☞サンシモン主義 

- Le siècle du Saint-Simonisme -

 

料理するサンシモン主義者

Saint-Simonien

faisant la cuisine

洗濯するサンシモン主義者

Saint-Simonien

faisant la lessive

皿洗いするサンシモン主義者

Saint-Simonien

lavant la vaisselle

繕いをするサンシモン主義者

Saint-Simonien

linger

 よく知られるように、イギリスから始まった産業革命の波はヨーロッパ大陸やアメリカ大陸に広がり、それにともなって社会や経済の構造も変化した。当然それは思想にも反映し、社会を変える思想、社会の変化に合った思想が生み出された。

 たとえば、アンリ・ド・サンシモン Claude-Henri de Rouvroy, comte de Saint-Simon は、著書『産業論』(1)『産業者の教理問答』(2)などによって新しい産業社会像を提唱した。サンシモンの思想あるいはサンシモン主義は、産業化によって個人や社会を豊かにし、人びとの福祉を向上させることをめざしたユートピア社会主義あるいは空想的社会主義と言われることもあるが、この思想に宗教的な衣を着せてその思想を広め実践しようとした集団がサンシモン教団だった(3)。サンシモン教団に参加したのは創立して間もないエコール・ポリテクニック出身の若い技術者を中心にさまざまな職業、階層の人々(4)で、彼らがめざしたのはサンシモン主義思想の伝達と実践であった。サンシモン主義運動は、フランスだけでなくドイツなど周辺国の人びとの関心を集め、ジョルジュ・サンド、ユゴー、ゲーテなどもこの思想に関心を示している。しかしかれらの自由な考え方や集団的行動は、社会秩序を攪乱し権力を脅かしかねないとみなされ、公共道徳の侮辱、私有財産に関する法律違反などを理由に活動は禁止され、教団幹部は投獄された(5)

 教団は解散したが、その活動に加わった人びとは、金融、運輸、文化などさまざまな場面で19世紀後半のフランスの産業化、近代化に大きな役割を果たすことになる。彼らが描いた産業化、近代化が実現したのは、クーデタによって皇帝の座についたシャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト Charles Louis-Napoléon Bonaparte というナポレオンの甥による第2帝政のもとであった(6)。その第2帝政期の経済産業政策を主導した一人がサンシモン教団の幹部だったミシェル・シュヴァリエ Michel Chevalier である。

 ミシェル・シュヴァリエは理工系専門学校のエコール・ポリテクニックを出て鉱山技師となった。その後、サンシモン教団に参加して頭角をあらわし、教団の機関誌『ル・グローブLe Globe』の主筆として活躍したが、教団を危険視する公安当局に告発されて「教父」アンファンタン Barthélémy-Prosper Enfantin とともに投獄された(7)。しかし、教団との決別を決意したシュヴァリエは、出獄後は政府関係の仕事に就きたいという希望を内相ティエール Adolphe Thiers に伝えた。サンシモン教団の思想は体制にとって疎ましいものであるとして教団を解散させたティエールであったが、高い知性と能力を備えているサンシモン運動の参加者たちには少なからぬ関心を持っていた。公共土木事業大臣を兼務していティエールはイギリスやアメリカに比べて遅れているフランスの鉄道事業をなんとかしなければと考えていたが、サンシモン主義者たちも鉄道網の建設こそ自分たちが目指す社会実現の重要な手段と訴えていた。そこでティエールはシュヴァリエの要望を受け入れて、彼を鉄道研究のためにアメリカに派遣することを決める(8)や物の迅速かつ大量の移動を可能にして産業化社会を推進した鉄道は、ある意味今日の情報化社会を支えるインターネットにも匹敵するものだった。

 シュヴァリエがアメリカからフランスに書き送った『北アメリカについての手紙(9)』は大きな注目を浴び、帰国後シュヴァリエは経済学者に転じてコレージュ・ド・フランスの経済学教授となった(10)。教団と決別したものの彼は青春の夢を消し去ったわけではなかった。皇帝ナポレオン3世(11)の知恵袋と言われたシュヴァリエは、保護色の強いフランス経済の国際化を推進するために1860年の英仏自由貿易協定の締結を主導し、さらに1867年のパリ万国博覧会では学生時代からの友人ル・プレー Frédéric Le Play を計画責任者に推して博覧会を成功させている(12)。博覧会がサンシモン主義の夢の具体化であるならば、その意味で1867年のパリ万国博覧会はまさに「サンシモン主義のユートピア」(13)だった。日本が初めてその姿を世界に現したのはこの万国博覧会においてである。

