京都の旅  「清水寺」。
 行きたかった京都に足を踏み入れる事が出来ました。
 清水寺創建にかかわった延鎮上人と行叡居士円珍。坂上田村麻呂が訪れるわずか二年前の出来事で「音羽の滝」で滝行をしていた行叡(ぎょうえん)さんから託された延鎮(えんちん)さんが仏像を彫って開いたのが、もとは北観音寺という名前だったのですが清らかな水の寺が清水になった。音羽の山中からこんこんと流れる霊泉、「音羽の滝」は清水寺の聖地。岩から流れ出る湧き水
清水寺創建にかかわった延鎮上人と行叡居士円珍。清水寺が創建されてから300年後に清水寺の舞台に建てられた。 清水寺の舞台は(家光が400前に創建した。

 「清水寺駐車場」・「清水寺参道」 朝清水寺駐車場に着いた時は観光バスは数台しか駐車していませんでしたが、帰る時は駐車場は満車でした。門前町は約200メートルに約60件のお店が並び、途中に有る、「来迎院経書堂」のおもかる石(おもかるさん)にお願いして、石を上げ、石が上がると願い事がかなうとか。

 「清水寺善光寺」 地蔵さんの首を、好きな人が住んでいる方向に向けて願うと願い事がかなうと言われている。上の写真をクリックすると別ウィンドウに写真が開きます。

  「仁王門」の前には左右二体の「狛犬」が。 神社の前に狛犬、神仏習合の名残で、両方とも口を開けている。民衆が寄付した。 上の写真をクリックすると別ウィンドウに写真が開きます。  「鐘楼」・「三重塔」

開山堂。
  清水寺ブームの立役者は坂上田村麻呂が征夷大将軍になる前に。後に、清水寺の財政的なスポンサーになってお寺の礎になった。時の権力者が信仰することで清水寺の人気がますます高まったそうです。


清水寺(しんすいじ)じゃなく、なぜ(きよみずでら)になったか。
 清水寺創建にかかわった延鎮上人と行叡居士円珍。坂上田村麻呂が訪れるわずか二年前の出来事。「音羽の滝」で滝行をしていた行叡(ぎょうえん)さんから託された延鎮(えんちん)さんが仏像を彫って開いたのが、もとは北観音寺という名前だったのですが清らかな水の寺が清水になった。音羽の山中からこんこんと流れる霊泉、「音羽の滝」は清水寺の聖地。岩から流れ出る湧き水。

 本堂「国宝」

 仁王門・三重塔・西門(重要文化財)。


 「三重塔」・「清水寺案内図」 上の写真をクリックすると別ウィンドウに写真が開きます。  
 本堂の「舞台」眺める絶景。清水の「舞台」。清水寺の舞台は(家光が400前に創建した。

 「奥の院」から眺める「本堂」・「舞台」。奥の院は改装中でした。 本尊は秘仏で、お前立ち「十一面千手観音像御前立仏」。 上の写真をクリックすると別ウィンドウに写真が開きます。

 「地主神社」  上の写真をクリックすると別ウィンドウに写真が開きます。

 本堂舞台を見上げれば。舞台は、ケヤキ176本で一番長い木は約12m、直径80センチ重さ4トン。すべての柱に、雨が当たる場所全てに屋根が付けられていた。舞台下の木組みは釘を一本も使っていない。現代の高僧ビルと同じように、柱を垂直・水平に組む構造は揺れの衝撃を吸収する。

 「音羽の滝」。清水寺創建にかかわった「延鎮上人」と「行叡居士円珍」が「音羽の滝」で滝行をしていた「行叡(ぎょうえん)」さんから託された「延鎮(えんちん)」さんが仏像を彫って開いたのが。

 「西門」・「清水寺」を後にして。 上の写真をクリックすると別ウィンドウに写真が開きます。

そのほかに、 @馬駐場(うまとどめ)室町時代の創建:どんな偉人たちも馬をとめ、徒歩で歩いて見た。 A髄求堂(ずいぐどう)今ではおみくじやお守りを売っている場所。豊臣秀吉はお世継ぎができなくて、髄求堂のご本尊「大髄求菩薩」様にお世継ぎの御祈願をなされて秀頼公が誕生された。お守り(お経入りの袋)の発祥地。 B成就院(じょうじいん)。西郷隆盛が清水寺で密談を行っていた謎。当時幕府の「安政の大獄」という。京都から逃げた西郷隆盛と月照(げつしょう)、途中で頼って行った薩摩藩の島津斎彬公が亡くなった事を知り行くところが無くなった、錦江湾(きんこうわん)で入水自殺をしたが、月照は亡くなり西郷隆盛は生き延びた。