長崎旅行 : 注釈
| 1.レザノフ事件 |
| 1 長崎入港許可証 1782(天明2)年、江戸に向かう途中暴風雨に襲われた神昌丸(船長大黒屋光太夫以下16名)は、約7ヶ月の漂流の後、翌年ようやくアリューシャン列島のアムチトカ島に漂着しました。 そこでロシアの商人に助けられ、やがてロシアに向かった光太夫一行は、次々と仲間を失いながらも、博物学者キリル・ラックスマンの助力を得て艱難辛苦の果てに1791年、ついにロシアの首都ペテルブルグに辿り着き、エカテリーナ2世に謁見して帰国の許可を得ました。 生き残った光太夫と磯吉、小市の3人(あとの2人はロシアに帰化)はラックスマンの息子、アダムに送られ、1992(寛政4)年、根室に到着します。幕府は光太夫らを受け入れた(小市は直前に死去)ものの通商は拒絶、その代わりに長崎への入港許可証(信牌)をロシア側に渡しました。ロシアに帰国したアダムはその功績により大尉に昇進しました。 2 レザノフ来航 1793(寛政5)年、石巻を出航した若宮丸が福島磐城沖で暴風に見舞われ、アリューシャン列島のアッカ島に漂着します。彼らもまたロシアの貿易商人に助けられ、ロシアへと連れて行かれます。 一方、かねてから北太平洋・アラスカでの権益拡大のために日本との通商を目指していた露米会社の総支配人ニコライ・ペトローヴィチ・レザノフは、かれら漂流者の日本への送還を機会として日本との交易を樹立しようと目論み、日本遠征計画を立案しました。 対日使節に任命され、ロシア皇帝アレクサンドル1世の親書を携えたレザノフは、帰国を希望した津太夫ら4人(何人かはロシアに残留)を伴ってロシアのクロンシュタット港を出帆、大西洋を越え、南米マゼラン海峡を通過して太平洋を渡り、ハワイ、カムチャツカを経由して1804(文化元)年、ついに(大隈半島沖で台風に遭ってボロボロになりながら)長崎湾に到着します。 3 日露交渉 長崎までやってきたのはいいのですが、なかなか入港させてもらえず沖合で待機させられたり、上陸を許可されたと思ったら狭い区画に閉じ込められたりと、日本側の対応にレザノフらの苛立ちは募ります。その間、レザノフは持病のリューマチが悪化するわ、漂流民の中から自殺を企てるものは出るわでさんざんです。反対に日本人は気球を見せてもらったりして大喜びです。 ひたすら待たされること半年余、ようやく幕府の特使として目付:遠山景晋(遠山の金さんの父)が到着、日露会談が行われますが、幕府の回答は・・・漂流民は引き取るが、ロシア皇帝からの親書も贈り物も突き返す、交易は拒絶する、とどめに「2度と来ないでくれ」と付け加える身も蓋もないものでした(もっとも幕府も失礼のないようにと気を遣い、補給物品は大量に供給しているのですが)。 レザノフは激怒しますが、やむをえず津太夫たちを日本側に引き渡して長崎を出港、帰国途中、日本に思い直させるためにはショック療法しかないと2人の仕官に日本沿岸への攻撃を指令します。レザノフはあとで命令を撤回しようとしますが急死してしまい、ついにロシアがサハリン (樺太),択捉 (えとろふ) 島の日本施設(あの間宮林蔵もここにいました)を攻撃、対する日本側も測量中のロシア軍人ゴロブニンを逮捕、日露関係が悪化しますが、ゴロブニンの部下リコルド、高田屋嘉兵衛らの奔走により、ロシア側が幕府に謝罪、危機的状況は回避されました。 4 その後の日露関係 1853(嘉永6)年、ペリーの浦賀来航から遅れること1ヶ月、ロシアのプチャーチン提督が4隻の軍艦を率いて長崎に入港しました。目的は通商要求と北方領土の国境問題画定。 幕府代表筒井政憲、川路聖謨らとの双方一歩も引かない粘り強い交渉の末、1855(安政元)年日露和親条約が結ばれます。会談の間、両国は何度も険悪な雰囲気になりますが、プチャーチンは常に紳士的に交渉を進め、対する日本側も誠意を持って応答し、プチャーチンと川路聖謨は時には激しく対立した相手にお互い深い敬意を抱きあいました(「ハァハァ…なかなかやるな」「お前もな」という感じ)。 この間、ロシア側の旗艦ディアナ号が下田で安政の大地震に巻き込まれて大破、沈没しますが、伊豆代官江川太郎左衛問の援助や沿岸の村民たちの献身的な協力により新たに小型洋式帆船を建造することに成功、プチャーチンは伊豆・戸田村への感謝の意を表して新しい船を「ヘダ号」と命名します。プチャーチン及び乗組員たちは病没した1名を除いて全員無事本国に帰還しました。 |
