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ホナミ・MBB物語
 (本誌2009年1〜5月号掲載)

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 乳牛改良では常に求められてきた長命・連産性、ホナミ・MBB・ロツクマンに代表される「ホナミ・MBB」は理想とされる長命・連産性に富んだ一大ファミリーを築き上げ、各地にその枝葉を広げている。このファミリーの歩みが自分の牛飼い人生そのものだという龍田弥太郎氏に伺った。


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(1)「バーク」一色に染めた龍田牧場

 アメリカはウィスコンシンを中心として活躍した「バーク」、名種雄牛として知られたマラソン・ベツス・バーク(略号MBB)はその代表種雄牛である。
 このマラソン・ベツス・バークの娘で、大正13年に北海道庁種畜場がアメリカから輸入したのがエム・ビー・ビー・バーク号である。当時の種畜場は札幌市真駒内にあったことから彼女の系統は「真駒内バーク」と呼ばれるようになった。彼女は娘牛や息牛を通じて各地に広がり、今日わが国に「MBB・バーク」という一大系統を作り上げてきた。
 このエム・ビー・ビー・バークの娘4・マラソン・ベツス・バーク・オームスビー(3.10才305日、M10,060s)はMBBの息牛ガバナー・フオーブスを父に持つ、つまりMBBの息娘牛交配によって誕生したのである。3代目が11・マラソン・ベツス・バーク・オームスビー、4代目19・マラソン・ベツス・バーク・オームスビー、5代目エム・ビー・ビー・インペリアル・ラツド(77.5点、5.4才365日3回、M10,843s-F399s)、そして6代目エム・ビー・ビー・フエムコ・エンプレス(78.0点、8.11才365日、M6,726s-F251s)とつながる。
龍田牧場の「ホナミ・MBB」物語はこのフエムコ・エンプレスから始まる。


〜元祖牛導入の経緯を教えてください。

 父が昭和10年から牛飼いを始めました。1頭から始まって27年には親牛が4頭、子牛を3頭を繋いでいた。自分が生まれたのが12年。27年に中学校を卒業、その年の2月に1番上の姉が網走市の西内さんに嫁いだんです。それが縁で何回か遊びに行っているうちに、西内さんの爺さんに牛の話とか教えてもらったんです。
 自分も小さい時から牛が好きでしたから熱心に話を聞きました。当時うちにはこれという牛もいなかったですし、色々話を伺っていたら、来年牛が生まれたら1頭分けてやると言われたんです。そうしたら翌年の10月末に手紙が来ました、牛を分けてやると。すぐに汽車に飛び乗って網走へ向かいました。西内さんではオート三輪を用意してくれていたんです。その荷台に3尺くらいの箱を付けて、薦を掛けてね。11月だから寒かったですよ。雪がちらつく季節でしたから。自分は牛と一緒に荷台に乗ったんですが、行く時着ていたオーバーを牛に掛けてやって、2時間くらいかけて連れてきたんです。
 この牛がエム・ビー・ビー・バークから6代目に当たるエム・ビー・ビー・フエムコ・エンプレスという牛で、昭和28年10月13日生まれで、生後1ヵ月で連れてきたんです。

〜今の牛群は全てフエムコ・エンプレスにつながっているのですか。

 うちのMBBは全てフエムコ・エンプレスとその姉牛の流れになります。
 それ以前は父が旭川の高野牧場から導入したスプリングの系統が主でしたが、30年代から40年代にかけて全部売り払いました。それでバークだけにしたんです。45年頃には全部バークになっていたと思います。
 46年に西内さんが牧場をやめたんです。その時西内牧場にはまだ牛舎にフエムコ・エンプレスの姉の流れがいたので、その親牛2頭と子牛1頭を分けてもらいました。この子牛は50年に静岡県に高く買ってもらいました。ちょうど牛舎を建てた年でしたので助かりました。
 親2頭は順調に雌とって、そのうちの1頭の流れがボールド・マドキヤツプ(85点、6.11才365日、M10,966-F435)なんです。雌も多くて個体販売はこのマドキヤツプの流れが中心でしたので、今はわずかしか残っていません。あとはロツクマンの姉妹の枝分かれしたものを販売に回していました。今はロツクマンの直系が7割、あとの3割はマドキヤツプの流れです。

