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ハーゲン物語
 (本誌2008年1〜5月号掲載)

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 旭日昇天の勢いとは「ハーゲン」のことを言うのでしょう。1頭の元祖牛からEX級を47頭、全国共進会出場7頭、全道共進会1等賞20回、うち最高位3回、準最高位2回、インターミディエイト1回と近年希な好成績を残している。13代目まで進んだ子孫は全国に輪を広げており、1,251頭の登録を数える。ハーゲン導入から33年の歩みを北海道豊富町・佐藤信夫、道寛父子に伺ってみた。


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(1)ハーゲンの導入とタイロー・ハーゲンの誕生

〜昭和48年8月に元祖ハーゲン・スター・ブーツメーカーが誕生しています。導入の経緯を教えて下さい。

 「豊富の佐藤なら、どんな牛でも買うよ」と言われるほど牛を導入していました。私は昭和41年に後継したのですが、牛舎には15、6頭の牛がいて、平均乳量は4,700sでした。自らが牛に携われるのは、長くて35年、当時自分が持っている血液だけでは改良も遅れるし、生活してゆくのが大変になると思っていました。
 当時全国的に高まっていた改良熱が宗谷にも押し寄せていました。49年2月10日、世話してくれた方の話では、奈井江町の北良治牧場に輸入牛と体内輸入の母娘牛がいると言うのです。母はグレナフトン・ラグ・アツプル・ハーゲン、娘はパクラマー・ブーツメーカーの子でした。私はすぐに奈井江に走り、6ヵ月令の娘を見て、即座に導入を決めました。「この牛に自分の人生をかけてみよう」と直感したのです。それは何にも根拠のない唯のヒラメキでした。
 私は25才を目前にしており、結婚も考えておりました。父は早くから私に経営移譲してくれていたので、多少は経済観念もあるつもりでしたが、この時ばかりは借金しました。後にも先にも牛の購入で金を借りたのはこの時だけです。自己資金に拘ったら、今のハーゲンはあり得なかったのです。

〜ブーツメーカーの娘には光るものがあったのですね。

 後でこじつけると何とでも言えますが、6ヵ月令の子牛を見て、私に分かる訳がありませんよね。ただ質は良いと思いましたが、ひ弱さも同時にあって、自分の腕で飼いこなせるかという不安がありました。当時は個人でも輸入牛を入れたり、北米の輸入牛セールがあちこちで開催されていました。それでもブーツメーカーの直の娘を手に入れるのは最後のチャンスだと思いました。その思いの方が強かったですね。
 良い血統を求めていたという考えに矛盾するかも知れませんが、購入時に、「血統は一流ではないよ」と言われましたが、あえて余り気にしませんでした。娘はわが家に、母は同じ豊富町内に導入されました。母牛はちょっと細かったけれど、私がそれまで見た牛にはない長さ、高さがあり、尻の幅や長さに優れた牛でした。これらの部分は遺伝的に自分の牛群に取り入れてみたい部位でした。

〜このブーツメーカーの娘を全道共進会に出品したのですね。

 うちに来た時には弱さもあり、コンディションもアンダーでした。腰が弱いのは共進会では致命的なんですが、質が良いのは続いておりました。50年の道北地区では2才未経産クラスで3番目だったのですが、前の牛が欠場したりして繰り上げで全道に向かうことが出来たんです。結果はもちろん3等賞でしたが、私にとって最初の全道出品牛でした。そして全道というのは楽しい場所だと知りました。今後何度でも行ってみたいと思いました。
 共進会に参加しても、農協単位の共進会でさえ一歩も前に出たことがなかったのです。8年目でやっとハーゲンで2番目になって、それが全道につながったのですから、あの牛は幸運を運んできたのです。11月に乳房を付けてみると、今の牛に比較すると幅も高さも不足しておりますが、しっかりと靱帯が入っていて、狙いどおりの牛でした。その後2産4才級でも全道の舞台を体験しました。
 ブーツメーカーの娘は、骨質とか頸の抜けが良かったですね。その変わり胸が狭いとか、腰がゆるい特徴も同時に出ました。ある時、同志会の講習会をお願いした恵庭市の清水勝さんがわが家にも寄ってくれて、私が腰がゆるくて残念だと言ったら「腰がゆるいのは質の良い証拠、財産だと思って大事に育てて下さいよ」って言われたんです。どちらかと言うと期待はずれの気持ちが強くなりかけていた時だったので、「やっぱりこの牛は良い牛なんだ」と勇気をもらいました。それからまた力を入れて飼い出したんです。
 彼女は乳量記録は1万sちょっとでしたが、当時のわが家の管理水準からすると出た方でした。5才の体審で86点頂いた時には、その評価に歓喜しました。その後12才で8産し75,000sの生涯成績は立派だと思っております。わが家には5頭の娘牛が残りました。



佐藤牧場のハーゲンの元祖
ハーゲン スター ブーツメーカー
1973.8.6〜1985.8.12 写真は11才時


〜初産はアグロ・エーカース・シユープリームの娘牛でしたが。

 アグロは48年にカナダから輸入された種牛で、アグロ兄弟牧場のEX級4世代「パンジー」ファミリーの代表息牛です。ラグ・アツプル系ですから、体型の大型化を狙ったものでした。初産にアグロを選んだのは、ハーゲンを紹介してくれた方が、「アグロの娘を見たい」と言われたからです。種牛について余り知識もなかったので、素直に受け入れました。
 50年11月、生まれてきた子牛は、丸太んぼのように丸い骨の牛でした。種牛一つでこんなんに牛が変わるものかとショックでした。乳量も親の半分近くしか出ませんでしたし、生涯ごつい骨の牛でした。

