☞栗本左遷

 

 列強の開港要求に対して、幕府は江戸防衛などの見地から江戸から離れた長崎と箱館(1)を選んだ。また江戸に近い神奈川での自由貿易を認めたが、横浜開港には井蛙宮中攘夷派公卿が猛反対し、そのため横浜鎖港を列強に打診する使節を送るなどと右往左往した。幕府体制が老朽化していたのはもちろんだが、幕府内外の開国反対派や宮中攘夷派などのゆさぶりはその崩壊を早めた。幕府が崩壊すると昨日までの攘夷派も舞台のドンデン返しよろしく開国派に衣替えして登場し、夷狄と排斥した西洋人の衣装に身を包んで西洋コスプレこそ権力の象徴であるかのように変身した。成島柳北は木戸孝允からの文部卿就任要請を断ったとき(2)そうした豹変エセ権力を苦々しく思っていることを周辺に漏らしている。

 長崎と対蹠的位置にある箱館にロシアやイギリスは領事を置いて日本進出の足がかりを築こうとした。幕府は松前藩とは別に1854年に箱館奉行所(3)を設置し、奉行として竹内保徳、堀利煕(4)の二人を派遣して北方防備や蝦夷開発に本腰を入れ始めた。イギリスは1859年、ペンバートン・ホジソン Christopher Pemberton Hodgson を初代領事として送り込んだ。まだ英仏が鍔ぜり合いを演じる状況になっていなかったから、ホジソンはフランス臨時領事も兼任した。同じ年(安政5年)の6月、左遷された幕府医官の栗本瑞見(5)が一家を挙げて江戸から箱館にやってきた。島崎藤村は『夜明け前』で喜多村瑞見(喜多村は栗本の旧姓)の名で栗本を登場させて、栗本の左遷は栗本が軍艦観光丸(6)試乗に応募したことが身分職掌をわきまえない行為だとして御匙法印岡櫟仙院の忌諱に触れたからだと書いている。栗本から直接聞いたのである(7)


 「旅の空で寛斎が待ち受けた珍客は、喜多村瑞見と言って、幕府奥詰の医師仲間でも製薬局の管理をしていた人である。汽船観光丸の試乗者募集のあった時、瑞見もその募りに応じようとしたが、時の御匙法師ににらまれて、譴責を受け、蝦夷移住を命ぜられたという閲歴をもった人である」(8)

 当の櫟仙院は家忠の治療や将軍の継嗣問題をめぐるごたごたのため数ヶ月後に罷免される。櫟仙院の罷免は、成島柳北が安政5年7月3日の日記(9)に「聞医局騒擾之事」と記した3日後のことである。もし時期がずれていたならば栗本の蝦夷行きはなかったかも知れず、栗本の運命も幕末の歴史も違ったものになっていただろう。栗本は蝦夷赴任をまえにして友人知己に別れを告げた。柳北の日記は別れの挨拶に訪れた栗本と「豪談劇飲」したことを伝えている。

 「栗本瑞見儀、蝦夷地在住被仰付、奥詰醫師上座と可被相心得候事」


という奥詰醫師栗本瑞見に関する江戸からの通達が安政5年2月24日(1858年4月7日)箱館奉行村垣淡路守公務日記に書き留められている(10)。栗本の箱館着任からほどなくして、フランス人カトリック宣教師メルメ・カションが箱館にやってきた。

 栗本37歳、カション31歳。日仏交流の先駆者二人が出会うことになる。


                                                      

(1明治2年に「函館」とされるまで「箱館」が用いられていた。

(2)成島柳北については「桂川家のサロン」「柳北と馬」、木戸との出会いについては「柳北の訪仏」を参照。

(3)1864年に五稜郭の完成とともに五稜郭内に移るまで箱館奉行所は現在の元町公園付近にあった。「益田孝と塩田三郎」の注(6)参照。

(4)竹内は文久2年に新潟、兵庫などの開港延期のために派遣された遣欧使節として渡欧。目的を達して帰国したが、攘夷の朝廷をはばかる幕府に登用されず、役職を辞して慶応3年に没する。

 堀は箱館奉行のとき樺太調査旅行を行った。このとき榎本武揚や玉虫誼茂が随行している。万延元年にプロシャとの条約交渉の不適切を咎められて自害。1867年のパリ万博使節団の徳川昭武傅役山高石見守は堀の異母弟(「排佛コンペニー」参照)。