〜フエムコ・エンプレスが西内牧場で誕生した経緯は。

 昔話になりますが、西内さんは昭和23年当時デンプン工場をやっていて、羽振りが良かったそうです。たまたま検定員か誰かに話を聞いて、遠浅(現安平町)の竹田剛さんのところに日本でも指折りの名牛である真駒内バークの直系がいると。ちょうど牛飼いを始めようとしていたところで、せっかくなら良い牛を飼おうと、遠浅の竹田さんまで買いに行ったんです。ところがこの牛は進駐軍に没収されるのを避けるために疎開していた疎開牛だったんです。初産だったそうです。「是非売ってくれ」と言っても竹田さんは「これは売れない」と言って、西内さんも意地でその晩は牛舎に泊まることになりました。夜中12時頃牛舎に行くと西内さんがまだいたので、竹田の爺さんが中に入れと言って家に入れてくれたそうです。次の日も粘って、ようやく売ると言ってくれたのが夜だったので、2晩世話になったようです。当時の金でリュックサックにいっぱい詰めて持って行ったというのですが、何十万という金だと思いますね。
 このときバークともう1頭ヤナギの系統を買ってきたそうです。その後登録書を取り寄せるとなった時に、ホル協の藤本虎之助氏があわてて、「その牛は売っては駄目だ」となったんです。「竹田さんの牛ではない、預けているだけで北海道の持ち物だから勝手に売買はできない」と。
 戦後のどさくさでわけがわからなくなっていたのでしょうね。西内さんにしたらもう金は払っているんだし、ともめた挙げ句、登録書が届くのに1年くらいかかったそうです。
 この牛がエム・ビー・ビー・インペリアル・ラツドで、この3女がうちに来たフエムコ・エンプレスです。この牛はいろんな人が買いに入っていたそうなんです。それを自分が先に持って行ってしまった。「あの牛はどうなった」「訓子府の龍田が持って行った」「あれは牛飼いじゃない、ベコ飼いだ。あんなところに持って行ったら牛が駄目になる」と、西内さんも馬喰さんたちに怒られたそうです。



龍田牧場のバーク元祖牛
エム・ビー・ビー・フエムコ・エンプレス 78.0点 S28.10.13生


〜導入したフエムコ・エンプレスはどんな牛でしたか。

 翌29年に苫小牧で開かれた全道共進会に北見地区代表として出品したんです。自分は留守番で会場に行くことはできなくて、姉が持って行ったんですが、2等賞でした。手入れもできないし毛刈りも手バリカンで丸刈りでした。でもトップラインも足も良いし、今からするとちょっと太りすぎていたかなという程度でした。もちろん質は良かったです。
 30年には初産分娩して、今度は乳房が小さいと馬鹿にされました。こんな乳房じゃろくに乳も出ないとね。でも、実際に搾ったら出るんですよ、32年には3産になっていたと思うけど、当時の餌は質が悪かったのに30sくらい出ていましたからね。6月頃だと思いますが、バークと昔からいるスプリングの4頭で1石の牛乳を1週間出したことがある。1石は180sだから1頭平均45sでしょ、それで全道に「龍田は搾っているぞ」と知られるようになりました。