| 幕末について書かれた本などを読んでいると、例えばペリー提督が乗ってきたサスケハナ号は乗員300名、プチャーチン提督のディアナ号だと乗員500名などといった記述を目にしますが、昔の艦船に数百人(しかも軍隊)も乗る、というのが読んでいてどうもイメージできない。 どのくらいの大きさだったのだろう?どのように乗り合わせていたのだろう?と考えているうち、一度当時の大型蒸気船を見てみたい、あわよくば乗り込んでみたいと思い始めた矢先、ハウステンボスのガイドを眺めていると、そこには観光丸という復元された蒸気船が存在し、洋上クルーズも行っているという情報を発見。 これはぜひとも見ねば、乗らねば、と固く心に誓いました。 観光丸とは? アヘン戦争(1839〜1842)以後、オランダからさんざん開国の必要性やペリー艦隊派遣情報などを忠告されながら何ら対策を講ぜず、1853(嘉永6)年のペリー来航に際してようやく海軍を創設する必要性を思い知った徳川幕府は、出島オランダ商館長ドンケル・クルチウスを通じてオランダに8隻程度の西洋式軍艦を発注しました。 クルチウスは軍艦を1隻徳川幕府に献上することを東インド総督に建言し、1855(安政2)年、幕府に対してオランダ国王ウィレム3世から蒸気船スンビン号が献上されました。スンビン号はやがて観光丸と命名され、幕府が遅まきながら創設した長崎海軍伝習所の練習艦となり、勝海舟や榎本武揚がここで学ぶことになります。 この観光丸を当時の設計図、模型をもとに復元したものがハウステンボスの観光丸です。 観光丸データ(ハウステンボス公式サイトより) * 全長/65.80m * 全幅/14.50m * 喫水/4.2m * メインマストの高さ/32m * マスト数/3本 * 総トン数/353t * スピード/10ノット * 建造費/12億円 * 乗船定員/300名 * 動力/帆走、スクリュー機走、パドル(外輪機関)による機走(ディーゼルエンジン搭載) |
| 1 ツュンベリーと2人の日本人 カール・ツュンベリー(←どう読むんだ?)は、「2名法」で有名なリンネの弟子で、スウェーデンの植物学者です。 1775(安永4)年、オランダ商館付きの医者として長崎出島に赴任してきました。目的は日本(と南アフリカ)の植物採集です。 ツュンベリーは将軍徳川家治に謁見するために江戸をも訪れました(道中抜かりなく植物採集)が、宿泊先の長崎屋に熱心に通ってくる日本人が何人かいました。なかでも彼の注目を引いたのが桂川甫周と中川淳庵の2人で、彼らは解体新書の翻訳に参加していたためオランダ語に通じており、特に中川はある程度会話もできるほどでした。 この2人はツュンベリーが博識であることを知ると、熱心に質問を浴びせ始めます。ツュンベリーは2人から日本植物研究への協力を得る一方、ヨーロッパの学問を教えていきます。彼らのあまりの熱心さに辟易することもあったようですが、非常に楽しく有意義な時間であったと後に述懐しています。 江戸を離れる日、ツュンベリーは学業修了の証としてオランダ語で書いた紙を渡しました。2人の喜ぶ様は、ツュンベリーが目にしてきたどんな喜びよりも大きく、誇り高いものであったそうです。 ツュンベリーは約1年半後の1776(安永5)年にスウェーデンに帰国しますが、このスウェーデン学者と日本の医師との交流は、その後も出島を経由した文通によって続けられます(オランダ語で)。 2 ヨーロッパで有名に 1792(寛政4)年9月3日、ロシアへの漂流民、大黒屋光太夫と磯吉がロシア使節アダム・ラックスマンに伴われ、北海道根室に到着しました。翌年、2人は江戸に送られた後、将軍徳川家斉に謁見しますが、その場には外国事情に詳しい者として、桂川甫周も立ち会っていました。(中川淳庵はすでに死去) その席で松平定信ら幕閣による尋問を受けた光太夫が、桂川甫周の名はロシアでも有名であると答えたため、一同は仰天します。 実は帰国したツュンベリーは「日本植物誌」という本を著しましたが、その序文に2人の日本人弟子の名前を記しました(その手紙は在日中に採集した植物標本とともに今もスウェーデンのウプサラ大学に残されています)。これにより、2人の名前は日本の学者としてヨーロッパの学界に知れ渡っていたのです(当然本人は知りません。鎖国下ですから)。 ロシア出発に先立ち、アダム・ラックスマンの父、キリルは光太夫に2通の手紙を預けていました。それは友人(!)ツュンベリーから出すよう勧められた、桂川甫周と中川淳庵に宛てた手紙でした。 |