〜アグロにはどんな注意を払って交配されたのですか。

 生まれてしまった以上、販売する訳にもいかず、何とか質の良い牛にしたいと思って、最初にプレステージを交配してみたんです。あちこち自分の目で見て歩いて、プレステージが1番良い牛でした。ブーツメーカーとアグロの中間、強さも、骨も良くしたいと思ったからです。結果はもう少し強さがあっても良いかな、という部分もありましたが、質も良く体の長さも充分でした。後乳房はもっと高く、広くなるかなと予想しましたが、期待より少しはずれました。しかし当時の改良としては一応満足でした。

〜アグロの娘の2産目にタイローを選んだのは。

 今のように交配方法も種牛の種類も充実していなかったので、バークとかラグ・アツプルしか思いつかなかったのです。アグロはラグ・アツプルだから、再度バークをくぐさないとならないと考えていました。バークは質は良いがサイズがなく、薄いという欠点も持っていました。
 しかし「カンサスバークは違うぞ」という触れ込みで54年春、タイロー・タイデイ・エレベーシヨンが供用の運びとなりました。冬の間に開催された講習会では、タイローの海外での娘牛写真を見せて、賛美したり期待したりする声を多く聞きました。カンサスバークは大きさもあって、幅もあり、強さもある、という内容でした。私は早い機会にアグロの娘を大幅に改善して、デイリーな牛にしたいと熱望していました。
 55年7月、アグロの2産目としてタイローが生まれて来る時、足首を見ただけでワクワクした記憶があります。私にはとにかく輝いて見えました。タイローの娘は58年春に留萌で開催されたホルスタイン・ホリデーで2才級2位となり数枚の写真が残り、JHBS社のパンフレットに随分登場しました。タイローはその後61年秋に6才3ヵ月5産目で90点となり、わが家で最初のEX牛となりました。5才で約13,000s、6才では16,500s、そして7才6産になると17,500sの超能力を発揮したのには驚きました。
 タイローは、能力って言われた時にも体型を大事にし、タイプと言われても能力を忘れない、バランスが大事だと教えてくれた牛です。初産から1万s出ないと満足出来ない経営もあります。しかし私の経営スタイルは初産は8,000sで充分なんです。少しでも長く牛群で働き、良い子供を残すことが目標ですから。産を重ねるに従い牛が成熟する、これが理想で、私の酪農スタイルに合っているんです。タイローは私のやり方に合っていた牛でした。



ハーゲンの名声を広めた
レスポアール タイロー ハーゲン
1980.7.9〜1993.9.11 写真は4才時


〜タイローの出現で、ハーゲンがより脚光を浴びましたね。

 周りの人が、タイロー、タイローと言ってくれる訳でしょ。そうなると、その牛をきちっと管理して、ショウリングに上げたり、記録を残したりしないと「お前はやっぱり大したことのない牛屋だ」となってしまいます。そう言われたくなくて、何とかその牛の持っているものを存分に引き出して上げたくて、自分にプレッシャーを掛けながら、それを何とか乗り越えてゆこう、耐えてゆこう、と努力してきたのが良かったのかも知れません。
 ハーゲンの始まりはブーツメーカーですが、気持ちの上では59年に牛舎が焼けた時に頑張ってくれたタイローが、また一からやり直そうと決めた時にタイローが、と私には区切りに必ず登場してくる存在でした。
 タイローは2・3才時に弱さが出て、管理上難しいと思ったこともありました。しかし5才を過ぎて充実してくると、骨が薄くて、ああいった骨格構造をしている牛が本当に強いのだ、本物なんだと、理解できるようになりました。彼女は59年から輸入精液、61年から受精卵移植という恩恵にあずかりました。初めは薬の影響を受けて調子を悪くしたりしましたが、1回の採卵で2頭くらいの雌が残りました。留まった牛の8割くらいが雌で、10年間に自然分娩で6頭、ETで16頭、合計22頭の娘が残りました。タイローは13才、祖母ブーツメーカーは12才まで長生きし、子孫の繁栄を見守っておりました。

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(2)キツトとブレンダ

〜タイローはETを含めると22頭の娘を残しました。現在8代目まで進み、子孫はハーゲン一族の半分、671頭になっています。そのトップバッターは2産目で誕生したキツトですね。

 57年の全道共進会で別海町の登さんが出品したホープフル・プリテイ・キツトは、はらみクラスで1等賞の4席になり、新鋭種雄牛キツトが注目されました。種牛タイローより2年遅れて供用されたキツトは、同じカンサスバークということもあり、ショウで見せた最初の娘の印象が良かったのが相乗して、使ってみようと思った方も多かったのです。私も同様に感じていました。それで全道見学から戻ってすぐにタイローにキツトを付けたんです。
 運良く雌として誕生したキツトは、生まれた時から光るものを見せていました。とにかく良く食べ、自分の力で大きくなるような若牛でした。それで登さんが出品したキツトの娘のその後が気になっていました。翌58年の全道共進会にはプリテイ・キツトが乳房を付けて当場しました。私は「これだ!」と自信を深めました。乳房の幅、高さ、文句ないものでした。もちろん2才級の1等賞1席そしてベストアダーに選ばれました。プリテイ・キツトはその後毎年共進会に出品され、1等賞になること連続6回という快挙を成し遂げましたよね。

〜そのキツトが親孝行することに。

 母タイローの体の幅をもっと広くしたい、と欲張ってキツトを交配したんですが、育成の時から前躯の強さは抜群でした。彼女は乳房を付けた61年、グリーンドームで開催された総合共進会に私を連れて行ってくれたのです。そしてわが家にとって初の1等賞をプレゼントしてくれたのです。昭和50年、元祖スター・ブーツメーカーを全道に連れて行ってから11年目、4世代目のキツトが念願の1等賞入賞を果たしてくれたのです。
 この年の全道には種牛キツトの娘は9頭も1等賞に入賞していますが、数年前から私と同様な考えで多くの人がキツトを使っていたんですね。わが家ではキツトと同時にリンコン・クリストフアーが4才級で1等賞、秋に母タイローが90点に評価されるなど、59年の火災を体験して立ち上がろうとする時に、嬉しい出来事が重なりました。
 62年もキツトは順調に分娩し、道北予選では3才級ながら経産準最高位賞に選ばれました。肉付きもちょうど良く、平たい骨にビロードの皮膚が乗っているような状態でした。この牛はどことなく違うわ、と思ったものです。2年目の全道でも連続して1等賞に入り、初産の泌乳量が1万sだったために、ベストプロダクション賞を頂くことになったのです。4年前に創設されたこの表彰は体型だけではなく能力も加味したものとあって、牛飼いの誇りのように受け止めておりました。