 フエムコ・エンプレスは3頭の娘牛を残し、このうち2頭によって龍田牧場のバーク・ファミリーは形成された。
 長女エム・ビー・ビー・バーク・セブンス(78点、6.1才305日3回、M6,596s-F228s)は7産し、娘牛はエム・ビー・ビー・ミート・プライオリテイ(83点、9.5才305日、M7,229s-F268s)1頭のみだったが、彼女が11産で7頭の娘牛を輩出、ファミリー繁栄に大きく貢献することとなる。この時点から一族の長命、連産性が充分に伺える。中でもインターナシヨナル・アライアンスにより昭和43年に誕生したホナミ・エム・ビー・ビー・バークは85点という高得点を得、搾っても8.8才305日、M10,127s-F453s、彼女の曾孫ホナミ・MBB・グランド・ミリー(90点)へとつながる。
 一方、2女シユープリーム・エム・ビー・フエムコ(79.5点、4.3才365日、M8,438s-F282s)は5頭の娘牛を残し、一族の代表牛となったロツクマンへとつながっていく。


〜当時の餌作りは自分で勉強されたのですか。

 自分は10人兄弟の4番目で、男4人は弟、女5人は3人が姉だったんですが、弟4人は全部大学に行かせたんです。だから金がかかりました。でも、全て乳代で稼ごうと思って搾ることに専念しました。
 餌も自分なりに勉強しました。コーンサイレージを作ったり、それまでは牧草も赤クローバーしか作っていなかったのを、チモシー作ったり、ルーサンやペルニアルライグラスを買ったりしました。放牧もしてみましたね、いろんなことを試してみました。
 35年頃はコーンもF1が出てきたのですぐに作ってみた。草丈はないけど、実はいっぱい付いて収量も多かったし、食わせると乳量も出ましたね。
 そのうちに自分なりに飼料計算をするようにしたんです。どれだけ食わせればどれだけ乳量出たのかを早見表を作って、妹や弟にこれだけ餌与えなさいと、自分は畑の仕事もしなければならなかったので。
 30年頃は一斗樽に餌を入れて与えていたのですが、大豆やエンドウ豆、手亡豆の挽き割りに米ぬかとフスマを精米所から分けてもらって、コプラミール、亜麻仁粕、それらを全部自分で混ぜてお湯入れてふやかして。前の晩に作ると朝には手でつぶれるくらい柔らかくなっていてね、それを牛に与えると、たいした乳が出たんですよ。ところが卵巣膿腫になってしまうんです。
 ぜんぜん種がとまらないので、当時は生の精液だから魔法瓶買って、共済まで取りに行って、34年からは自分で付けるようにしたんです。1日に3、4回付けて、受胎環境も良くして、40年頃はとまらない牛は肉に出すのも惜しいので、本交用の種牛を繋いで本交でとめました。

〜個体販売はいつ頃からですか。

 個体販売は35年に自分が結婚して、翌36年にスプリングの系統を津別に売ったのが最初、2頭で30万で買ってもらった。それで車を買った。38年には孕みで30万で売れて、これもスプリングだったけど。41年に住宅を建てた。42年にはトラクターの共同をやめて、その夏に土地を買った。ちょうど秋田から8頭買いに来て、バークを1頭に他スプリングを全部売って、トラクターなどの作業機代に充てた。本格的にバークを販売するようになったのは50年頃からです。最初は従兄弟のところに分けてあげただけで道内にはバークは一切出さないで、全て府県です。道内に出したのは63年くらいから。



ホナミ・MBB初期の代表牛
ホナミ・MBB・バーク
 85.0点  S43.1.26生


〜設備投資も計画的に組んでいますね。

施設への投資も30年頃から10年計画を立てたんです。というのは29年に訓子府で酪青研を作ったんですが、自分は17才くらいでした。いきなり会長をやらされました。自分は中学しか出ていないし、中には40才くらいの人もいるのに。だから読み書きも必死で覚えなきゃならなかった。デンマーク帰りの、自分より15才くらい年上の簑島さんという人が副会長をやってサポートしてくれた。北見でも発表会をやらなきゃならないので、会長である自分が発表することになった。それで飼料計算とか飼料作物の栽培方法などを発表し、38年には地元で1位になり、全道大会まで行った。4位だったのかな。
 発表するとなると資料を揃えなければならない、自分は記帳だけはこまめにやっていたから、それがとても役立った。その中で計画を立てて、毎年設備投資をしていった。
 34年に牛舎を直して、ウオーターカップとスタンチョンを付けた。これは道内でも珍しかった。札幌からも視察が来ました。バケットミルカーを入れたのも早かった。ルーサンを作ったので鎌で刈っていられないから馬で引くモーアーとレーキ、テッダーを導入した。個人でこれだけのものを揃えている人は管内でもほとんどいなかったと思う。乳代だけでこれらのものを導入したんです。それで1日に何組もの視察がありました。40年から45年の間なら年に200以上もあった。十勝からもずいぶん来ましたよ。

