現代社会

論文

イスラエルとパレスチナ

                                      1年*組**番  **    **

 

  イスラエルでは女子高生や13才の中学生までもが手作りの爆弾などを抱えて、自爆して死んでいる。日本の高校生や中学生では考えられないことだ。

 

イスラエルのふとったシャロン首相、パレスチナのツバとばして怒りまくりのアラファト議長。今世界でこれほど露骨に憎みあい殺しあっている民族は、他に見当たらないだろう。

そういうわけで、この二つの国の歴史を調べてみることにしました。

 

 まず最初に、二つの国と書きましたが、実際にはそうではない。イスラエルは独立したユダヤ人の国だが、パレスチナは自治区であって、国ではない。

  

 地図で見ると、イスラエルは北にシリア、レバノン、東にヨルダン、南にエジプトに挟まれた小さな国だ。 イスラエルは1947年、今から55年前にできた国だ。55年というと与野南中学校の方が歴史があるくらいだから、ものすごい新しい国であるということだ。私の祖父が75才だから、じいさまが成人式の頃に生まれた国だ。

 しかし、イスラエルは独立したのは55年前だが、その歴史は旧約聖書の時代にさかのぼって古く、パレスチナ人なんてのが暮らし始めるはるか3000年も4000年も前からここに住んでいたのだ、と主張している。

 ヘブライ人という人々が今から4000年前にあのあたりに住んでおり、ユダ王国という国も作っていた、その子孫がユダヤ人であるという。ユダ王国はローマ帝国に滅ぼされ、国民は全員が奴隷としてローマ帝国の各地に分散させられてしまった。この歴史から、ユダヤ人は自分たちをディアスポラ(=離散の民)と呼んでいる。

 イスラエルではヘブライ語を話し、自分たちのことはイズライールと呼んでいる。

 

 一方、パレスチナというのは歴史では紀元前12世紀までさかのぼる。ヨーロッパや北アフリカに住んでいた「ペリシテ人」に由来しており、主にカナーンという土地に暮らしていた。そのため、カナーンはパレスチナと呼ばれるようになった。

 パレスチナというのは 英語名で、パレスチナ人はアラビア語を話し、自分たちのことをファレスティーンと呼んでいる。

 パレスチナは国ではなく、「自治区」と呼ばれている。イスラエル(もともとはパレスチナとヨルダンの領土)国内にしみのように 点在している。つながった土地ではなく、あっちに少し、こっちに少し ある感じだ。大きなところでガザとかラムアッラーとかジェニンとかがぱらぱらとある。

 

ユダヤ人とパレスチナ人に何があったのかというと。その問題の始まりは、ユダヤ人にもパレスチナ人にも無いことが分った。

その歴史を順番に追ってみる。

1941年 第一次世界大戦の時、イギリス政府はマクマホンという人を派遣して、アラブ人の代表フセインとある約束を交わした。どういう約束かというと、

『戦争が終わったら、アラブの国々の独立を認めよう』というものだった。

この約束は@フセイン・マクマホン往復書簡 と 呼ばれている。

当時、アラブには幾つもの部族があったが、全体としてはオスマントルコ帝国の支配下にあった。オスマントルコは 第一次世界大戦でドイツを支援していた。ドイツと敵対していたイギリスは、各アラブの部族がオスマントルコ帝国に反旗をひるがえすよう希望していたのだ。そして、戦争が終わった後は、イギリスも各アラブの部族もおいしい思いをしよう、というわけだ。アラブ民族は独立した国を作りたいので、イギリス人との約束を信じて 参戦してドイツと戦った。

 

同じ頃、イギリス政府は サイクスという人をフランスに派遣して、フランスの代表MRピコとある約束を交わしている。これは 代表者の名前をとり Aサイクス・ピコ協定と呼ばれている。

どういう内容かというと、『戦争が終わったら、オスマントルコ帝国の支配しているアラブの土地を、イギリスとフランスで分け合おう』というものだ。

 

 一体、イギリスはどういうつもりで、両方にこんな約束をしたのだろう?しかも、もともとが自分の土地ではない国なのに、それを分けっこしよう、というのはあまりに自分勝手ではないだろうか?