〜キツトは全道3年連続1等賞、63年には経産準最高位になりましたね。

 初産で1万、2産目で1万3,000`、余りにも乳が出るので心配しておりました。63年、3産目は輸入精液チエアマンで5月に雌を分娩、しかしあれだけ泌乳していながら乳房が下がることはありませんでした。
 63年5月末、道北3地区で当時開催されていた北海道ホルスタイン・ホリデーに8才を目前にした母タイローと4才のキツト、2才の妹ブレンダを連れて行くことが出来たんです。結果は、キツトが最高位賞に、母タイローは成年級、妹ブレンダは2才級でともに1位でした。3頭は母系牛群、母娘牛群でも1位になり、夢ならさめないで欲しいと思ったものです。
 63年はさい先の良いスタートでした。キツトは共進会のために移動させても体調を崩すことなく食べ続け、餌を乳に変える力に秀出ていました。8月上旬道北で最高位賞を頂いて、9月3、4日の全道までの1ヵ月の長かったこと。キツトは強い牛でしたが、私の心臓は押し潰されるくらいのプレッシャーの中にありました。
 そして全道では4才級1等賞1席、経産準最高位賞の栄誉に与りました。自分がチャンピオン戦に臨める牛を出品できるなんて、全道の会場では足が地に付いていませんでした。



3年連続全道1等賞、経産準最高位に輝いた
レスポアール キツト ハーゲン 90点
1983.9.10〜1997.3.4 写真は4才3産時


〜長らく抱いていた疑問ですが、そのキツトを手放したのは何故ですか。

 出来れば4年連続で全道に向かいたかったのです。全道から戻って10月に5才1ヵ月令の若さで90点になりました。しかし翌年キツトは流産してしまいました。これで4年連続出品の夢は消えました。私の気持ちの中で、何かキツトに対して圧力を掛けていたようなところがあったのでしょう。
 3産目は全道に連れて歩いても年検で17,500`出たんです。次の産搾ったら2万`出たでしょう。牛を壊してしまうのではないかという怖さが、何時も頭の中にありました。キツトは私の理想の牛でしたが余りにも乳が出て、当時の自分の餌や腕では管理仕切れないと思うようになり、あの牛を最大限に活かせる道は何なのかを考えるようになっていました。
 そんな時、千葉県でドナー牛を購買するという話がありました。そして雌だけではなく、雄牛も生産してみたいと言われました。雌だけでは遺伝資源としては数が限られますが、雄と伺って私の腹が決まりました。
 その後キツトは13才まで生き、千葉県でドナーとしての役目を充分に果たし、35頭以上の子孫を残しています。インスピレーシヨンによる息牛も供用され、良い子出しをしたと伝え聞いております。5年間寝食をともにした牛、ましてや全道準最高位牛を手放すのは後ろ髪の引かれる思いでしたが、これがキットにとって最善の道だった、と今でも思っております。

〜平成に入ってセールに出品しました。最初はタイローのET娘でしたね。

 今栃木県で関東NYSを経営している今部さんが宗谷の猿払におられる時でした。「ハーゲンをゴールデンセールに出して評価を受けるべきで、まだ早い、まだ早いと言っているうちにタイミングを逃してしまうぞ」と強引なまでのアドバイスを受けたんです。
 道楽で牛を飼っている訳ではないので、良い牛が出来たら価値を認めてくれる方にお分けすべきだと常々思っていました。今部さんの言葉に後押しされたものの、タイローのスターバツクによる初めてのET娘でしたから、腹を括るのに少し時間が要りました。スターバツクと言えば当時種雄牛の父になっている牛でしょ。輸入とか国内という括りなしに、世界中の酪農家が羨望する種が使えるというのは幸せな時代に入ったものだと思いました。
 自分の要らない牛を出品するのは牛飼いとして失礼なことだし、自分が1番期待している若牛を出すことにしたんです。育成用のフリーストールが稼働始めたこともあり、この牛は小さな時から、ものすごく食い込みも良く発育が順調で、姉のキツトを彷彿させるような牛でした。ハーゲン一族では珍しく未経産からショウにも使ったのです。セール当日の全道でも2等賞4席に評価されるという好タイプでした。

〜結果はトップセールでした。これでハーゲンがより評価されましたね。

 ETのお陰で急激にファミリーを増やすことが出来るようになりましたし、輸入精液の利用で遺伝資源の選択肢が広がった時期でした。両方のメリットを受けて誕生したセール牛には多くの方が競ってくれました。予想以上の展開に怖くなったり、ハーゲンが広く認められたのだと、嬉しくなったりと複雑な思いでした。そして新しい飼い主の牧場で存分な働きをして欲しいと願うものでした。