〜牛の改良は、どのようにとり組んでこられたのですか。

 大勢の視察が来られる中で、気が付いたことは、牛自体の改良もしなければ駄目だということです。まだロツクマンの3代前ぐらいの時ですよ。体型にはある程度自信があったのですが、乳房が小さいと言われた。充分乳量は出ていたと思うんですがね。それで乳房の大きくなるような種牛を掛け合わせていったんです。
 当時からバークとラグアップルという血液の流れは聞いていました。バーク系でなければ駄目だろうと思って、空知の今西さんのルンド・バークを重点的に考えた。セジス・ルンド・バークやマタドーアをね。輸入されたものでは北見農協連で導入したチヤンプ。ホクレンで導入したテルスターはラグアップルが強かったのであまり使わなかった。42、3年頃はインターナシヨナル・アライアンスも使って、できた娘は体型が良くてフエムコ・エンプレスの曾孫ホナミ・MBB・バークは85点を獲得したが、全体的に体が深くて、どん詰まりで泌乳期間が短かかった。シヤンブリツク・ビーチウード・チムは資質が良くて背の高い牛が多かったが、乳房は小さかった。ロツクマンが誕生する際、コメツトを選んだのもバーク系だったからです。

〜牛の見方も自分なりに勉強されたんですね。

 体型と泌乳の相関関係を自分なりに作ろうと思って、よその牛を見ながら、自分の牛と比較して、体高、体長、後躯の高さ、首、胸囲などを見ながら頭に入れておいて、2年後ぐらいにまた見てどうなっているかをね。そんなことしているうちにわかってきたことは、ラグアップルは前が高く、最初に背が伸びて初産から3、4産にかけてあまり伸びない。うちのバークは138pぐらいで初産分娩するけれど、成牛になれば10〜15pくらい大きくなるのがわかってきた。それに加え体長があるということ。体の成長が続いているうちは泌乳期も伸びるが、成長が止まった牛は泌乳期も短いと思いますよ。首が長くて、胴の長い牛、しっぽは細くて、などなど体型の特徴と泌乳の関わりを調べていくと、相関関係が出てきたんです。その中で前躯より後躯が高くなければ駄目だとか。それを基準に牛を見るとそんなに誤差がないのがわかってきた。
 また、前乳房と後乳房の角度、長さ、広さが大事だと言うことがわかった。前乳房なくても乳出るという人もいますが、前乳房がないと後乳房が下がってしまうんです。前乳房があった上で後乳房の高さ、幅が大切になってくる。それに乳頭の配置、前と後の間隔、乳房底面はできれば平らではなく、靱帯が入ってくびれているのが好ましい。もちろん左右を分けるセンターの靱帯は手が隠れるくらいくぼんでいた方が良い。プレステージを使ってわかりました。靱帯がないということが。
 40年代に入って審査員もだいぶ乳房のことを言い出すようになった。当時はテルスターやアライアンスが多くて、乳器をなおせる牛がなかなかいなかった、それでプレステージを付けた。ロツクマンの最初の娘もプレステージなんです。乳底板が広くて、幅があって良い乳房が付くんですが、初産搾っているうちに股がかぶれてしまって、次の産でしこりが残って靱帯が下がってきた。幅があるのにセンターの吊りが弱いんです。だから吊りの強い牛を探していた。

