田舎散策

2012.02・27

泉自然公園・妙興寺・真光寺・御成茶屋跡

 五月に出かけたい山があるので、トレーニングかたがた、ザックに6k程の荷を入れて出かけました、歩行距離は20kmの距離を目安にコースを設定しました、泉自然公園は30数年振りくらいです、千葉にも私の生家より不便な所?があるんだと感心しながら歩きました、農政センターの広さにもビックリしました、道路も、道路脇の林も整備されていてこの近くは気持ちがよかったです、もう一つのビックリは産業廃棄物の処理場の多いのに驚きました。

 コースは大型車量の通行のないコースを選んだのですが一部はやもおえづ大型車量の通行する箇所を歩くことになってしまいました。

川井町の林の中のサイクリングロード

平和公園の入口でバスを降りて細い道に入ります、大型車の通行する道路を歩き川井町の林に入ります、細い道の両脇は不法投棄された廃棄物が目立ちます。

川井町の林

 小鳥が鳴いているほか、風の音だけです、千葉にもこのような林があるんだと感心しながら歩きました、

 狭い道路は舗装されていますが、落葉や、枯れ枝が散乱していています、サイクリングロードになっているようですが、誰にも合いません、私一人です、2万五千の地図が便りです、最新版・平成19年更新を使用しているのですが、宅地の造成により大分変化しています。

五十土町の竹林

 手入れがなされていない、竹林です、竹林の風はやわらかいです、春にはタケノコが芽を出すでしょう。

 真竹かな、孟宗竹ではないのは確かです、ことによると

泉自然公園入口の案内板

 三十数年振りの泉自然公園です、花見に数回来ました、よく手入れがされていました、ウメの花もサクラもまだまだのようです、カタクリも芽を出していませんでした。

泉自然公園の黄梅

 表口に出るとよい香りがするので、おや、マンサクかなと思って近づくと蝋梅(黄色いウメ)でした、良い香りを放っていました。

 今日は平日なので園内には私のような年齢のものがちらほら、寂しいような静けさです。

野呂町の六社神社

 野呂町の六社神社です、六社神社は何を祀っているのでしょうか辞書を調べたけれどもワカリマセンでした、樹木の太さから考えるとかなり以前に祭られたと思います、神社に来ると背筋がピンと伸び、姿勢がよくなった気がします。

妙興寺の三門

 地図上に名前が記されていたので、興味があったので訪ねることにしました、今回このルートを選んだ理由の一つでもあります、このような三門の造りも珍しかったです。

古泉町の六社神社

 古泉町の神社も六社神社でした、この地域では六社神社が多いようです、手入れが良いのでしょう、階段も綺麗に掃かれています、ここまで三時間あまり、休みを一度も取っていません、三時間歩き通しです、13時になっていたのでここで休憩とお昼にしました、結構疲れています。

中田町の真光寺

 遠くから見ると大きな屋根がお寺であることを確認できます、大きな屋根は銅葺きなのでしょう、緑青を吹いています、本堂(庫裏?)は古いようですが他は最近建て替えられたようです。

田圃脇に咲くイヌノフグリ

 日当たりのよい、畦道には早々とイヌノフグリが花を咲かせていました、春を告げる今年一番の花のように思えました、小さい花なのですがなんというか、嫌味のない中々愛らしい花です、

田圃の畦に咲くセイヨウタンポポ

 田圃の畦道に咲いていました、カントウタンポポだったら良いのにと、想いながら観察したらセイヨウタンポポでした、残念でした。タンポポはある程度の温度と日照さえあれば花を咲かせるのかしら、タンポポは今では一年中花を咲かせる不思議な花に成ってしまったのでしょう、花は不思議です。

 

御成街道の標識

 御殿町に入ると道路の脇にこのような標識が数本立てられていました、御殿町から金親町の間に見られます、広い道路ですが交通量はさほど多くはありません、千葉市の田舎という感じがします、道路の立派なのに驚きました。

御茶屋御殿跡入口の標識

 道路の脇に建植された標識です、もっと目立つものにすればよかったのにと思いました、まばらな落葉樹の中に100bほど入ると、調査中なのでしょう、ブリキで覆われた建物があるだけで、立入禁止になっていました。

御茶屋御殿跡の説明板

御茶屋御殿は次のように説明されています。

 徳川家康が鷹狩りのために、休息地として造営したものです、このような御殿は千葉市のほか御成街道の起点である船橋市に「船橋御殿」、お狩場である東金には「東金御殿」が設営されました。

 寛文年間(1662〜72)に取払われて、その跡地も現在多く改変されています、この御茶屋御殿もほぼ同じ頃に取払われたものと考えられますが跡地は良く旧態を止めています。

 御殿跡は一辺約110mの方形で、周囲に幅約5mの薬研堀の空堀と高さ約2.5mの土塁をめぐらし南北2ヶ所に出入り口があって、その内側に枡形土塁が構築されていました、内部の遺構については発掘調査により、主殿と思われる基壇部分のほか長大な掘立柱建物跡群や、井戸跡の外17世紀中期の陶器などの遺物も発見されています。 と説明されています。

御茶屋御殿の空掘り

 御殿茶屋跡の空掘り〈薬研堀〉、右手は土塁です。

立派な長屋門

 御成街道沿いの長屋 数軒見られます。

 

※ 【読売新聞の街道を行く】によると、御成街道は一夜にして造った道であると書かれています、徳川幕府が開かれて間もない1613年(慶長18年)12月、家康が「正月、東金周辺で鷹狩りをする」と言い出し、佐倉城主の土井利勝が突貫工事で普請した、97ヶ村の農民を総動員し、村毎に工事区間を分担させ完成させた道、道幅三間、現在の船橋市から東金市まで約37`、当時は、ほぼ直線という街道は少なく、軍用の側面があったようだ、だが、東金での鷹狩りが行われなくなると街道としての機能は次第に衰えたという。

 一般に「御成街道」、別名「権現道」、「一夜街道」、「提灯街道」とも呼ばれている。

 〔2012.02.28. 山口 峯雄〕