☞箱館の栗本

 

 箱館で奉行津田近江守の指示でカションに日本語を教えた栗本はのちに『鉛筆紀聞』を著す(1)。西洋の政治、経済、軍事などを簡潔に解説しており、福沢の『西洋事情』には及ばないが、その先駆と言えるものである。箱館での栗本は日仏交流のきっかけを掴んだだけではなく、様々な分野で実績をあげた。彼の本職である薬草園の経営のほか、食用牛の飼育事業、生糸生産振興、蝦夷・樺太の探索、アイヌ調査など広汎にわたる。

 薬草園に関しては、ホジソンは先にあげた『長崎函館滞在記』(2)の中で植物園のすばらしさを伝えている。ホジソン夫人とその子供たちを始め、使用人、箱館在住の外国人、カション神父ら総勢40人(3)馬と駕篭を連ねて郊外へ何日間かの遠出をした。最初の

Préface de l“Enpitsu Kibun” 

訪問地 となったのが箱館と湾を隔てて相対して位置する七重村の植物園だった。


 「植物園では将軍の医師(栗本瑞見)がその他の医薬関係の役人と あらゆる敬意を払ってくれました......医学上必要なために集められたすべての植物がここでは見られ、学生たちが研究していました......ここはキュー植物園(ロンドンの王立植物園)ではないが、美しいできたての温床で、ほとんど世界各国の植物の見本が集めてありました」。


 一方、食用牛について箱館に入港する外国船から食用にするための牛を譲って欲しいという依頼がひっきりなしに出されるが、日本側は国禁を楯に拒んできた。いつまでも国禁は通用せず、とりわけ「病人薬用之爲乞受度」と言われ、奉行所は食用牛の外国船への譲渡を検討せざるを得なくなり、安政2年7月、箱館奉行竹内下野守は「英人牛肉懇請之事情ニ付相伺候書付」(4)という次のような趣旨の伺を老中に提出した。


 「箱館に停泊中の英国船から条約のことで面会したいという申し出があったので面会致しましたところ、長い航海のため「船中日増ニ病人多ク候ところ、牛肉乏敷ク候に付、病人薬用の為乞ヒ受渡シ度ク」という申し出がございました。これに対し国禁であるから譲り渡しはできかねると答えると、先方は長崎での条約書を取出して「船中必要用の品は何にても相渡ス可シとこれ有り、牛は食料第一の品、且ツ病人養生の為相願ヒ候儀に付、渡シ方取計ヒ呉候」と言います。条約がそう言ってもすべての要望にこたえるという趣旨ではないと回答しますと、では「鶏鳩鹿豚等御渡シ方相成ル間敷哉」と申します。しかし鶏卵などは多人数のため間に合わないでしょうが、ともかく国禁の旨を繰り返してとりあえず鶏と卵のほか魚野菜を渡すことで何とか引き下がってもらいました。しかし、これまでも英米の人たちから同様の懇願が繰り返され、さらには「御國禁の趣は余儀無く候得とも、箱館並び南部邊にも、夥敷しき牛を見懸候儀に付、追ては御賣渡相成候得ども、江戸表へ伺の上取計ヒ吳候様、是非相願ヒ候」という要望が英国船の船長から出されております。長崎ではオランダ商館長飼育の牛は譲り渡しておりますのに、他国には認めないというのは一貫しません。他国にも病人用として譲渡を許可するか、あるいは外国から牛を取り寄せて飼育して渡すと言う選択もあるのではないかと存じます。国禁を楯に拒むこれまでの対応を繰り返すことは「勢ヒ覚束無ク奉リ候間、両様の内ヨリ御治定御座候様仕リ度ク、此段伺ヒ奉リ候」」。


 これに対して、外国船に対して薬用として牛を譲り渡すことを「箱館表に限り」ということで認める老中からの指令がその年の末に届いた。


 「耕牛相渡候義は、素々御国禁ニ付、相成リ難ク候へとも、薬用ノ為ト申立候は、異国の請願も黙止ナシ難ク候間、別段獣畜場ヲ取建テ、豚并野牛飼立、出來次第相渡ス様致される可く候」。


 老中から許可が出て「御下知相済候へとも、飼立方等引請候ものこれ無く」、やむなく「南部・津軽両藩から50頭ツゝ取寄せ」て、近在の村に預けて繁殖を計画した。しかし、外国船が数隻入港したらすぐに払底してしまうと思案していたところ、「栗本瑞見儀、牛豕(豚)羊とも引請、飼立方仕法(飼育方法)取調申立」てたので、早速「南部から貳百七十頭、買い入れ」て飼育することになり、「蕃殖之上は、當地産物にいたし、他邦にも相廻」すことができる見通しが立ってきた。「格別の骨折罷リ在リ、並ビニ薬園ノ方も世話仕リ候」ということで、彼の努力を慰労奨励するため「異船渡牛代(外国船に譲り渡した牛の代金の)御有餘金之内より、盆暮銀七枚ツゝ、御手當と為し下すは然る可き哉、此段相伺申候」という伺が認められて次のような申渡が行われた(5)