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(2)生涯記録日本一「ロツクマン」

 昭和49年、父コメツトによるホナミ・エム・ビー・ビー・ロツクマンが誕生、2産目10検でM12,279s-F472sの高記録を示すと、その後も順調に産を重ね、わが国初の8産連続での10検乳脂量1,000ポンド突破、さらに当時の生涯乳脂量日本一という偉業を達成した。ちなみに当時として8回の1,000ポンド突破はカナダにはおらず、アメリカの生涯乳量・乳脂量第1位のブリーズウード・パツチー・バー・ポンチアク(EX-GMD)のみという快挙であった。さらに、体型審査では90点を獲得。好体型、高能力、連産性とまさに三拍子の揃った牛として注目を集め、本誌昭和60年のカウ・オブ・ザ・イヤーにも選出されている。
 彼女はその後、前代未到の1,000ポンド9回連続を達成、生涯で10産、3,811日、M149,447s−F6,369s(4.3%)を記し、生涯乳量と乳脂量の両部門でわが国bPとなり、ホナミ・MBBの代表牛として長く記憶をとどめる牛となった。


〜ホナミ・MBBの代表格、ロツクマン誕生の様子を教えてください。

 ロツクマンは49年9月1日生まれです。当時は5ヵ月ぐらい哺乳していましたが、よく飲む牛でした。バケツを吹っ飛ばすくらい。うちのバークは口がでかいとして認知されていましたが、ロツクマンは特に大きかった。次の年の春に育成牧場に入れました。当時は1年中扱ってくれたので、1季越冬させたんです。当時は400頭ぐらいの牛が越冬していました。何回か見に行きましたが、ロツクマンが威張って、機械で餌を落としていくその後をついていって、飼槽の端から端まで餌を食べて歩いて、そのまま餌箱の前で寝ちゃうものだから、他の牛が餌食べられないんだって。牧場では「龍田さんの牛はどれも元気が良い、中でもロツクマンは特別だ」と言われました。
 ロツクマンは育成牧場から家に戻って51年12月に雄を分娩。初産時は幅があって理想的な乳房を付けてくれたし、乳静脈もきれいに出ていた。背腰が強くて肩の切れも良い、自分なりに3産目でEX貰えるかなと思うような体だったが、なかなか貰えなかった。その後毎産受審して、10才でようやくEX貰えたんです。
 55年当時、ちょうど日本のツルータイプの作製にかかっていて、画家の松田仁さんがロツクマンのことをモデルの1頭として3回ぐらい見に来て写真を撮っていったんです。松田さんもロツクマンの乳房の靱帯が深く強く入っているところや、肋が平骨で、流れが良く、指4本楽に入るほど肋が開帳している。それと腰角と座骨、寛の位置がちょうど良いと言ってくれた。
 ただ、このときはクリスタンの全盛期だから尻が平らでないと駄目だとなった。でも、寛の位置が高くて腰角幅があって尻の平らな牛は乳が出ないのにね。それにお産で難産する。
 ロツクマンはお産も楽だしね。結局、ツルータイプは前駆の高いカナダタイプのものになったでしょ。

〜ロツクマンは全道共進会に出場していますね。

 うちの牧場から元祖のフエムコ・エンプレスの次ぎに全道に出たのが3才級のホナミ・MBB・シルバー・デイーで昭和51年のことでした。フエムコ・エンプレスから22年も経ってしまいました。これに次いで53年にロツクマンが4才時、3産で全道共進会に出場したんです。結果は残念ながら3等賞でしたが、周りも体型の良さを認めてくれていたんです。それに全道の会場でも50sくらい乳が出ていてバケットを2回に分けて搾ったんです。そんな牛他にいなかったね。
 特に3、4産の時の乳房は素晴らしかった。サイズも充分で150pはあったんですよ。
 あと、ロツクマンの良いところは皮膚です。ビロードのように柔らかく、乳房の収縮も良い、引っ張ればいくらでも伸びた。これは母のオクソニアンも同じだった。
 これまでに一族から15頭のEX牛が出ていますが、最初にEXになったのがロツクマンなんです。昭和60年、ロツクマン10才8ヵ月の時でした。

