本誌2010年7月号掲載 TOPに戻る

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北海道B&Wショウ 
半世紀の足跡



<企画に2年の歳月>
 1961年(昭和36年)6月10日、好天に恵まれた恵庭市の家畜市場で、わが国初の「B&Wショウ」が産声を上げた。未経産2、経産2クラスに地元石狩をはじめ空知、胆振から52頭を得ての開催だった。開催日程が6月の上旬になったのは、春の播きものを終え、1番牧草の収穫前が参加しやすいとの判断である。審査には当時農林水産省新冠種畜牧場長だった牧野敏夫氏が当たった。当初は円形歩行審査の予定であったが、牛の調教が充分ではないと氏の助言もあり、並列させた個体の比較審査により順位を決めるという形式がとられた。審査後は各クラスごとに懇切丁寧な講評が述べられ、出品者、参観者にとっては実物を前にして乳牛を学ぶ絶好の機会となった。参考出品の父系、母系牛群にも多くの酪農家が取り囲み熱心に観察した、と当時の新聞が伝えている。堅苦しい表彰式もなく、デーリイクイーンによって入賞リボンの装着が行われたのも目を引いた。こうして酪農家の親睦と研鑽の場としての「B&Wショウ」は幕を上げたのである。第1回の最高位に輝いたのは安平町・竹田幸夫氏出品のマダム・バター・ゲールチエ・ローヤルだった。
 今から50年も前のことであるが、「B&Wショウ」という聞きなれない催しを発案・企画したのは、アメリカで実習を体験した石狩、空知、胆振の若手先進酪農家達である。当時日本の実習生が海外で見た乳牛のショウは、家族ぐるみで愛牛を持ち寄り、酪農家同士の親睦を深め、和やかな雰囲気の中で改良を研究しあう形態だった。「酪農は1人ではできない、横の繋がりが大切だ」この感慨を深くして帰国した若者達が、「若者の手による共進会」をやろうと2年の歳月をかけて話し合いを続け、61年にようやく第1回の開催にこぎ着けたのである。



第1回の入賞リボン



わが国最初の「B&Wショウ」の審査には
農林省新冠種畜牧場長・牧野敏夫氏が当たった



<出品料を払って参加>
この新しいスタイルの共進会は、「酪農家の、酪農家による、酪農家のための催し」がモットーで始まった。それまでの共進会は官が主体で、出品牛は限られた牧場から指導員が選定を行い、審査は測尺、個体、並列、比較審査の順で数人の審査員が行い、夜中に協議し翌日序列発表という、当時の若者には賛同しづらいものだったという。「B&Wショウ」は酪農家自身の運営による共進会で、出品料を払えば誰でも自由に参加でき、酪農家による歩行審査、審査講評・表彰の簡素化、併設行事も行う、という画期的な試みだった。第1回の出陳料は300円、その中から会場・設営費に100円、入賞リボン代が100円、参加賞として全員にブラシが配られた。リボンは色が違うだけで金額は同じ、序列による差を付けないのが主義だった。
 この若者達の発意は多くの共鳴者に支えられ、翌年開催の江別市では円形歩行審査が行われ、父系、母系牛群も正式に採り入れられた。そして3回目岩見沢市、4回目安平町開催へ続くのである。10回目を迎えた70年からは「北海道B&Wショウ」の名のもと全道一円となり出品頭数も240頭を超え、雄牛の部も正式に加わった。この時の雄の最高位賞牛は長沼町・宇都宮牧場出品のセンーミヤ・ダブル・チヤンピオンだった。73年からは道外からの出品を認め、念願だった審査も単独で行うものとし、その先鞭をつけたのは千歳市の黒澤勉氏である。その黒澤氏が選んだ最高位牛は、何と愛知県豊田市・杉浦弘泰氏が出品したカーチス・ウイロー・ヒツト・パレードだった。