  申渡

  盆暮  銀七枚宛                     栗本瑞見

  牛豕羊飼立方并御薬園共、厚く世話致し、格別骨折候ニ付、向後為御手當被下之


 牛豚羊飼育に道筋をつけた栗本は病院建設にも奔走する。

 カションはカトリック教会建設のかたわら、箱館での病院建設を計画しており、そのためにフランスから医師レオン・デュリーが来日することになった。カションはパリ外国宣教会への報告で、日本語に関する著作が順調であり、


 「私のそばには優秀で学殖豊かな若い二人の助手がおり、学校の生徒は日々増えております


と書き(6)、また1861年6月5日付パリ外国宣教会年次報告は、病院建設について


 「蝦夷の二人のプリンスの要請と皇帝の筆頭医師の協力によってカション氏は欧日病院を建設する準備をしており、病院長を予定しているフランス人医師もまもなく日本に出発することになっています


と言っている(7)。なお、プリンスとは奉行、皇帝の筆頭医師とは栗本のことであろう。

 しかしカションの病院計画は頓挫する。デュリーはパリ万博使節団が派遣されたさいに、カションに代わってシーボルトとともに使節団に同行したが、積極的なイギリスの外交攻勢の前ではなすすべがなかった(8)。しかしデュリーは、箱館ではなく長崎でフランス人神父らとフランス語教育を始め、明治になってからも京都や東京で多くのフランス語学徒を育成した。その功績によってマルセイユ名誉領事に任じられている。

 箱館での病院建設について栗本はこう書いている(9)


 病院の建設は萬延元年の冬に在りしと難も、其之を目論見しは安政六年にして、市中の醫師が協議の上、予及び鹽田順菴(10)(松園と號す書を善くし画を嗜めり、現今外務大書記官鹽田三郎(11)氏の父なり)を町學校に延て(呼んで)醫書を講ぜしめ金を衆醫に醵して之が酬と為し、積て百両に満るを待て官に請願し一区の地を借りて小堂を築き、山の上町娼妓の徽毒療治を引受け傍ら他の貧民の病を救藥施療せんと謀りしなり」。


 こうしたなか、ロシアはすでに小さな病院を建てていたが、さらにロシアの箱館領事ゴスケヴィッチによる200床規模という大病院建設計画の噂が流れた。


 「市中の醫師既に此擧に着手し、況や我が民疾を醫するは、我官の爲すべき事にて、敢て他國の手を假るべき謂れ無しとて、露人(ロシア人)の請に先立て俄に病院建設の事に及はんとし、速に余と順菴とに命じて之を促がさしめ、醫(医師)の醸金を以て資本となし、猶は足らざる所は奉行始め諸吏員叉市中用達受負人有志銘々金を出し費を助る事に至りしなれば、官の周旋保護は蒙ると雖も、其根源発起は全く衆醫の所爲に出たるなり」。


 しかし建物は上棟式前夜に暴風のため全壊してしまい、再度


衆醫に議し町年寄名主等に就て、山の上町(12)妓襖の積金二千圓餘あるを借り受け、娼妓療治代を以て引去り消却するを謀りたるに、皆衆醫の志を屈せざるを悦て、輙く(すぐに)之に應ぜしかば、意外に易く行はれて余が經營に従ひ玄關、診察所、調薬室、剉製所生薬を刻んで煎じ薬などをつくる製薬工房)、講堂、男婦病人寄留所(入院病室)共総て二百余坪前規に照して更に大を加えて新築


する。この病院は、フランスから栗本とともに帰国した高松淩雲が箱館戦争で野戦病院として使用した。現在の函館市立病院の前身である。病院には医学校も併設された。


 「床の間の正面に掲ぐる幅には恭しく大己貴少彦二神(いずれも医薬を司る神)の霊を祀り、以て衆醫學術を精究し、元々の横夭を免るゝを禱る(長寿を祈る)の字を竹内下野守に請ひて筆せしめたるを以てし、右傍には予が祖父瑞仙坊法印(13)親筆の神農像の幅を掲げ、左傍には田澤春堂(14)が所蔵の菊池容齋筆画西哲ヒポクラテス像の幅を以てせり


 この栗本を放っておくはずはない。文久2年、医籍から士籍へ身分替えという当時としては異例の人事が行われる。『徳川三百年史』は、


 「文久二年特命あり、醫籍を改めて士員に列し、箱館奉行組頭に任ぜらる(15)、當路者も亦深く其の材器に見る所ありて、異數、破格の選を行へるなり


と書く。

 組頭になった栗本は、その直後の7月に蝦夷・樺太巡察行に出発する。栗本の巡察行出発を聞いたカションはすぐに


 「外国事務役人衆へ 副奉行栗本暇乞を望まるること告知有りて吾尊敬すへき師直に面会するは吾において甚幸いなり


と言い、自分から日時を指定するのは礼を失するので先生の都合のいい日時を聞いて欲しいという書簡を奉行所に出した(16)