 

 ところがもう一つ同じ頃、イギリス政府は外務大臣のバルフォア氏を、イギリスのユダヤ人グループの代表に会わせている。そしてこんな約束をした。『戦争が終わったら、パレスチナにユダヤ人のナショナルホームを作るのを、イギリス政府は指示する』というものだ。これは Bバルフォア宣言 と呼ばれている。

 

まとめてみると、イギリスの約束は以下の3つである。

 

@                     フセイン・マクマホン書簡  → アラブの土地はアラブ人に

A                     サイクス・ピコ協定        → アラブの土地をイギリスとフランスで分ける

B                     バルフォア宣言            → アラブの土地にユダヤの国を作らせよう

 

それぞれの国は、この約束を信じたのだから、これはもう国家的な大嘘つきといえるだろう。こうして アラブの混乱は イギリスによって作られたのだった。

 

1918年 第一次世界大戦は、ドイツの降伏で終了した。

結局3つの約束のうち、イギリスが選んだのは

 フランスとのAサイクス・ピコ協定だった。こうして アラブの土地は、イギリスとフランスにより分け合うことになったのだ。

 

  頭に来たシリアやイラクは、イギリスを無視して独立を宣言する。が、イギリスの大軍が動員され 、力ずくで押さえつけられてしまう。

そして『独立は認めない。アラブ各地はイギリスとフランスの領土である』と認めさせられてしまった。

 

 勿論 アラブの各部族は怒った。しかし、イギリス人は大嘘つきだったと文句をいってもあとのまつりである。

 この時、イギリスとフランスにより、アラブの地図が作られた。つまり それまでは

「大シリア」と呼ばれ、国境もはっきり定めていなかった土地に、イギリスとフランスの都合に合せて線を引いて、シリア、レバノン、ヨルダンなどの国を作ったのだ。

 

アラブとアフリカの地図を見てみれば分るだろう。きれいなまっすぐな線が引かれている。これはヨーロッパが勝手に引いた国境線なのだ。その時、もともとそのあたりに住んでいる部族などの意見は一切聞き取られることはなく、イギリスとフランスの都合だけで国を作ったため、土地を失う部族が多く出てしまったという。

 

第二次世界大戦が起こり、ドイツ、イタリア、日本の敗戦で終了した時、世界はドイツの行なったユダヤ人へのホロコースト(=民族大虐殺)にびっくりした。なにしろ

 ナチスドイツは大勢の罪なきユダヤ人を「民族浄化」のために、大虐殺していたのだ。日本人にはピンとこないことだが、ユダヤ人は 金貸しだの、ダイヤ産業だので成功した大金持がいるため、差別され どの国でもつらい思いをしていた。その差別をヒットラーとナチスが利用したのだ。

 

この差別を止めさせるにはどうしたらいいのか?ユダヤ人は考えた。

「それはユダヤ人が他人の国に住んでいるからだ。自分の国を持たないからだ。

それならば 自分たちの国を作ればいいのだ。」

では、どこに?

そこで、ユダヤ人は『バルフォア宣言』を思い出した。

 

「何千年も前に、ヘブライ人の国のあった土地そこが、ユダヤ人のナショナルホームになるべきである。」と考えた。 そこが、パレスチナだったのだ。

 ただし、問題があった。すでにそこにはパレスチナ人がたくさん住んでいたのだ。

 

 しかし、ユダヤ人移民計画は止める者も無く、どんどんおこなわれていった。ドイツを含めたヨーロッパから 第二次世界大戦後は、パレスチナに移住するユダヤ人は急激に増えた。

ヨーロッパからだけでなくロシアからの移民も多かった。なぜならばロシアでも戦争中、ポグロムと呼ばれるユダヤ人大虐殺が行われていたので、ロシアのユダヤ人も自分の国が欲しかったのだ。アメリカからのユダヤ人移民も大勢いた。アメリカのユダヤ人は移民も多かったが、資金や武器提供を多いにおこない、イスラエルのスポンサーとなった。

 

国連は勿論、世界は気の毒なユダヤの人々に同情して、たくさんのお金を移住するために出してあげた。

『バルフォア宣言』があったので、イギリスもフランスもそれを見て見ぬふりをするしかなかった。

 

  ユダヤ移民は豊富な同情と豊富な資金で パレスチナの土地をばんばん買っていった。パレスチナ人は今まで価値が無いと思っていた土地が売れるので喜んで土地を売る人もいた。

