イ.長谷寺宗宝蔵前
碑表「是よりいせ宮川廿一里半/はせこゑ卅六丁 道」
碑裏「延享丁卯年/為廻國供養 菅野村/ 五月日 行悦」
(長谷寺への距離:約4km 宮川への距離:約86km)
長谷寺内には街道関係の道標が、山門前、普門院、宗宝蔵の3ヶ所にみられる。
行悦の回国供養碑は宗宝蔵(文化財展示・収蔵室)の庭内にあり、確認されている中ではこれが西限となるが、もとは西峠付近にあったとされている。
碑裏には年号が記されており、延享4年(1747)に建立されたものである。(67.0×32.0×33.0)
ロ.榛原区赤埴甲(大久保東)
碑表「はせより是へ三里/回国供養/是より宮川江十八里半
菅野村/行悦」
(長谷寺への距離:約12km 宮川への距離:約74km)
赤埴甲地区の中垣内を過ぎ、大久保へ行く間は茶店や旅籠もあって賑わったとあるが、今は人影もまれな静かな山道が続く。
道標は大久保集落の東の本街道沿いにある。
街道はここより諸木野を通り石割峠へと向かう。
(98.0×26.0×39.0)
ハ.室生区黒岩(宮城・山粕峠分岐)
碑表「はせより是迄五り 菅野村/回國供養 行悦/是より
宮川へ十六り半」
(長谷寺への距離:約20km 宮川への距離:約66km)
黒岩から曽爾へと本街道を進むと、水田地帯で宮城と山粕峠へ別れる三叉路に出くわす。その分岐にある、背面が土手に埋もれた黒い石が供養碑である。
山粕峠を越えたところに不動明王が祀られているため、この峠は「不動坂、不動峠」とも呼ばれている。
(61.0×50.0)
ニ.曽爾村 山粕(西山家地内)
碑表「はせより是迄六里/回國供養行悦」
(長谷寺への距離:約24km)
山粕春日神社より少し東にある西山貞一邸の庭に「右 はせみち 左いせみち」と刻まれた道標と共に残っていたとのことだが、現在詳細は不明である。
ホ.御杖村 菅野(庄谷角) (※行悦の碑か否かは未確定)
碑表「宮川へ十五?/右 いせ」
(宮川への距離:約60km)
長らく別の場所で保管してあったが、最近になって原位置に復した。
書体・石材・彫りの状況から行悦の碑ではないかと考えられているが、他のものに見られる「菅野村行悦」「回国供養」の文字がないため、確定には至っていない。
居村であるため、あえて銘を入れずに建てたのか、全く別物なのか、今後の調査が待たれる。
(53.0×36.0×26.0)
ヘ.御杖村 神末敷津(佐田峠)
碑表「はせより是迄九里/是より宮川迄十二里廿一丁/
為六十六部供養 願主/行悦」
(長谷寺への距離:約36km 宮川への距離:約50km)
神末の敷津入り口となる佐田峠の首切り地蔵のところに、大和から見ると最後に位置する供養碑が残る。
首切り地蔵は明治の廃仏毀釈の時に損傷したもので、首から上の病気に霊験あらたかだといわれている。
(95.0×53.0×30.0)
ト.飯南町下仁柿(庚申祠横)
碑表「はせより是迄十四里/是より宮川へ八里半/すがの村/
行悦」
(長谷寺への距離:約56km 宮川への距離:約34km)
伊勢の国に入り、最初に見られる行悦の道標は、合併して松阪市となった旧飯南町の下仁柿にある。
現在、道標は原位置の筋向いにある庚申さんの所に横倒しになっているが、地元の方々が近々奉仕で復旧させるという話しが出ている。
三重県内では数が少なく貴重なので、ぜひとも保存をお願いしたいものである。
チ.大石町上出(庚申堂前)
碑表「はせより是迄十五里半/是より宮川へ七里/すがの村/
行悦」
(長谷寺への距離:約62km 宮川への距離:約28km)
大石町上出の街道沿いにある庚申堂の石垣の一角に建つ。江戸初期までの街道はこの堂横の道を北に進み、東の集落を経て伊勢へ向かうルートであったという。
以前よりここに石碑があるのは知られていたが、これが行悦の道標であるということは、最近判明したものである。
セットで造られたのであろうか、形状・字体・内容が下仁柿の碑とそっくりである。
リ.多気町上牧(地蔵横)
碑表「はせより是迄十七里宮川四里/廻国為供養すがの村
(以下土中)」
(長谷寺への距離:約68km 宮川への距離:約16km)
現在確認されている行悦の道標の中で、東限になるのがここの碑である。
他のものが自然石であったのに対し、これのみ角柱型である。居村から遠く離れていることに起因するのであろうか。
いずれにせよ、どの供養碑も長谷と伊勢の距離が刻まれているので、お伊勢参りの旅人達にとっては大変ありがたかったことに違いない。
(49.0×15.0×14.0)
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