小説:桜井亜美『シンクロニシティ』
探していたコトバ みつかりました。“
あたしが幸せなのは、誰かとエッチをしている時だけ。“
たとえ一回きりの相手でもね。“
だって、セックスの魔法で誰かの一番近くにいるって、“
実感できるから。“
そんなもの、長続きはしないと分かってるけど、 ”
一人で感想はなぁ、、、書けない気味。。誰か読んでくれたら感想言い合うのは楽しそう。それから書き足します。ココの感想はとてもいいと思います。引用書いててある発見をしました。上のコトバ、主人公のバイト先(風俗)の同僚のコトバなんです。わき役なのか、その「彼女」名前も出てこない。主人公の17歳の女の子と「彼女」のやり取りなんだけどどちらもヨロイみたいに自分にバリア張っているから、(傷つかないようにって思って生きてるとそうなるね)うまくコミュミケーションできない(笑)。相手を牽制し合う十代にありがちな対話なんだけど、作者の細かい描写にこのブログ書いてて気づいたことがある。“
と「彼女」は言った。”って感じで、彼女ってコトバにカギカッコがしてある。ほとんどの描写がカギカッコつきで
“「彼女」”て書かれているんだけど、このカギ括弧が外れるときがある。“
彼女はうなずき、お返しにほんの少し微笑んだ。”こうなるときがある。カッコがはずれるの。ずっとカッコ付きの描写の方が多いんだけど。なにがいいたいかっていうと、私は、主人公の女の子とその「彼女」のやり取りが人間的であるときだけ、カッコが外れると思うのだ。つまり「私」と「彼女」の距離が縮まったときだけ、カッコツケナイ!!(←だじゃれではありませんがだじゃれみたい)。言い換えれば、カッコツケナイ関係のときこそが人間的なの。あれ、こんなマニアな指摘するのはアタシだけかしら?それともフツーのひとはみんなそんなことあたり前のように理解して読んでたのかしら。。。私はにぶいので、引用メモっているうちに初めてこのことに気づきました。で、もっと指摘してしまうと、彼女たちそういう瞬間には互いに「バリア」が外れている。カッコツケルことなく、自分らしくいられてる。(↑だからダジャレじゃないんだってば)自分らしくいられたり、自分の素直な気持ちや意見が言えたりするのは、とってもステキなことなんです。バリアなんかいらないんです。小説の中のカッコツキ(カッコツケ)の
“「彼女」”
は「50人と寝たらすべてが分かる」なんてジンクスを信じてバリア張って生きているのですが、真実は逆なんです。そういうときの彼女って
“「彼女」”
はカッコツキなわけで、むしろ彼女らしくない「彼女」。ヨロイやバリアで気を張っていていっぱいいっぱい。呼吸することさえ忘れてる。実は、そうでない時間の方がキラキラ光っているんだって。ゆっくり呼吸できたり、涙を流せたり。ブログ書きながらまた読み直してみたら、冒頭の引用以降、やっぱり輝いているやりとりが続いてる。一歩引いて読んだら、ほんとにもろい少女2人のやりとり。少しずつこころ通わせ合っていて。名前が出てこないだけあってその
“「彼女」”
が再び登場するシーンはあったか、なかったか。。“「彼女」”
の登場はたった2〜3ページかもしれないけどきっと双方にとって「なにか」気づく瞬間があったと思う。コミュニケーションになにも激しいきっかけなど必要ない。ただここに「ある」ということ。傷だらけの彼女たちふたりがその場に「ある」だけで十分
“
生きた証
”
なのだ。自分の生きる証のために50人の男なんて必要ない。それこそ生きた証にはとうていならない。(この「生きた証」問題は落合恵子さんの『愛すれどひとり』を参考。 こちらの方が小説としては深いかな。確か15年越しくらいの愛だし)。わかたよーなこと書くなー!!(自分つっこみ)でもです。でもなぜ私はそう「読む」かというと自分も失敗してきたからなんです(笑)。失敗して学ぶんだから。だから10代に余計な口出しをしてはダメ。それはオトナになるチャンスを奪う暴力。かつては自分も10代。想像も絶するくらいダメダメだったのだ。しょぼい10代をみちゃったときは、ニガ虫かみつぶした顔でもしながら「かつては自分もそうだったし」と、彼・彼女らが失敗して自ら学んでいくのを余計な口出しせずきちんと見守ること。そういう存在であると信頼すること。それがオトナ。(桜井亜美の主人公は、おしなべてそうでないオトナによって傷つけられてるしね)今日の予言桜井亜美を卒業したら次は落合恵子だーP.S.この本でふと思ったのは「嫉妬深い人は幸せになれるのか」。嫉妬深い人が他人の幸せを心から「よかったね」って、言える日は来るのかな。答え: 来ます。
Posted: 2004年08月30日 (月) at 01:08