 ところが、あまりにも急激にユダヤ人が増えてゆくので、パレスチナ人は心配し始めた。

 地上げ屋とかヤクザも現れた。ひどい話しはたくさんあるそうだ。

 たとえば「ご先祖様の土地は売らない」というパレスチナ人も勿論多くいたが、力ずくで家を追い出された人もいた。 あるいは、「村の広場に集合!」という呼びかけで手ぶらで集まったら、そのまま村を追い出された人々もいた。 「絶対出ていかない!」と部屋に閉じこもったら ブルトーザーで家ごと壊して殺された人がいたという事件も増えていった。

 

 たとえば、さいたま市にユダヤ人が突然たくさん入植してきたら、俺達はどうするんだろう?「今はさいたま市かもしれないけれど、3000年前はユダヤ国家があったので、我々はふるさとに帰ってきたのです。だから皆さんは すみやかに出ていって下さい」と

サラリと言われたら、俺達はどうするんだろう?

 

 パレスチナ人は自分の住んでいた土地を失って、そこではじめて「自分の国」を失ったことに気がついたのだ。でも、俺達だって、今住んでいることの土地を、「自分の国」だなんて考えたことはない。

 盗られてはじめて、しまった、あれは大事なものだった。と言うんだろう。俺達はたった数年でユダヤ人に国を取られたパレスチナ人を馬鹿だと笑うことはできない。

 

   1948年にイスラエルが独立宣言をしてすぐに、パレスチナとイスラエルは戦争をした。この戦争は第一次中東戦争と呼ばれている。パレスチナだけでなく、サウジアラビア、イラク、ヨルダン、エジプト、シリア、レバノンがアラブ連合軍を作りイスラエルと戦った。ところが結果はイスラエルの勝利で、イスラエルに占領されてもそこに残ったパレスチナ人156000人は、アラブ系イスラエル人となり 以来2級市民とされた。

 

 1956年、エジプトのナセル大統領の呼びかけで、イスラエルに奪われた土地を取り戻そうという第二次中東戦争が起こった。再び イスラエルが勝ったが、アラブではアラブ民族主義が高揚していった。団結してアラブの権利を守ろうと叫ぶナセル大統領は大人気だったが、戦争には負けてしまった。

 

1967年、第三次中東戦争が起こった。イスラエルのユダヤ人はいっそう増え続け、20年ほどで4倍に増えていた。この為、イスラエルは領土をさらに広げ 無断でシリアやレバノン、ヨルダンなどに村を作っていったのだ。また アラブ人はイスラエルと戦ったが、この三度目の戦争もイスラエルの勝ちだった。これにより、イスラエルは領土をシリアの南西部ゴラン高原、エジプトのシナイ半島、ヨルダン川西岸地区を新たに手に入れた。

アラブは負けてばっかりだ。

 

1973年、アラブの奇襲により第四次中東戦争が起こった。緒戦はアラブ側に優位だったが、勢力図は変化無しのまま、またアラブの負けだった。

 

アラブとイスラエルは戦争ばかりしていたわけではなく、何とか平和に解決しようと

努力もしているはずだろう。4度も戦争をして、どちらも沢山の犠牲者を出して、だからこそ、戦争の悲惨さはよく分っているだろう。イスラエルは徴兵制のある国だ。だがこの間あるテレビ番組で「徴兵を拒否して刑務所に入れられているイスラエルの若者が増えている。 」というのを知った。

 

シャロン首相はパレスチナが町内会のように おとなしい組織になるまで叩くつもりなのだろう。それまでは 「テロは許さない」というアメリカの考え方に同調してゆけばアメリカもお金を出しつづけてくれるだろうと考えているのかもしれない。でも「テロは許さない」と言いながら、ミサイルや戦車で人を殺していけば、今のテロリストは殺せても、次のテロリストを作っているようなものだと、私は思う。

 

ユダヤ人のヘブライ語での挨拶は「平和を」という意味の『シャローム』で

パレスチナ人のアラビア語での挨拶もまた「平和を」という意味の『サラーム』だ。

でも、平和はものすごくものすごく遠くにある。

 

 

                                        おわり

 

 

参考文献

「民族の世界地図」 21世紀研究会 

「イスラームの世界地図」21世紀研究会

「イスラーム辞典」平凡社

「イミダス2002」集英社