 産業化が進展するとヨーロッパの列強は当然のように世界市場の開拓へと向かい、エジプトや北アフリカへ進出し、さらにアジアに植民地化の触手を広げながらやがては日本にまで市場拡大の手を伸ばそうとしていた(14)。欧米列強がインドや中国を足がかりにして、弱みや隙を見せれば領土に手を出しかねない野心を秘めながら日本を窺うという情勢(15)のもとで、国内では攘夷や尊皇の嵐が吹き荒れた。折しも万延元年の遣米使節団の人びとは圧倒的な工業力と軍事力を目の当たりにして日本の近代化を決意する。使節団に同行した小栗忠順はそのことをもっとも強く意識したひとりだった(16)。そうしたなか、アジアにおけるイギリスの覇権に対抗しようと躍起となっていたフランスはたまたま幕府に手を差しのべる機会を得た。いわば幕府と帝政フランスの短く儚い「蜜月(17)」である。その主役の一人は駐日フランス公使レオン・ロッシュ Léon Roches であるが、もしロッシュがサンシモン主義者だったとすると(18)、当時の日本はサンシモン主義の近傍にあったことになる(19)

 目をわが国に移せば、プリミティブではあるがおそらくそれとは知らずサンシモン主義を実践しようとした人たちがいる。いずれも旧幕臣で、一人は論語を片手に商工業近代化を主導したもと尊王攘夷論者渋沢栄一、もう一人は労働者保護を実践した彰義隊生き残りの佐久間貞一である(20)

風刺画

「サンシモン主義者たちの家の舞踏会」または「女は自由だ」

(ミニスカートと半ズボンに注目)

                                                             

(1)Henri de Saint-Simon, L'industrie, au bureau de l'administration, Paris 1817.

(2)Henri de Saint-Simon, Catéchisme des Industriels, impr. de Sétier Paris 1823-24.

H. R.  d’Allemagne, Les saint-simoniens 1827-1837, Gründ Paris 1930

郵船デュプレックス Le paquebot-poste Dupleix

中国までのアジア航路を日本まで延ばすことにしたフランスの帝国郵船会社Compagnie des Messageries Impérialesの客船デュプレックスは1865年9月3日上海を出航して9月7日(慶応元年7月18日)橫浜に入港した。デュプレックスは1862年建造の全長84メートル、幅9.4メートル、時速12.5ノット、船室数100の2シリンダー蒸気機関によるスクリュー1基を備えた気帆船だった。

ミシェル・シュヴァリエ

Michel Chevalier

Galerie de la presse, de la litérature

et des beaux-arts” から

(9)Lettres sur l'Amérique du Nord, C. Gosselin Paris 1836

 手紙の一部はその当時もっともよく読まれた新聞「ジュルナル・デ・デバ Le Journal des Débats」に掲載された。最初の手紙は「パリとロンドンを結ぶ鉄道」と題する1833年11月1日付のロンドンからの手紙である。ジュルナル・デ・デバは保守系新聞として出発したが7月革命(1830年)のころからは中立的ないしは体制批判の立場を取るようになった。寄稿者のなかにはバルザック、ユゴー、ベルリオーズ、シャトーブリアンらがいる。一方、ウンベルト・エーコの『プラハの墓地』に「大手銀行(オートバンク)の業界紙であるジュルナル・デ・デバ」という一節があるが、全盛期を過ぎて業界紙に舵を切った第2帝政期のジュルナル・デ・デバについての言及である(ウンベルト・エーコ/橋本勝雄訳『プラハの墓地』東京創元社 2016)

 なお、シュヴァリエの渡米の2年前にはアレクシ・トクヴィル Alexis de Tocqueville が監獄制度研究のために政府からアメリカに派遣され、1835年に『アメリカの民主政治(De la démocrachie en Amérique Capelle 1842 Paris, Gosselin 』第1巻を出版した。

(10)1841年から42年にかけて行われた講義の講義録は『経済学講義(Cours d'économie politique)』として1842年にパリの Capelle 書店から出版された。

(11)ナポレオン1世の甥シャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト。2月革命のあとの選挙で大統領に選ばれて第2共和制大統領となるが、1851年にクーデタによって独裁体制を敷き、皇帝となってナポレオン3世を名乗る。

(12)シュヴァリエとル・プレーは彼らのこどもを結婚させるほどの親しい仲だった。リュクサンブール公園にル・プレーの銅像がある。

WALCH, Jean, Michel Chevalier Économiste Saint-Simonien(『サンシモン主義の経済学者ミシェル・シュヴァリエ』) 1806-1879, Librairie Philosophique J.VRIN 1973.

 『新聞人、文筆家および美術家たちのプロフィール』の第1集にはシュヴァリエと並んでアレクサンドル・デュマ、ヴィクトル・ユゴー、ジョルジュ・サンド、テオフィル・ゴーチェなどのプロフィールが収載されており、「ミシェル・シュヴァリエ」の項は、ティエールがシュヴァリエを産業使節(ambassadeur industriel)に任命してアメリカの鉄道事情の研究を命じたと書いている。

(15)たとえばエドゥアール・フレシネの『現代日本(Edouard Fressinet, Le Japon contemporain, Librairie de L. Hachette 1857 Paris)』は、日本は本州、九州および四国の3つの大きな島によって構成されているとして蝦夷(北海道)には言及せず、蝦夷は樺太、国後、色丹などの島々とともにロシアの勢力圏であるかのように記述している。19世紀半ばにおける欧米すなわち世界の認識だったのである。日本(幕府)の認識がどうであれ、蝦夷は南下するロシア、アジアでの覇権を狙うイギリス、捕鯨基地として確保したいアメリカの思惑の渦に巻き込まれていた。

(16)「排佛コンペニー」参照。

(17) une union étroite et intime.