娘11頭、子孫は250頭、4頭が全共に出場
レスポアール ハーゲン ブレンダ 90点
1985.8.8〜1995.12.12 写真は6才時


〜60年にタイローの3女としてブレンダが誕生しましたね。

 姉キツトと比較されるんですが、父はクリスタル・カウントですから、ラグ・アツプル系なんです。姉とは別の部位、特に体の長さを求めて交配したんです。ブレンダは未経産からショウリングに登場した牛で、経産になってからは特に腰角や坐骨の幅、尻長の長さに優れておりました。
 キツトが3年連続全道1等賞になって、その後2年間1等賞入賞が空いてしまいました。妹のブレンダは姉キツトと同時に全道の舞台は踏んでいたものの、62年2才未経産で2等賞5席、平成1年4才級3等賞、2年は成年級で2等賞5席でした。何とか姉に迫って欲しかったのですが、3年4度目の挑戦でやっと1等賞に入り、安堵で胸を撫で下ろしました。キツトのいないわが家にとって、ブレンダに掛ける期待は大きかったのです。ブレンダはこの年6才で90点、ハーゲン3頭目のEX級となりました。
 この全道が終わって10月に輸入精液リードマンで採卵してみることにしました。何としてもブレンダを増やそうと思ったからです。それが思った以上にETの反応が良く、いっぱい採れ、12個移植したうちの7頭が無事に誕生しました。その後は採卵に専念し、マスコツト、リンデイ、ルーテナントで娘を得ました。
 ブレンダは10年の生涯で雌11頭、うちETによるもの9頭、雄は3頭生産しました。最期は体外授精を試みて7個の正常卵が3個受胎し、2頭の雌が生まれ、2頭ともEX級になりました。最後まですごい牛でした。子孫も雌が250頭以上になりました。リードマンによるET娘2頭、ルーテナントのET娘2頭の合計4頭がEX、私の期待に充分すぎる貢献をしました。

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(3)タウンソンとヘイブン

〜ブレンダは11頭の娘、250頭を超える子孫を残しました。孫娘タウンソンが平成10年の全道共進会でインターミディエイト・チャンピオンになり、10年連続1等賞の口火を切りました。

 全道で1等賞に入賞することは大変なことなんです。わが家では昭和61年にキツトが初めて1等賞に入賞、その後62年、63年と連続し、2年おいて平成3年にブレンダが3席でした。4年からも毎年挑戦しておりましたが、最高が2等賞の2席でした。
 ブレンダの長女も2女もスターバツクが父親でした。2女スターバツクの最初の娘はインスピレーシヨンによるものでしたが、充分なサイズ、しっかりした乳房で2才、3才と全道に出場しました。そのインスピレーシヨンの3年後に誕生したのがリンデイを父に持つタウンソンです。育成の頃から光る牛でした。自分としては自信作だったので、初妊時に高い購買があり申し込みました。ところが本牛を見て購買者が要らないと言うのです。この時は驚いたと言うか、がっかりしましたね。評価してくれなかったので仕方がありません。自分の目が正しいか間違っているを確かめたくて、タウンソンをショウに使おうと決めたのです。

〜乳房を付けた時のタウンソンは。

 2才時には体が深く、少し短く感じさせる牛でした。乳房は前が少し不足気味でしたが、後の幅と高さは自慢出来るものだったので、何とかこの牛を全道の檜舞台に立たせたいと思い、初産分娩して37日目に授精し、2産に期待しました。
 10年、タウンソンは2才11月令で2産し、音更に新しく完成した十勝農協連の共進会会場のこけら落としに間に合いました。初産と較べると首もすっきりし、乳房の前後のバランスも改善され、堂々とした格好になっていました。大学4年の息子、道寛が初めて大きな舞台で牛を引きました。緊張の余り顔が引きつっているのがリングの外から分かりました。
 結果は3才ジュニア級1位でベストアダー、チャンピオン選抜ではインターミディエイト・チャンピオンに選ばれたのです。ハーゲンに新しいヒロインが、わが家に3代目の後継者が誕生した瞬間でした。道寛にとって、この大会は非常に良い経験になったのではないかと私は思っておりました。
 タウンソンは翌11年、3産目で少し乳房を大きくしましたが、ますます体を充実させ、夏に4才1月令で90点になりました。その評価を引き下げ臨んだ全道では、連続1等賞の栄誉に浴しました。3産目の写真を見るたびに、自分が初産の時に描いていた姿より数段良く仕上がったと再確認しております。

〜その後続いたのがブレンダのリードマンによるET娘ヘイブンですね。

 ブレンダはリードマンによる採卵で6姉妹をもうけました。当時リードマンは長さはあるが、高さがないからショウには向かない、と言われていました。私は胸から中躯にかけてしっかりしていること、フレームが良いことが魅力でした。
 6年のゴールデンセールには6頭いるうちの1頭を出品する予定でいました。6姉妹は6ヵ月の間に誕生しており、セール時に妊娠状態が最も合うヘイブンが選ばれました。ヘイブンはその年の全道にも出品したほどの好タイプ牛でしたが、セールの直前に流産してしまったのです。セールは空胎では都合が悪かったので、代牛を用意しました。ところがその代牛が半脱臼、再び変更してスイートという牛を出品することになったのです。出場を取り止めれば済んだのですが、平成に入って毎年ハーゲンを出品して好評を頂いておりましたから、責任を感じておりました。
 いくら同じ血液とは言え、自分の不注意で出場牛を2度も変更してしまい、ハーゲンを求めて会場に来られていた方に大変失礼なことをしてしまったのです。その時文句も言わずに購入してくれたのが、栃木から来られていた狸塚信夫さんです。



平成10年の北海道総合共進会で
インターミディエイト・チャンピオンになった
レスポアール タウンソン ハーゲン 91点
1995.7.26〜2003.11.18写真は4才時


〜残ったヘイブンのその後は。

 運良くすぐに受胎して、2才5ヵ月で初産を分娩しました。この牛は家に残る運命だったと思い直し、何とか立派に成長させたいと願いました。しかし初産の姿は、体は充分なサイズがありましたが、後乳房が不満でした。この牛はこれで終わってしまうのではないかと、頭を抱えていたんです。そうしたら、何度かハーゲンを購入して頂いていた江別の山川さんが、「この牛は3産、4産したら凄い牛になるから、希望を捨てないように」と言われました。タイミング良いアドバイスに、勇気と希望をもらいました。自分の酪農人生では、要所、要所で大きな示唆を頂くことが多くあり、恵まれた男だと感謝しております。