〜ロツクマンは生涯乳量、乳脂量で日本一となりましたが、追い込めばもっと搾れましたか。

 実は検定成績より実際のほうが乳量多いんですよ。どうも検定となるとプレッシャーがかかるのか、出なくなるんです。検定となると力みすぎて食わせるものだから食滞起こして脂肪は下げるし、乳量も落としたりしたね。当時の検定は時間に厳しく、搾っていても「時間だからミルカー外しなさい」と。乳残っていてもね。大変でしたよ。
 それに、3産目で全道に出品した時に乳房炎やってしまって、10検も満足に搾れなくて、241日で検定が終了しているんです。これがなければ生涯乳量はもっと伸びていたでしょう。しかも成分率が高く、乳脂量は7産から10産は600sを超えていました。
 平成2年6月に15才9ヵ月の生涯を終えましたが、本当に素晴らしい記録と目のさめるような娘も残してくれました。



昭和53年撮影
4才時のホナミ・MBB・ロツクマン


〜当時流行のクリスタンを牛群に多用されたのでしょうか。

 40年代後半にクリスタンが出てきてショウで活躍していたでしょ。素晴らしい乳房を見せておりましたが、ラグアップル系だということで、最初は使うのに二の足を踏みました。でも、その前にエナジーを使ったんですが、質の良さは良かったのですが、乳房は直せなかったので、50年ころには仕方なくクリスタンを使いました。
 クリスタンの娘は全牛群で12頭とりました。最初の子はゴールデンセールで高く売れました。クリスタンなら高いという波に乗ったんでしょうね。他はうちで搾りましたかが、半年で乳が出なくなった。ちょうど自分も52年には訓子府町の検定員として他の牧場も回っていたんですが、どこのクリスタンの娘牛も乳量出ていなかった。
 54年に生産調整が始まり、56年には搾りすぎてペナルティーを払いました。ちょうどクリスタンの全盛期で、熊本県のほうからクリスタンの娘がほしいということで、7頭まとめて売りました。そこでクリスタンを全部手放して、使うのも止めました。これは基礎に残しては駄目だと思って。後々影響することがあっては困ると思ってね。
 あわせてプレステージも全部売ってしまいました。乳代でやりくりするのが基本だから、お金にならない牛を繋いでいても仕方ない。それと乳成分を下げたら乳代も安くなるし、成分を上げるのに時間がかかる。検定成績は注視しました。それに泌乳期の長い種牛を選んで付けた。だからうちの牛は後半になっても乳量が落ちないです。

〜全道1等賞のパイオニアという牛はロツクマンの孫娘ですね。

 東藻琴村(現大空町)の楠目さんに買われたホナミ・MBB・パイオニアは62年の春、初産で北見BWショウに引いたんです。審査は佐呂間町の田中さんでした。2番目でベストアダーでしたが、その晩のうちに買いに来られたんですよ。2週間後の北海道BWショウに出て2才級1位・ベストアダー、それからずっと1番だからね。全道共進会でも2才、3才と1等賞でしょ。父はマンデイ、母の父はクリスタル・カウントです。クリスタンの血のおかげなのかな。

〜当時はロツクマンの他にマドキヤツプという牛もよく目にしましたね。

 ホナミ・MBB・ボールド・マドキヤツプですね。元祖フエムコ・エンプレスの姉の流れです。父はコンフイダンス。彼女は自然分娩で5頭、ETで8頭の娘を残してくれました。この娘たちはいずれもVG、乳量12,000〜15,000s、F4%台と安定した能力を見せてくれていました。ゴールデンセールにもこの一族からよく出品していました。彼女の流れからはEX牛が8頭出ていますので、体型的にも良いものがあるのでしょう。ロツクマンに続いて63年に2頭目のEX牛となったホナミ・MBB・バーク・エナジーもこの流れです。