 蝦夷・樺太巡察行は1年を超えるものだったが、のちに巡察行について栗本はこう書いている。


 「時は文久二年歳四十一の折なり.....北蝦夷唐太の地魯西亜と境を接するを以て、事端漸く稠く(だんだん問題が生じるようになり)、時々重役の臨検を要するに因り、同年七月箱館を發して北渡東西を巡視し、北緯五十度前人未だ見ざる所の使犬部属アイノ人種住地の極端タライカ湖に到り、還て久春古丹(17)に駐る。翌年三月任満るを以て南渡し、北岸を東行して恵戸路府久奈志利の二島をめぐり、九月箱館に還る」。


 帰箱すると栗本はすぐに江戸に呼び戻された。


                                                                                                                                                             

(1)栗本『文献54』(「鉛筆紀聞」)はフランスや欧米の軍事や民事に関する栗本とカションの問答集。藤田東一郎は「文久元年一八六一年に識したものである」(『文献139』)と書いているが、万延から文久に改元するのは万延2年の2月であるから辛酉正月」は文久元年正月ではなく万延二年正月である。「題言」冒頭の「己未の冬」の「己未」は安政6年(1859年)である。カションの出身地をパリとしているのは間違いである。「薩州漂客」は薩摩(琉球)に漂着した外人すなわちカション、「陳人」は「不肖」などと同じくへりくだったことば、「晩晴楼」は眺めのいい高台の栗本の住居であろう。

(2)『文献143』

(3)この40人に塩田三郎(「益田孝と塩田三郎」「通弁官塩田三郎」ほか参照)も加わっていたという。

(4)『大日本古文書』(『文献172』)。

(5)『箱館奉行所文書』(『文献182』「外国人へ差渡の牛豚羊飼養並に薬園世話方栗本瑞見へ申付の件」)。

 文書の日付 は「未七月」すなわち安政6年7月であるが「申渡」の方は「未八月」となっている。なお「題言」冒頭の文書の冒頭右上に奉行津田近江守、右下に奉行所組頭河津三郎太郎(「柳北と馬」)、向山栄五郎(「排佛コンペニー」「佳朋向山黄村」参照)、三田喜六こと三田伊右衛門(「排佛コンペニー」「手術」)らの名が見える。

(6)J’ai avec moi deux jeunes scribes très-intelligents et très instruits; mon école augmente de jour en jour.

(7)Sur la demande des deux princes de l’île de Yesso et avec le concours du 1er Docteur de la Cour de l’Empereur, Mr. Mermet se dispose à établir un hôpital européen et japonais ...... Le médecin français qui sera mis à la tête de cet établissement fait déjà les préparatifs de son départ.

 カションはフランス語学校の「生徒は日々増えている」とか栗本を「将軍の筆頭医師」などと書いているが、カションには誇張癖があったようである。

(8)田辺『文献95』

 田辺は「(同行したイギリス公使館通訳アレキサンダー・シーボルトと比べて)ジュリーはほとんど在るも、ないようなものであった」と書いている。

(9)栗本「箱館叢記」(『文献53』)。

(10)加賀出身。幕府医官塩田宗温の養子。安政3年命により箱館に赴任。

(11)「益田孝と塩田三郎」「柳北の訪仏」参照。

(12)文久元年、文久2年などに描かれた箱館の絵図箱館真景において実行寺の右上に「山の上町(遊女屋)」が描かれている。同じく、栗本たちがつくった「町學校」すなわち「醫學所」も絵図の右手の湾に突き出た「ヲダイ場(お台場)」の上方に「フドヲ(不動)」と並んで描かれている。

(13)4世栗本瑞見。丹州とも号す。法印は幕府医官最高位の称号。

(14)南部藩出身。祖父の代からの医家。松前藩の藩医を経て安政2年にかぞえ60歳で俸禄弐人扶持の箱館奉行所お雇い医師となる。

(15)組頭はどんな職位であろうか。箱館を去る栗本に面会を求めるカションの書簡は栗本を「副奉行」と呼んでいるが(「栗本カションの再会」注(1))、奉行所役人の俸禄をみると(「栗本左遷」注(10))、奉行が「高2000石、役料1500俵」であるのに対して、奉行に次ぐ役職である支配組頭は「150俵、役料300俵、役金120両」と奉行の5分の1ないし6分の1、石高を除いても3分の1程度である。「副奉行」などと呼べる待遇ではない

(16)1862年7月30日(文久2年7月4日)付書簡「カション、暇乞ノ副奉行栗本ト面会ノ件」(名村五八郎訳)

(17)17世紀に松前藩の穴陣屋が設けられた唐太の地名。