〜そのヘイブンが牧場にとって初の全共出場牛となるのですね。

 ヘイブンは1月1日生まれだったので覚えやすい牛でした。私は彼女を都合6回全道共進会に連れてゆきました。6年は17〜19月で、翌年はシニア2才で。結果は3等賞でした。
 3産目を分娩した9年9月、4才8月令の若さで91点になり、祖母タイロー、母ブレンダに継いで3世代目のEX級となりました。2才の時にはこういった牛になるとは想像も付きませんでした。辛抱して飼っていて良かった、とつくづく思いました。
 私はその後もヘイブンを意地になって共進会に出品し続けました。産次を重ねるうちに、長い身体に上背も加わり、圧倒するような雰囲気になってきていました。そして心配されていた乳房が除々に大きくなってくるのが分かりました。11年は成年級で全道に、結果はまたしても3等賞。普通ならこれで諦めるのでしょうけれど、翌12年も成年級で2度目の全道に向かいました。この時はカナダ、コムスター牧場のオーナーが審査した時ですが、何と1等賞1席でベストアダーに選ばれたんです。嬉しかったですね。ヘイブン7才10ヵ月、山川さんが言われた「晩熟の牛」を象徴する出来事でした。
 そして夢にまで見た全共に、ヘイブンが連れて行ってくれるとは、牛って分からないものですね。リードマンを授精して、セールから出戻って、初産の姿を見て、誰が想像出来たでしょう。牛の持つ不思議な力に敬意をはらいました。岡山全共には同じ豊富から3頭、道北から5頭の牛が向かいました。初めての全共出品で成績としては失敗でしたが、コンディション調整の難しさを経験でき大きな収穫でした。
 
〜アメリカで研修していた後継者の道寛さんが帰国したのは12年でしたね。

 酪農は多くの方に助けて頂いて成り立ってます。家族経営でショウに参加しようと思ったら手間が足りませんす。家族が同じ方向を向いて、互いに努力していないとショウ出品は何年も続きません。牛の改良も1代では進まないのと同様に、牧場経営も後継者を育てながら何代もかけてコツコツと積み重ねなくてはなりません。
 全共の年に、道寛の参入は待ちこがれていたことです。全共は結果が優先するだけではありません。私達の場合にはハーゲンを出品出来たことに、大きな意義があったのです。



牧場初の全共出場、6頭の娘がEX、
自家産5世代連続EXをつないだ
レスポアール ヘイブン ハーゲンET 93点
1993.1.1〜現存 写真は9才時


〜それから2回もヘイブンを全道に。

 ヘイブンは雄ばっかりだったので、早く娘を残さなくてはなりませんでした。従ってショウに使いたいけれど、採卵もしなくてはなりません。2産目で乳量11,000s、乳脂量1,000ポンド、3産目で91点を頂いたので、次の産まで少し休んでストーム、ルドルフで採卵しました。この時運良く5頭の娘が誕生しました。
 ヘイブンは6年のセール出品で多くの方に迷惑を掛けてしまったので、ETで誕生した第1子を12年のセールに出品しました。ストームを父に持つ娘でしたが競って購買して頂き、長らく喉に支えていたものが取れたような気がしました。
 全共の翌年は1年間採卵に専念しました。主にダーハムでした。14年、9才になっていたヘイブンを5度目の全道の舞台に連れてゆきました。タウンソンがインターミディエイト・チャンピオンになった縁起の良い十勝の会場、それも総合共進会でした。結果は1等賞2席でした。ヘイブンが全共で見せられなかった姿を多くの人に見てもらい、評価も得て、私もヘイブンも大満足でした。
 6度目は2年後にやってきました。この年6月に自然分娩で初めての娘、それも私の好きなリーで取れたのです。嬉しくてね。それを多くの人に報告したくて成年級で4度目の共進会に向かいました。結果は6番目、2等賞1席だったのです。

〜あの時セールで狸塚さんに移動したスウイートも随分働いていますね。

 素晴らしい方に持ってもらったと感謝しております。昨年6月まで14年半にわたり泌乳を続け、8産の生涯能力は11万8,000sを超えたと伺いました。自らは88点でしたが、ETを含め残した14頭の娘の中からマンデル、リンデイ、そして昨年秋には3姉妹目となるストームによって娘がEX級になりました。一族は30頭を超え、スウイートの6代目まで誕生しております。
 スウイートは非常に穏和で、人にも慣れやすく、管理のし易い牛だったそうです。しかし見た目とは反対に、食欲、生命力はずば抜けており、想像を絶する気の強さを示したようです。ハーゲンの先発として栃木に向かったという信念とプライドがそうさせたのでしょう。時折狸塚牧場を訪ねましたが、スウイートの力と狸塚さんの管理に頭が下がる思いでおりました。

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(4)モーリン と レーガンスター

〜佐藤牧場に初めて全道最高位賞をもたらしたのはモーリンでしたね。

 モーリンはタイローのひ孫に当たります。ブレンダの妹マークにレイダーを交配して誕生したのがモーリンの母レイダーです。レイダーは平成10年の道北共進会で4才級1位、そして経産の最高位賞を頂きました。そして4才と5才連続して全道に向かい、体審でも早々に91点に評価されました。そのレイダーが4才の夏に分娩したのがモーリンなんです。
 ハーゲンは腰を弱く見せたり、ハイピンの牛が出ることがありました。それでストームが使えるようになって、どれもこれもストームを交配したんです。ストームの子を最初に手にした時、尻の正確さ、肋の開張、手足の強さに驚きました。乳房が付いてみると、幅も高さもあり、靱帯もしっかり入っていて、期待どおりの結果に非常に満足しました。その代表がモーリンだと思っています。
 モーリンは尻台が正確で、腰角に対する坐骨の位置も理想的、背線も頑強なもので、「改良されたな」と思うような牛に成長してゆきました。また体は鋭角的で、乳房の質に富み、特に後乳房の幅は非常に広いものでした。
 モーリンは初産時から連続4回全道に向かいました。12年は2才ジュニアで2等賞の1席でしたが、翌年から快進撃を続け3年連続で1等賞の1席、ベストアダーでした。14年十勝で開催された総合共進会ではモーリンが4才1等賞1席・準最高位賞、ヘイブンが成年級3席、カムスターが3才ジュニアの2席と、3頭が1等賞の揃い踏みとなりました。私達にとっては生涯が忘れられない日となりました。

