最近、ソフィーの仕事は一つ減った。
それは、朝一番彼女がするはずだった仕事。
驚くほどに、それは突然に変化した。
あれはきっと、ハウルに心臓が戻り、新しい城で暮らすことになった丁度あの日の翌日からだ。あまりにもの早い変化に、ソフィーはついていくのがやっとだったほどだ。
・・・それというのも。
「ソフィー、ソフィー」
「ん〜・・・」
人生で最も幸福なときといえば、ソフィーは三つを上げる。
一つ目は、食事のとき。
二つ目は、何より睡眠・・・そう、まさしく今このとき。
丁度深い眠りについて、居心地のよい睡魔のゆりかごにゆられていたというのに、それをあっさりと邪魔する輩が三日ほど前から現れるようになったのだ。
その正体は、言わずもがな。
「・・・、・・・ハウル・・・・・・・」
半ば、眠いという素直な感想と、三日目とはいえよくもまあ毎回行使できるものねといった別の意味での感心と呆れとが混じった複雑な寝起きの掠れた声を出す。
しかしそんな声にハウルは悪びれもせず、寝ぼけ眼の彼女を見下ろして無邪気に微笑んだ。・・・出会ったばかりの頃に比べると、大分幼くなった彼の表情。
黒髪も染めずにそのままで、ありのままの自分を見せて何かと構ってくるハウルの方が、ソフィーは断然好きだった。
かといって、それとは違うハウルが嫌いというわけではない。
彼女はたとえハウルの姿が黒い鳥であろうが、魔王であろうが怪物であろうが、髪の色が何色だろうが、普通の人間が発せば全身がかゆくなるであろう気障な台詞を吐こうがお構いなしに彼のことが大好きだ。
・・・単なる惚気に発展するため、ソフィーはあまりハウルの事に関してはあまり他人に口外しない。離せば皆面白くなさそうな顔をするであろうし。
・・・・彼以外は。
かくてソフィーは朝日も目を覚ましたばかりの朝焼けの頃、こうしてハウルにたたき起こされるのが日課となりつつあった。
彼女は早寝なので、大して負担とも思わないが。
しかしハウルがソフィーを早朝にたたき起こすのは、別に大それた理由があるわけではない。結局あの後、花畑から花をつんで花屋を開こう、といった彼の提案を実行することになったため、二人で花を摘みにいっているだけの話なのだ。
朝露の香りは、嫌いではない。
爽やかな風を感じ、ソフィーは流れ星色の髪をなぶられながら思う。
するとほぼ同時に、ハウルが言った。
「・・・羨ましいな」
「え?」
先ほどまで考えていたことと全く違う話題へとほぼ強制的に引き戻されて、ソフィーはきょとんとハウルを見上げる。表情や言動がいくらか幼くなったとはいえ、背の高さは変わらない。けれども見上げた表情は、最近彼が良く見せる少年らしいものとは多少異なっている。
「・・・何のこと?」
正直なソフィーの言葉に、ハウルは長い前髪をそのままに目を細めた。
「マルクルだよ。・・・子どもはいいよね、邪気がなくてさ」
「そうね。とっても素直で優しい子。きっと将来立派な魔法使いになるわ。・・・でもあなたも、似たようなものじゃない」
「・・・ぼくは違うよ」
ふい、と視線を逸らし。
ハウルは少しだけ歩き、しばらくしてひざを付く。
そうして、白い花びらを親指で撫でさすりながらまた言った。
「ソフィー、この花、君の帽子の材料に使えないかな。ドライフラワーにしてさ」
「・・・・・・」
・・・ハウルはいつもこうだ。
こちらが納得する前に、彼の中で会話が自己完結されてしまいすぐに話題は打ち切りになってしまう。・・・きっとこの新たに為された会話も大した意味を成さずに終わってしまうのだろう。
そう思うと、妙に悲しくなった。
「そうね。・・・素敵だもの」
「・・・ソフィー?」
彼女の言葉に潜む、少しだけ組んだ寂しさを察したのか。
ハウルはソフィーの瞳を見つめる。
「なんでもないわ。・・・はやく済ませましょう」
「はやくなんて、済ませなくてもいいよ」
「何いってるの。みんながおなかを空かせて待っているもの。はやく済ませて、はやく帰って朝ごはんを作ってあげたいじゃない」
家族なんだし・・・と。
実に幸せそうにソフィーは言う。