(5)師として瑞見、のちに士分となって瀬兵衛を名乗る。号は鋤雲または匏菴。「栗本、江戸に呼び戻される」参照。

(6)1850年にオランダで建造され、1855年(安政2年)にオランダ国王から幕府(将軍家茂)に贈られた蒸気船。幕府は観光丸の名で海軍伝習所の練習船とした。1857年(安政4年)3月に永井尚志(玄蕃頭。「栗本、江戸に呼び戻される」らが長崎から神奈川に回航し、7月には築地に軍艦教授所(のち軍艦操練所に変わる)が開設される。観光丸試乗の話はこの前後のことだろう。

(7)(栗本鋤雲)翁は.......最初のうちは瑞見の名で幕府の医官として出発した人であるから、わたしが自作のために選んだ仮名(喜多村瑞見。喜多村は栗本の旧姓)もじつは翁の過去に因んだものであった。.......わたしが初めて本所北二葉町(現墨田区石原3丁目18番1号に生前の翁を訪ねた頃は、翁はすでに晩年で、当時(明治26年)わたしはまだ二十二歳の青年であった。翁から見たらわたしは子供のやうな年頃のものであったが、それからも訪ねて行く度によろこんで迎へて呉れ、あの芍薬の種類を多く集め植えてあった庭に面した翁の書斎「借紅居」で、往時を親しく語り聞かされたことは忘れられない。最後に訪ねて行った時は翁はすでに老の床にゐて、枕に病み臥しながらもいろいろとお話の出たことを覚えてゐる」(『栗本鋤雲遺稿』序)

 なお、栗本の訪仏からほぼ半世紀後、1913年から16年までを藤村はフランスで暮らし、『エトランゼエ』などを残す。西洋音楽愛好家だった藤村は「ガボオの音楽堂」で催されたドビュッシーの自作演奏会に出かけて「六つばかりの小曲を集めたル・コワン・デ・ザンファン(『子供の領分』)は深く私の心を引いた」と述べている(『エトランゼエ』)。藤村がフランスに渡って間もない1913年11月6日にガボオの音楽堂すなわちSalle Gaveauで行われたコンサートの模様を写した写真がある。このコンサートについて藤村は『平和の巴里』のなかで「老音楽家サン・サアンが最後の名残の指揮をした大音楽會も先夜御座いました」と書いているが、指揮をしたのはピエール・モントゥーでサン・サーンスはピアノを弾いた。藤村が「最後の名残の」と書いたはサンサーンスはこの演奏会を最後にピアノ演奏から退くと表明したからである。

(8)島崎藤村『夜明け前』第四章

(9)硯北日録太平書屋 1997

(10)『幕末外国関係文書附録之5』東京大学出版会 1986

 箱館奉行所関係者の人名簿「安政六年未年五月改函府人名録」(『𦾔幕府』第四巻第三号・四号)を見るとただ「蝦夷地在住」として名簿登載者454名中の424番目に栗本瑞見の名前がある。「奥詰醫師上座」の栗本の順番がほとんど名簿の末尾であるということに違和感を覚えるが、医師の地位が低いからか、無役であるからなのか。同じく盬田順庵(「箱館の栗本」)の名も医師の欄ではなく蝦夷地在住の欄の冒頭に記されている。人名録には奉行堀織部正、村垣淡路守、竹内下野守をはじめとして組頭、調役、支配勘定役など職位俸禄順に奉行所所属者の名前が並ぶ。3人の奉行に続く4番目に「組頭」河津三郎太郎(「箱館の栗本」「柳北と馬」)、9番目に「調役」向山栄五郎(「排佛コンペニー」「佳朋向山黄村」)、24番目に三田喜六(「排仏の旗振り」「手術」)、43番目に益田鷹之助(「益田孝と塩田三郎」)、54番目に大橋宥之助(「カションの評判」)の名がある。なお、『函館市史 デジタル版』の「奉行配下の吏僚」では「奉行」以下「足軽・手付」にいたるまでそれぞれの担当、俸禄などが記されているのに「蝦夷地在住」については職務、俸禄等は記されていない。栗本の待遇の不安定さが窺われる。