〜モーリンは翌15年には、最高位にまで上り詰めましたね。

 あの時は夢を見ているようで、何が何だか分からずにいました。3年連続チャンピオン戦に臨めたんですから。審査員の堤俊明さんから骨格の正確さを認められ「鼻の先から尾の先まで素晴らしい。自分でも持ってみたい。」とお褒めの言葉を頂きましたが、感無量でした。
 毎年共進会に出場しながら分娩を重ねても乳量は1万sを超えていました。全道から戻って4才で91点、5才では93点という当場の最高点になっていました。モーリンは非常に管理がしやすい牛でした。他の牛達とも仲が良く、自己主張が少なく、存在を忘れることさえありました。しかし2年連続最高位に挑戦すべく乾乳にしようとしていた矢先、少し寝る回数が多いな、と思い獣医さんに診てもらったところ、子宮捻転でした。後は地獄が待っていました。
 救いは、ほとんど見逃す状態を発見し、最善を尽くしたことです。最後は可能性を求めて体外受精に挑戦するために酪農大学家畜繁殖学教室の堂地先生の元に卵巣を運びました。堂地先生の教え子だった士幌農協の小川浩諭さんが十勝から未明に駆けつけてくれ、私とともにスタッフの待つ教室に走りました。
 モーリンは息を引き取る30分前、辛い体にも関わらず立ち上がって頭を上げて、ショウリングでの姿を見せてくれました。最後までショウカウとして生きたモーリンには多くを学ばせてもらいました。



ハーゲンで最初に全道の頂点に立った
レスポアール モーリン ハーゲン 93点
1998.7.3〜2004.4.16 写真は5才時


〜モーリンが最高位賞に輝いた15年に2才でデビューしたのがレーガンスターなんですね。モーリンの願いが乗り移った「共進会の申し子」と思って成長を見守っておりました。

 モーリンより1才若いカムスターはモーリンと3年間全道の幕舎をともにし、偶然にもお互いに3度1等賞になっています。そのカムスターの娘がレーガンスターなんです。15年にはモーリン、母カムスター、娘レーガンスターのトリオで1等賞に入賞したんです。道寛が経営主となって張り切っている時期です。
 母カムスターはリーの娘で、肋が不足しているように見える牛でしたが、乳房に優れておりました。母牛の長所を活かして、不足している肋などを補うにはダーハムが最適だと考えておりました。というのも、先にヘイブンからダーハムによってET娘牛を取っておりましたから、予想がつきました。

〜生まれた時から光る存在でしたか。

 レーガンスターはタイローの血がくぐらない流れなんです。タイローの姉、プレステージの娘から派生しています。プレステージも素晴らしい乳房をしておりました。当場の元祖スター・ブーツメーカーから数えてレーガンスターで11代目になります。
 28年間で11代まで進んだ理由は、初産の時に高い確率で雌が誕生するからです。早い世代交代により改良が進んだと捉えておりますが、その間には不幸にしてお産で骨盤を折ったり、乳頭を怪我して満足な記録が残らなかった牛もいました。
 ダーハムはブルブックに掲載されている娘牛が良くて惚れ込みました。3、4頭並んで餌を食べている写真を見ると、後乳房の幅といい高さといい、質感を見てもハーゲンには合うぞと思いましたね。胸の窮屈なのは削蹄や運動でカバーできるとして、あの乳房は魅力的でした。改良って、欠点を先に見てしまっては前に進めなくなります。私は交配に関しては楽天的と言われますが、何時も夢を見るんです。

〜この頃の交配は個体ではなく、群で捉えるようになっていたのですね。

 種牛の情報量が多くなり、正確度も増してきています。同時に自分の目もレベルアップして、今まで見過ごしていた部分もチェックできるようになってきていました。過去にはバークとかラグ・アップルという方法でしか交配方法が思いつかなかったのですが、今は海外の遺伝子の中からも数頭の種牛を選抜して利用しています。道寛も海外に出て、いろんな牛を見たりして選定する視野が広がっておりましたから。

〜レーガンスターの初産時は満足できるものでしたか。

 将来は良くなると思いましたが、残念ながら初産の姿は乳房の質も良く見せないし、前乳房が弱く感じました。と言うより、本命だったモーリンのことで頭が一杯で、初産のレーガンスターにまで気配りが及ばなかったと言うのが真実です。昨年全道の審査をされた山口さんが、15年の道北共進会に見学に来られていて、「みんながモーリン、モーリンと言うけれど、2才のレーガンスターはモーリンを凌ぐ牛になるよ」と言われ、意外な言葉に驚き、忘れずにおりました。
 初産時におけるレーガンスターのリングでの姿は非常に窮屈なものでした。寛の位置が若干後ろだったのか、歩く時に尻は振るし、乳が張って乳房に内圧がかかると股を開く格好になるし、褒められたものではありませんでした。



全道最高位2連覇、5年連続1等賞の
レスポアール レーガンスター ハーゲン 94点
2001.6.25〜現存 写真は6才時


〜翌3才では準インターミディエイト、4才では栃木全共に出品、年々充実度を増していったのですね。

 2才の時のイメージと2産分娩してからとでは、すっかり印象が変わりました。2産目は乳房の大きさも丁度良く、体とのバランスが取れ、1年間良い姿をしていました。3才ジュニアで1席頂いて、準インターミディエイト・チャンピオンですから、最高の年でした。来年の全共のための牛ができた、と喜んでいました。
 ところが年が変わって4才、分娩時に子宮捻転でトラブってしまったのです。全道では1等賞がやっとという状態でした。そんな訳で、全共へ向かうのにも穏やかではありません。全共の会場に着いて、やっと調子を取り戻したのです。後に気がついたのですが、調子悪い原因は消費するエネルギーに対して栄養が不足だったのです。乳が出過ぎて乳房が大きくなることを心配した余り、栄養を補っていなかったのです。だから毛艶も悪く、牛に活気がなく、ベストコンディションからはほど遠い状態でした。