ハウルもその発言だけには無条件で同意した。
”家族”という言葉には、それだけの魅力と価値があることを誰よりも知っている。
「またカルシファーが文句を言うね」
「そう?最近では文句一つ言わないわ」
最近といっても、たった三日前からの話だけれど・・・とソフィーはくすくすと笑う。
そんな様子をハウルは実に複雑そうな苦笑を浮かべて見つめる。
「ソフィーだけなんじゃない?」
「・・・はぁ?」
「ソフィー、美人だから。あれは舞い上がってるんだよ。だってソフィー、いちいち褒めちぎってやってるしね。・・・あの、お調子者」
「・・・美人じゃないわよ」
ソフィーはそれだけを言って穏やかに微笑む。
謙遜とか、そういった類の反応ではない。
本当にそうだと思い込んでいるものだ。
ハウルは彼女がこうなる度、長いため息をつく。
しかしそういう時に限って、ソフィーはハウルの様子にきがつかないのだ。
いつもは繊細なまでに気にかけてくれているというのに。
彼には、それが全く理解できなかった。
「それに私は、別にカルシファーにお世辞を言っているわけじゃないわ。本当にすごいと思ってるもの。あんなに小さな身体で、こんなに立派なお城を支えているのよ?」
「・・・まあ、ね・・・」
「すごいと思っているから、すごいといっているの。それに火は大事な生活の糧よ?その役割を全て引き受けているのはカルシファーだもの。彼は、立派よ」
「そうだね」
ハウルはまた場所を移し、今度は紅い花を愛でる。
「ねえ、ソフィー。・・・彼はまた来ると思う?」
「・・・彼?」
はて、誰のことかしら・・・と首を傾げるソフィーにハウルは穏やかな・・・先ほどよりも次第に大人びてきた表情を向けてやんわりと答える。
「カブ・・・、おっと、いけない・・・あの王子様のことだよ」
「ああ・・・、そうね。心配よね」
「・・・心配?」
「そうよ。だって、戦争をとめるって約束してくれたじゃない。・・・でも、そう簡単にいきっこないわ。だから、無茶をしなければいいなと思ったの」
「・・・そう」
そしてまたハウルは場所を移し、今度は紫の花を愛でる。
しかし、次の話題は始まらない。
ソフィーはそれを、城に戻る頃合だと悟り、座り込んでいたために多少皺ができたスカートを何度か払い、籠を手に取った。
いつもはハウルもそれに合わせてついてくるのだが・・・。
「ハウル?」
ようやくここでソフィーはハウルの異変に気が付く。
・・・考えてみれば、今日はやけに饒舌だったといまさらなことを思う。
まるで尋問されているかのような気すら・・・今さらしてきた。
気づくのが遅すぎたと悟り、ソフィーはハウルが座り込んでいる隣に腰掛ける。
横顔が、いくらか憂いを帯びている。
まるで戦争が激しかった頃の彼を見ているようで、不安になってしまう。
「・・・どうしたの?今日のあなた、少し変よ?」
心なしか、機嫌が悪いようにも思える。・・・しつこいようだが、いまさら。
「私でよければ何でもいって。隠し事はなしよ」
「・・・・・・」
「お願い、ハウル。・・・あなたがそんな顔していると、とても不安になるわ」
「・・・」
ハウルは焦点の定まっていないであろう彼方を眺めたまま、ぽそり、と唇を動かした。
ソフィーの言葉がどうやら、彼の少しだけ閉じかけていた心の扉をもう一度完全にあけはなつ手助けをしてくれたようである。
「・・・なら、言うけど」
「ええ。何でも言って」
あなたのことであるならば、何だって受け入れる覚悟はできている。
それは彼の黒い姿を見た時から心で立てていたであろう誓いのようなもの。
ソフィーは強い意志を称えた瞳でハウルを見つめた。
一目で、彼女が純粋に彼を想っていることが見てとれる光だ。
・・・が。
ソフィーはある意味、今のハウルを甘く見ていたようだ。
さんざん人に心配をかけさせておいて。
彼が放った言葉といえば。
「・・・僕は知ってるよ」
「・・・は?」
「君は僕が知らないとおもっているみたいだけど」
「・・・・?・・・・?・・・????」
・・・意味がわからない。