(18)石井寛治・関口尚志編『世界市場と幕末開港』東京大学出版会 1982。

(19)「排佛コンペニー」「ヴェルニーと横須賀造船所」脚注。

(20)渋沢も佐久間も農村出身。渋沢家は武蔵国榛沢郡血洗島村(現在の埼玉県深谷市)の豪農。渋沢が召し抱えられた一橋家当主の慶喜は徳川幕府最後の15代将軍となる。佐久間家は武蔵国葛飾郡當代村の名主。父の代に土地を召し上げられ、江戸に出て御家人となる渋沢については「排佛コンペニー」「渋沢と栗本」、佐久間については「田島金太郎」を参照。

(13)鹿島茂『絶景、パリ万国博覧会』河出書房新社 1992。

(14)アジア市場はイギリスの独壇場と言ってもよかった。フランスは日本進出にあたって金融(銀行)、輸送(商船)、通信(郵便)などをイギリスのネットワークに頼らざるを得なかったが、1865年前後から通信は橫浜で郵便業務を、金融はソシエテ・ジェネラルが銀行業務を、輸送は帝国郵船が日仏航路を開始する(「渋沢と栗本」注1。1865年5月に製鉄・造船所建設や武器などの資金調達に関連して前年に創設されたソシエテ・ジェネラル銀行が使節を派遣してきた。

(3)教団に参加した人びとは自分の財産を教団にゆだねてパリ郊外のメニルモンタンで半自給自足の共同生活を営んだ。創設当初は市内のモンシニ通りに本部を構えて機関誌「グローブ」を発行し、火、木、土曜日には外部の人たちを招いてパーティーや舞踏会を催した。パーティーにはリストやベルリーオーズなどの音楽家やドイツの詩人ハイネ、文芸評論家サントブーヴらが顔を出した。

(4)パリ-マルセイユ間鉄道や不動産銀行を興し、仏米間大西洋航路を開設したユダヤ人銀行ペレール兄弟。教団解散後もアンファンタンに従ってエジプトで活動し、のちにベルリオーズの後継アカデミー会員に選ばれた作曲家フェリシアン・ダヴィッド(「交響曲第3番」など)ギアナ奴隷を祖父に持ち、皇帝ナポレオン3世のアフリカ政策助言者となったイスマイル・ユルバン。 社会的自由を求める女性たち、たとえば女性サンシモン主義者シュザンヌ・ヴォワルカンらによる週刊誌「自由な女性 La femme libre」の発行など。一方で、ミシェル・シュヴァリエの妹マリー・アンヌは自由な女よろしく教団内で男性たちと悶着を引き起こした。

5)デュベック/デスプゼル『パリの歴史』の引用から(ワルター・ベンヤミン『パッサージュ論 Ⅳ』今村仁司ほか訳、岩波書店 1993):「(サンシンモン主義者たちは)『グローブ』紙を買い取って、社会改革を吹聴した」が、政府は...女性解放を説いたという口実でサン=シモン主義者を告訴した。彼らは立派な礼服を着て、吹き鳴らされる角笛とともに法廷に現れた。アンファンタンの服には、胸のところに大きな文字で「父親(Père)」と書かれており、彼は自分がたしかに人類の父親であると、裁判長に向かって平然と言い放った」「結局、彼は禁錮一年を食らい、こうした馬鹿騒ぎに終止符が打たれた」。

(6)シャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト、別称ナポレオン3世。彼は「自分は社会主義者である」と言ったという:「L’impératrice est légitimiste, Morny est orléaniste, le prince Napoléon est républicain et je suis moi-même socialiste(后妃はブルボン王統派、叔父モルニー侯爵はオルレアン王統派、従弟ナポレオン・ジェロームは共和派だが、私自身は社会主義者である)」。彼の言う社会主義とは恩恵的社会政策であり、むしろサンシモン主義者と言ったほうがいいかもしれない。

(71832年12月、アンファンタンとともにシュヴァリエも1年の禁固刑を言い渡されパリ5区の植物園のそばにあったサント・ペラジー刑務所に収容された。だが内相ティエールの指示であろう、シュヴァリエは刑を6ヶ月に減刑され、獄中で教団との決別をアンファンタンに告げた。なおサント・ペラジー刑務所には古くはフランス革命時のジロンド派指導者ロラン夫人や「サディズム」で知られるサド侯爵が投獄されていたが、1830年代には政治犯や破産者などが収容されるようになるAlfred Sirven, Les Prisons Politiques - Sainte-Pélagie, P. Lebigre-Duquesne Paris 1868。シュヴァリエと前後して数学者ガロア、詩人ネルヴァル、画家ドーミエ、科学啓蒙家・社会主義者ラスパーユなどが投獄されていた。彼らは現在パリの通りの名として記憶されている。

(8)PHILIPON, Charles et HUART Louis, Galerie de la presse, de la litérature et des beaux-arts『新聞人、文筆家および美術家たちのプロフィール première série chez Aubert 1839.