〜栃木全共には5頭のハーゲンが出品されておりましたね。

 2度目となる栃木全共では、全国から集まった酪農家や関係者と夜を徹して話をする機会が持て充実しておりました。道寛は毎日牛のコンディション作りに懸命だったようですが、私は女房、娘とともにオリンピック参観の状態でした。ここには全国からレーガンスターを含めて5頭のハーゲンが参加しておりました。北海道からはヘイブンのダーハムによる娘デリアが、京都からは谷口さんがブレンダの3代目と4代目を、そして愛知県からは青木さんがタイローの7代目でした。鹿追のデリア・シンジケートは3才シニアで優等賞1席になり注目を集めました。
 
〜4才の失敗が活かされ、2年連続の全道最高位に繋がったのですね。

 全共の会場で写真を撮ってもらいましたが、余りの変わりように愕然としました。そして、牛が出したサインに何故早く気が付けなかったのか後悔しました。栄養が充分に行き渡ると、みなぎるエネルギーが体中に現れ、乳房の張り、艶など、絵に描いたようになるもんですね。写真は嘘を言いません。私達の反省のために大きくして飾っています。
 5才はその失敗を繰り返さないために万全の体制で臨みました。分娩もスムーズ、要求する餌を充分に与え、乳量も伸びていました。日量50s以上が数ヵ月続きました。気になっていた飛節の腫れもなく、堂々とした体つきとそれに合った乳房、風格さえ出たように感じております。そして15年にモーリンが最高位を頂いてから3年振りに再度レーガンスターが頂点に輝いたのです。そして昨年は連続制覇。先輩、仲間に助けられ運良く手にできたタイトルです。40年の酪農人生、春夏秋冬、喜怒哀楽に牛がいて、人がいて、仲間があって、心の底から感謝しています。

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(5)6姉妹EXと5世代EX

〜ヘイブンには19頭の娘がいます。18頭がETで、これらが6姉妹EXや5世代EXにつながったのですね。

 最もETの恩恵を受けた牛です。6姉妹EX級の父はストーム2頭、ルドルフ1頭、そしてダーハム3頭です。ヘイブンが長い牛だったので、多少短くなってもストームの良さが出て欲しいと願いました。肋が充実して、尻台が良く、強さと鋭角性に富んだ牛になりました。ルドルフにはデイリーキャラクターを求めましたが、少し弱く感じられます。
 乳器改良に最大のポイントを置いたダーハムの娘は、母譲りの長さもあり、乳房も満足できるものでした。特に鹿追のディアドリーム・シンジケートに移動したデリアは第12回栃木全共で優等賞1席、18年の北海道総合で準最高位となり「ハーゲン」をアピールしました。

〜92点のストーム・ETから自家産連続5代EXになりましたね。

 タイローの4代目が6頭もEX級になっていたので、どこかの枝で5代連続が出てほしいと思っていました。モーリン・ハーゲン・ETの初産時にアーロンを交配してあり、雌だったので期待していました。5代目アーロンの娘モンローは初産84点で始まり、4才で89点でした。そして18年の秋には5才で90点となりました。
 モンローにはダーハムによって6代目の候補、セプテンバーで7代目の準備もできています。タイローを源とする5世代EXは能力でも安定しており、5代の平均乳量が13,000s、乳脂量は550sを超えています。

〜ハーゲンには共進会で華々しく活躍する牛の他に、「いぶし銀」のように牧場を支えるローヤルスターのような存在も忘れらませんね。

 元祖ハーゲン・スターにカナダ、ロイブルック牧場生産の種雄牛ローヤルスターを交配して誕生しています。初産から大出する牛ではありませんが、毎年受胎し、1年に2産することさえありました。15才8ヵ月まで生きて12産し、生涯能力は13万s、乳脂量は5,049sにもなりました。働きものの彼女は決して大きな体ではありませんが、生涯肉が付かず、乳房も下がらず、生命力や泌乳力は並はずれていました。タイローやスターバツク、リンデイによる娘が増え、子孫は豊富の仲間の牧場でも広がっています。ファミリーからは6頭のEX牛が出ています。
 
〜道寛さん、「今ハーゲンに何を交配してますか」とよく聞かれるでしょ。

 ストームの入っていない流れにはストーマテイツク、セプテンバーです。ダーハムを母に持つこれらの娘が春から初産分娩を開始します。これが良くなりそうで期待しています。わが家ではストームを多く使ったので、これらの牛にはBWマーシヤルの息牛の中から選んでいます。私は当初、BWマーシヤルはインデックスの牛という認識でした。旭川の加藤さんの全共で名誉賞になったマウイの娘を見て多少イメージが変わりました。息牛ではデツカーに期待しています。
 ダーハムが入っていない牛にはダーハムの息牛フオーチユンです。他にはアドベント・レツド、フアイナルカツト。ゴールドウインも使いたいのですが、入手が困難なものを待っていても仕方ないですしね。 
 私は種牛選びは慎重です。新しいものにはすぐに飛びつきません。4、5頭自分のうちで取ってみて、それから良ければ再度使うようにしいています。あくまでも能力・タイプのバランスを重視しています。父の代から乳器に拘って交配してきたのが良かったと思っております。管理は毎日のことですから、性質が温順で飼いやすいこと、繁殖が良く雌を産むこと、乳房は収縮が良いとトラブルが少なく楽ですね。