ソフィーの頭の上では、疑問符が沢山出現し、わっかをつくってマイムマイムを踊っている状況だ。ハウルは一体、何が言いたいのか。
しかしそれはすぐに美しい真顔のままで放たれた。
理解不能のこんな言葉。
「浮気者」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「キス魔」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「天然男落とし」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「わからずや」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・ああ、すっきりした」
全然すっきりしていないかのような言葉に、ソフィーは理解不能な言葉達を一生懸命に解読することに努力する。
・・・いっきに全ては無理だ、ということで一つ一つ片付けていくことにした。
こんなときにまでいくらか冷静でいられるのは、一度老婆になったおかげか。
「・・・浮気者ってどういう意味・・・?」
「そのままの意味さ」
「覚えがないわ」
「よく言うね、色々な男を無意識のうちにとりこんでるくせに」
「・・・誰、それ」
「名前をあげてあげようか?とりあえずマルクルだろ?それからカルに・・・それでもってヒン、おまけに王子様まで」
指折り数えるハウルに、ソフィーはきょとんとした表情で言う。
「とりこむ?・・・そういう魔法ってあるの?私、知らないわ」
ここまで無自覚だと逆に不安になってくる。
ハウルは不機嫌になりつつも本気でソフィーのことが心配になってきた。
「ようするに、天然男落としってことさ。ソフィーは気づいていないだろうけど、君の一挙一動でみんな君の虜になってしまっているのにね」
「・・・」
「それからついでに補足してあげるけど。君は何人とキスをした?」
「・・・」
「カルにまでした。・・・挙句の果てには王子様にまでね」
「・・・」
「最後に。・・・何度も言わせるからいい加減嫌になってきたけど。・・・ソフィーは綺麗だよ。君が何と言おうがね。君が綺麗なのは外見だけじゃない。心が綺麗だから余計に綺麗に見えるんだ。・・・その自覚がないし、おまけに君は自分は美人じゃないとか、目立たないとか地味だとか言うときたものだ」
「・・・ハウル」
「なに」
「・・・あなたひょっとして・・・やきもちやいてくれてたの?」
いけない。
酷い頭痛がしてきた。
ハウルは頭を文字通り抱え込む。
駄目だ、彼女は何一つわかっていなかったんだ。
普通は気づくぞ、それ以前に!
素でわかっていなかったのか!
ハウルも十分、違う意味でソフィーを甘くみていた。
「・・・なんか、どっと疲れた・・・今日はもう引き上げよう・・・」
「ハウル」
「もういい・・・出直す」
「ハウルったら」
「君がもっと納得できるような話術を身に着けてから挑戦するよ」
「必要ないわ」
「どこが!」
もう、一体何で自分が腹をたてていたのか分からないくらい、ハウルは落胆した。
そんな鈍感さもソフィーのよいところではあるけれど・・・これはあまりにもあんまりだ。
このままでいれば、この先自分がどれだけの精神疲労をきたすかわかったものではない。・・・無論ソフィー本人に対してではない。
彼女をとりまく、その周りだ。
けれど。
あれやこれやと考えを四方八方に飛ばしていたハウルの思考回路を停止させたのは。ソフィーの、簡単な一言だった。
「それだったら心配しなくて大丈夫。だって私、あなたしか見えないもの」
ああ。
なんだか。
今度は別の意味で不安になってきた。
ハウルは新たな悩みにぶつかって。
それでも、なじみ始めた心臓のあらくなっていく鼓動に翻弄されて。
きっと、この先ソフィーに振り回されつづけるのだろう。
心も、心臓も。
そして、身体も、その全てを。
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