月堂....有名な喫茶店というのは,それぞれに主張がある.

 この古くからある喫茶店は,最近になってから輸入されたカフェとは違う雰囲気だけれども,私にとってはどちらも新鮮な体験だ.肩の凝りと心の小躍りを感じつつ,小心者による非日常の探索はまだ続いている.

 


模様替えのおススメ 000402

  エイプリルフールも終わり,やっとこさ新年度がはじまったなという感じがする.新年度になって,とりあえず「ようし,今年はこんなことやってみるぞ!」って意気込んでみるのが,正常な人間の4月なはずだと信じている.あなたの身の回りには,NHKのテレビやラジオの講座本,見慣れない名前の雑誌など,ちゃんと並んでますか?

 自分自身を少し変えてみたいなと思っていて,そこへ来て,4月.別に,仕事を変えたり,引っ越したりしたわけではないけれども,この4月からいろんな意味で生活環境が変わる.

「お部屋の模様替えをしてみよう.気分が変わるから.」

ということで,やってみる.やり始めると,けっこう楽しい.それで,たいてい片づけながら見つけたものをしばらく眺めたりして,作業が進まなくなる.まぁ,それはいい.

「ほんまに,模様替えしてなんとかなるんやろうか.気分が変わるだけかな.いや,気分だけでさえも変わるやろうか??」

そんな風に,ちょっと懐疑的になってみたりする.

「これまで自分を変えようとかなんとか意気込んでみて,それでもあんまし続かなかったりしたしなぁ....」

またまた弱気になってみたりする.部屋の模様替えで気分を変えるなんていっても,結局かわんないのかな.なんて思ってみて.それでも,思考の末に行き着いた結論.

「部屋の模様替えはとりあえず,役に立つはず.それにあと何か付け足せばいいのだ.」

その過程で,模様替えの効用についてすこし感じたことを書いてみよう.ここのところ読んでいたRobert Sackというおっさんがしていた,「場所は意識と無意識とをもたらす機能を持っている」,という話を使うとうまくいくので,ちょっと地理屋さんっぽくつかってみましょう.(笑)

 そもそも,場所というのは意識を埋没させる機能を持っている.そして,人の行動を日常反復的なものに(ルーティン化)させる.そんな力をもっているという.もちろん,人は場所から一方的に力を受けるのではなく,人が場所を作る側面もあるし,もしかするとそちら側の方がたびたびクローズアップされるかもしれない.

 部屋の中のものの配置というのは,ある程度機能的に決められていて,いろんな行動が合理的になされるようになっている.買ってきた食材はここ(冷蔵庫)に,脱いだ服はここに.料理のための包丁はあちら,お皿はこちら.そして,テレビがここにあり,マガジンラックがあり.さらに,細々したものも,行動の目的に合致するようにそれぞれ置き場所が決まっている.そういうふうにデザインされているのだ.(便器から手の届く範囲にトイレットペーパーロールがなければ,想像するだに恐ろしい状況が待っているであろう.)こうした置き場所がきまっているということは,とくに意識することなく,行動を可能にすることを意味する.スーパーで買ってきたイチゴは流しの近くにおいてある冷蔵庫の中に入れればよいのであって,冷蔵庫の置き場所から考える必要はないし,そうしたことを考える労から解放されている.

 そうした部屋で時間を過ごすうちに,部屋を構成しているものをしばし忘れてしまうであろう.もっといえば,場所が効果的に機能しているのは,そうした構成物が隠れてしまっているときなのだ.場所を構成しているものに対して意識を向ける時というのは,それが普段と違う状況になっているときである.シャワーからお湯が出ないとか,停電などすれば,いやがおうにも,これまでの当たり前がいろいろと思い起こされる.

 そして,そうした普段は隠れている構成物からなる場所は,人をリラックスさせると同時に日常の生活を反復化(ルーティン化)させる.部屋は,いろいろある場所の中でも,比較的自分でコントロールできて安定的なものであるから,とくにルーティン化が進行しやすい.(場所の中には,わざと覚醒をうながすようなもの,たとえば非日常的なアミューズメントもある.そして,もう少し次元を低くして,部屋や家の外もまた,部屋以上に意識を促す.自分を変えるためには,部屋にこもっていないで外に出た方がいいという話にも通ずるのだけれども,今日はそれが話の目的ではないからやめておこう.そして,感覚を研ぎすますというのもこれに類する話だけれども,これについてもまたいつか考えられたらいいな.

 ルーティン化というのは,良くも悪くもリラックスを意味させる.部屋に帰ってくるとホッとするとかいうのもそうだし,反面,活気がなくなっていくのもそうだろう.

 このようにして,場所の持っている機能に注目してみると,場所に対して意識を向けるということは,同時に自分の行動に対しても意識を向けるということを意味するであろう.

 場所に対して意識を向けるときというのは,先にも書いたように,構成要素になにか異変が生じたときだ.あるいは,こちらから目を向けることもできる.部屋の中の光景を注視してみよう.眺めるのではなく,意識的に一つ一つの構成要素に目をやってみよう.(私もいまこれを書いている最中にも,本棚に並んでいる本の題名にかたっぱしからチェックを入れる.ああ,こんな本もあったっけかな.うわ,こんな本が.あ,これ返していない!とか.囲まれていることに恐怖を覚えるくらいだ.)

 場所に意識を向けるとは,構成要素を変えてみることで,向こうの方からやってもくるし,こちらから積極的に目を向けてもいい.けれども,無意識化をもたらす機能があるからには,構成要素を変えることのほうが,より容易く意識をもたらすということにつながるだろう.つまり,部屋の模様替えとは,ルーティン化してしまった生活の中のそれぞれの行動に対して,意識をむけさせる手助けをする役割を有しているのだ.

 

「さて,どんなふうに模様替えをしてみようか.」

 結局,今日のところは,中途半端に終わってしまった.今日は模様替えに時間を使った,という意識はあるにせよ,逆によく見れば見るほど,なにも変わっていないような気さえする.

 自分の行動や,その背景にある考え方,そういったものを考えるにあたっては,自分に対して意識を向けていなければならない.そうでないと,なかなか思うようには自分を変えることはできないだろう.自分を変えるというのは,無意識のうちに流れていく動作や行為,あるいはなにもしていない時間というものも含めて,そういったものに対してどれだけ意識的,能動的にそれに向き合うことができて,エネルギーを注ぐことができるかというところだと思う.そして,場所がそれを後押ししてくれもするし,足を引っ張ったりもする.そのために,部屋をすこし模様替えしてみよう!....というのが,長たらしく書いた末の,結局のところの私の主張だったのだ.

 そして,もしもいい習慣がつきそうなら,部屋がまたそうした習慣をルーティン化することに助けをさしのべてくれるだろう.

 もしも失敗したなら...5月病が治ったころに,いや,5月病にかかる前に,また模様替えをはかっていきましょう.


 

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