今日のアフォリズム
by ニーチェ
いつもいつも繰り返し繰り返し「やだ!」を言うことが必要になりかねないようなものからは離れろ、そんなものとは絶交しろ
by ニーチェ
『この人を見よ』をジーンズのポケットに。ゆっくり読んでる。
冒頭の文は
P.60 (『この人を見よ』川原訳、講談社文庫、73'、¥140)最初は慣れない文章も、だんだん読めるようになってきた。 並行して「虐待」関係の図書にも目を通しているけど、どうしても方向性がしっくりこない。当事者の書いた文章には壮絶な「生きざま」のような迫ってくるものがあって、そういう文は書くに値するし、読むにも値する。でも著作全体にはどこか「管理」のにおいを感じる。欧米の著作には特に辟易。。。 またまた並行して読んでる『フーコーとクイア理論』
(Tamsin
Spagro、吉村育子訳、岩波書店、04')には、その理由について、ヒントらしきことが。。。 「キリスト教における告解から医学、裁判、教育、家族関係を経て今日の精神分析の科学に至るまで、男や女、少年や少女が、過去、現在の自分の欲望、感情、思想を検証して誰かに語るという歴史をさかのぼることは十分に可能である。自分たちの罪を聖職者に語ること、病状を医者に説明すること、談話療法を受けること、これらは罪の告白、病気の告白、犯罪の告白、真実の告白となる。しかもこの真実なるものは性に関係していた。 これらすべての告白の場において、語り手は自分のセクシュアリティにまつわる物語を生産し、権威を持った人物がこれを解釈する。こうして暴き出される「真実」は、もちろん、発見されるのではなく生産されるのである。それは特定の言説の内側で知として存在し、権力と結びつく。」P.16 例えると、ロボトミーか。たとえば、暴れる患者の脳を掻爬(そうは)して破壊し、暴れなくはなったが、一日中ベットの上で座りっぱなしの廃人にしてしまうこと。今の社会にふさわしい姿、あるべき姿へと人間を矯正すること。アディクション(中毒、依存症)から、あるプログラムを通して、いまの社会にふさわしき人間に改造する。それがいまの社会で言う「治る」ということ。そういうふうに解釈できてしまう。ここには、臓器移植の問題とも関連するが、人間の一部分を「取り除ける」「切り貼り」できるというヨーロッパ、キリスト教的な思想があるのではないか。 臓器移植をする際にも、親族の判断があって初めて脳死を「人の死」と認める日本的な情緒にあっては、治療プログラムにどうしても「囲い込み」を感じる。回復、治療という名の囲い込み(ロボトミーも「治療」であった)。絶対神への回帰のような。 欧米では「告白」には長い歴史があるけれども、日本ではどうか。「カウンセラーに告白」などというのは、つい最近のこと。「カミング・アウト」がどのような可能性を引き受けていくのか。手法において、治療にはもっと多様性があってよいのに、選択肢が少なすぎる。 とはいうものの、やっぱり欧米の方がまだまだ選択肢がいっぱいだし、精神分析学などははるかに進んでいる、、のかな? まずは、当事者、家族の手記を読みあさることにする。「問題と魅力は紙一重だからな。」
by
友人 「問題」が「そのひとらしさ」の「人格」の一部分を形成している。「偉大な課題に取り組むのに、遊戯よりももっとよい取り組み方を私は知らない。」P.67
by
ニーチェ今日の雑学 「第3次世界大戦は1994年頃始まった」 URBAN
OUTFITTERSで立ち読み『Things That You Are
Not Supposed To
Know』より
Posted: 2004年07月03日 (土) at 22:30