第1回〜5回までの出陳名簿は
酪農家自らの手によるガリ版刷り



<B&Wショウが全国に広がる>
 B&Wショウの成功と成果が全国に認められ、各地に乳牛改良同志会が結成され、地域の「B&Wショウ」が企画運営されるのにそんなに時間は要しなかった。そして町村単位のB&Wショウだけでなく、次々と地域連合のショウである中部日本、四国、中国などビッグショウの誕生をみるのである。81年には全国規模の第1回全日本B&Wショウも開催され、「B&Wショウ」の種が大きな開花を見た。
 52頭の出品から始まった北海道の「B&Wショウ」も5年目には100頭を超え、会場設営、車両整理、後片付けなど酪農家だけでは人手不足でサツラク農協、北海道ホルスタイン農協、関係機関の後援を受けて現在に至っている。80年には20周年記念として、発案した若者達アメリカ実習時代やその後の乳牛の購買でも多大な世話を頂いたウィスコンシン州のマーロー・ネルソン氏とエリス・クヌーツン氏を審査員に招いて行われた。この時同ショウとしては最高の530頭の出品があり、未経産の一番大きなクラスでは98頭になったため急遽2分して審査が行われた。大きな節目のショウで頂点を極めたのは清水町・伊原政義氏出品のデージー・セジス・クリスタンであった。
 回を重ねるごとに未経産、経産のクラス分けが細分化され、母娘群、自家生産牛群なども増設された。しかし80年の20回大会を境に出品頭数は減少傾向を辿り87年には150頭にまで落ち継続が危ぶまれた。91年からは主催をB&Wショウ運営委員会から北海道ホルスタイン改良協議会に移され、200頭規模のショウが継続されている。2年前からはジュニアカップ、ジュニア・リードマンコンテスト、国内後代検定種雄牛による父系牛群、昨年からはジャージー種も4クラス加わった。
 併設行事として賑わったものの1つにB&Wセールがある。北海道ホルスタイン農協の主催によって65年(第5回)から始められ、途中71〜73年は休んだものの、1995年まで28回実施された。春のビッグセールとして定着し、北海道内はもとより本州からの購買客が押し寄せ、優良牛に白羽の矢を向けた。87年のセールでは、84年にわが国で初の2万sを突破したスーパーカウ、ピユーゼツト・アール・トライユーンの娘牛に495万円の値が付き場内がどよめいた。


第2回のクラス首位牛。
個体写真を特別に撮影して報道することはなかった



第10回が開催された恵庭市の会場 
道央3地区の他に十勝からの出品も多く240頭が集まった


<牛を通じて人が育ち、心に残る催しに>
 秋の北海道ナショナルショウとともに2大ビッグショウに発展した「北海道B&Wショウ」は、毎年盛会理に開催されてきたが、2000年、そして2010年と口蹄疫の発生により自粛を余儀なくされた。この間審査員は60名にのぼり、当初は国内の著名な酪農家と日ホ審査員によって行われてきたが、89年から10年間は北米から審査員を招き、審査技術においても研鑽を重ねてきた。このショウの審査を経験して、その後海外から声がかかった方も数名いる。99年からは出品者による投票で、北海道ホルスタイン農協が認定する審査員の中から選ばれている。
 以下経産の最高位賞牛を紹介するが、3回選ばれた牛が2頭いる。66、67、69年の2・スカイラーク・サイクロン・オームスビー(長沼町・宇都宮牧場)、71、72、76年のクイーン・ロメオ・コンケスト(清水町・串田長久氏)。また2回では64、65年の2・フエムコ・ヒカリ・ロベル(江別市・町村農場)、81、83年のセジスビユー・クライマツクス・パンジー(岩見沢市・今西一實氏)、88、90年のミユーチユアル・オブ・クリストフアー(由仁町・三谷耕一氏)、95、96年のサーリバー・グローリア・プライミー(帯広市・佐川毅史氏)の4頭。
 また未経産と経産で最高位になったのは、68年と70年のウイニー・マドキヤツプ・エンボイ(江別市・町村農場)、71年と75年に選ばれた千歳市・黒澤勉氏のホワイトバーチ・バター・ガール・ラグ・アツプルの2頭のみ。雄牛は70年から90年までの21年間続けられたが、74年から76年まで3年連続最高位賞に輝いた牛がいる。その牛はリリーフアーム・ローランド・トライスター(安平町・竹田幸夫氏)で、優美な姿は毎年多くの酪農家を魅了した。