18年秋ヘイブンの娘6頭がEXになる
・L.モーリン ハーゲン ET 92点(ストーム)
・L.ストーム ハーゲン カンナ ET 92点(ストーム)
・L.ヘイブン ルドルフ ハーゲン  ET 90点(ルドルフ)
・L.レイブン ハーゲン ET 91点 (ダーハム)
・L.デリア ハーゲン ET 91点(ダーハム)
・L.ライズ ハーゲン ET 90点(ダーハム)


〜道寛さん、ここでは牛の管理も改良も成熟期に入っているでしょうか。

 ここはサロベツ原野の泥炭土壌です。祖父母や両親の代から正に土と格闘してきています。長い時間かけて土作りが行われ、今は肥沃になっています。酪農支援組織による草の品種改良や研究が進み、牛の飼い方も施設も改善されました。私はアメリカの牧場で研修させてもらいましたが、北米に較べて遅れているとは思っていません。
 牛の改良もこの雄を使ったら圧倒的に乳房を良くしたとか、上背が10a大きくなったとか、今はなくなりましたね。泌乳量だって順調に分娩していれば1万s出ますし、体審の平均点も全国的に上昇しています。だからこそ交配が難しくなっていると感じています。平均的に良くする牛はいても、特定の部位を改良できる牛が少なくなってきているように思えます。
 
〜やはり良い牛は良い土、良い草の上に成り立つのですね。

 昭和の終わり頃までコーンも作付けし、コーンの翌年にはルーサンを蒔いていたんですが、泥炭地では雨が降ると収穫作業が大変でした。少し乾いた土地にしかコーンは作れず、そのうち輪作体系が崩れてしまったのです。それと59年の火災でサイロの機密性が悪くなり良質のサイレージができづらくなったのもあります。それで草1本で、それも良質のものを追いかけるしか方法がなくなりました。コーンをやめてもそれ程牛に大きなダメージがないように感じておりました。
 気に入った牛ができるようになったのは平成に入ってからでしょうか。昭和の終わりにキツトで自信をもらったことが大きかったと思います。平成10年からは良い土の上に丈夫な花が咲くように、良い牛が毎年できるようになりました。それが共進会という発表の場に現れているのだと思っています。

〜5年で4頭の全道共進会最高位賞輩出、豊富の仲間の活躍は目を見張るものがありますね。

 自分達は豊富という地域で酪農ができたことに意義を感じ、誇りを持っております。今は2代目、3代目が活躍しています。ここは牛飼い仲間で後継者を育てるという地域です。若い人が酪農に夢掛けて、将来も頑張ってゆこうという空気に触れることによって、私達も良い牛を作ろうというエネルギーをもらっています。共進会場で出会った若者や受け入れている実習生を見ていると、若いって素晴らしいと思います。

〜佐藤さんにとって共進会とは。

 友人の誘いで参加したのが始まりです。共進会が牛好きの多くの仲間と貴重な情報交換の場であることに喜びを感じ、積極的に参加することになりました。自分で作った牛が初めてトロフィーをもらった時には、一晩抱いて寝ました。この時の喜びは口には表せない充実感で、やっと牛飼いの仲間になれたと思いました。
 情報を有効に活用することが次の牛を作る原動力になり、私達にとって共進会がなければ現在の姿はあり得ません。知り得たことを牛作りの中に可能な限り採り入れ、飼養管理技術の改善、粗飼料の質を高めることに特に力を入れてきました。その時々に、できる範囲で実行し、急がす、歩みを止めず、あまりわき目も振らず、前を見据えて今日まできたような気がします。



佐藤牧場の家族 20年3月撮影


〜昨年のゴールデンセールで2年連続最高位レーガンスターの娘が幕別の山田敏明氏とカナダ人のグループに購入されました。ローヤルのリングにハーゲンが登場する日も近いですね。

 ハーゲン導入から33年、思いも掛けない展開に驚いております。受精卵が空を飛ぶ時代になってきましたから、世界は狭くなったものだと思います。ハーゲンは北米生まれですから、鮭と同じように故郷の川に戻って行けるのは幸せなことです。私達も海外に負けないハーゲンを育てられるように努力しなくてはなりません。

〜レスポアールは「希望」という意味ですね。ハーゲンが全国の牛好きに希望を与えているようですが。

 今年2月、数年前から1度やりたいね、と言っていたハーゲンのオーナー会を、本州に限って参加を呼びかけ栃木県で開催されました。私も喜んで参加させて頂きました。各地のハーゲンの様子を伺ったり、持ち主の近況報告で朝まで盛り上がりました。20代から70代までの牛好きの皆さんと語り合えたのは夢の中のできごとでした。
 集まった方の自己紹介で、若い人から「2年後、3年後の自分とハーゲンを見ていて欲しい」と言われ、若かった時の自分を思い出して嬉しく、頼もしく思いました。低迷する乳価や諸物価の高騰で暗いニュースしか聞こえてこない時だっただけに、日本の酪農も捨てたものではないぞ、と強く思った1日でした。

〜これまで伺っていると、ハーゲンと出会いが、佐藤さん一家の牛飼い人生を豊かなものにしたんですね。

 「ショウで嬉しい結果を出す」「エクセレント牛を作る」「長く働いてもらう」これらは良い管理があってこそです。毎日牛の要求を満たす飼料メニューで給与し、ストレスのかからない環境を整えてやる。もちろん完全なことはあり得ないので、失敗しても早く原因を特定できるような日頃の観察が大切です。失敗を改め、良いことを継続する、この繰り返しだと思っております。
 「牛が好きだ、共進会が好きだ」と言っても酪農は経営です。「牛にとって良いこと」「人間にとって良いこと」「経営にとって良いこと」のバランスが大切であり、諦めずに続けることです。また情報をより多く集めることも必要ですが、「知ってるよ」より「やっているよ」が大切であり、牛が結果を残してくれるものと思っております。