昭和58年撮影
9才時のホナミ・MBB・ロツクマン
この後90点を獲得


〜受精卵移植を実施したのはいつからですか。

 58年に上川生産連に講演を頼まれたんです。そこで名刺貰う人はほとんどが大学出の人たちでした。金川先生、光本先生はじめ雪印、森永乳業の関係者が10人以上いたと思いますが、北大や畜大出なんです。中学出の自分が中に入ると緊張しましたよ。光本先生は当時、ローヤルバーチ・キング・ピンを使ったほうが良いとか、これからは数字で表さなければとか言う話をしていました。次の日に金川先生と話して、受精卵のことを教えて貰った。それまでは長命な牛でもせいぜい娘5頭とれるだけ、受精卵やれば何十頭も娘とれるという話だった。
 受精卵には興味があり、自分も早速やってみようと思って、当時北海道事業団にいた岩住先生にお願いしたら、ちょうど北海道事業団でも取り組み始めた時で、やってあげると言ってくれた。ロツクマンとマドキヤツプを採卵しようとしたが、両方とも10才近かった。マドキヤツプを最初にしたが、なかなか卵がとれない。青柳先生が学校出たての時だったと思うが、何回も家に来てホルモン調整とかしてくれて、なかなかとれなかったが、最後にようやくとれたんです。
その後指定交配なども入り、積極的に受精卵に取り組んできました。
 62年に北見で全道の受精卵会議があって、実際に取り組んでいる農家ということで、発表会に出たんです。当時としては全国で1番多い受精卵採卵数でした。そのときに雪印の清家先生、十勝育成牧場の山科先生などと話をしました。
 当時でも受精卵をやるには運転資金が700万〜1000万円くらい必要だった。とりたい牛の卵がとれないので、十勝育成牧場に預けて採卵して貰うと1,500万くらいかかった。ただ、それらの娘は高く売れていたので良かったんですがね。ちょうど各地でドナー牛の需要があって、1頭300万円くらいで動いた。おもだった試験場には買って貰っていたので、運転資金に充てることが出来ました。

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(3)2万s牛「チエアマン」

 生涯乳量、乳脂量記録牛ロツクマンはホナミ・MBBを代表する1頭として活躍、彼女の娘たちにも当然注目が集まることとなった。その中でチエアマンにより昭和61年に誕生したホナミ・MBB・チエアマン・ETは母ロツクマンのビロードのような皮膚被毛、乳用特質を受け継ぎ、初産からM14,787s−F549s、2産目は3才6月の分娩でM20,633s-F850sを記し、最若齢での2万s突破牛となった。その後チエアマン・ETは3産目4才11月M23,509s-F1,088sで4才半型乳量、乳脂量の日本記録を更新、乳量は全年型を通じての最高記録であった。もちろん平成4年の本誌カウ・オブ・ザ・イヤーには母ロツクマンに続き選出されている。さらに4産目でも3産連続で2万sを突破を達成した。さらに、現在のNTPの前身にあたる全国雌牛評価成績では6年-Tで経済効果第1位に登場、8年-Tまで首位を守った。

〜ロツクマンにはどのような種牛を掛け合わせていったのですか。

 最初の娘はプレステージによるMBB・レークハーストで、熊本へ売却しました。でも彼女の娘やETが残っていて、その孫娘バーク・ナイトが90点もらっていますし、全共にも出ているんです。平成12年の岡山全共には愛知県の山田裕司さんがロツクマンの7代目を、17年の栃木全共には福井県の稲津潤治さんが6代目を出品されています。これはとても嬉しいことですね。
 次がカウントの娘テルスター・ブレンダで、彼女のマンデイによる娘パイオニアは全道2年連続1等賞。他にナイトによる娘がいました。

〜チエアマン誕生の経緯を詳しく教えてください。

 昭和60年当時、北海道が独自に出していた評価成績など数字でその牛を評価するインデックスというものが発表されだしたんですが、ロツクマン自体は歳ということもあって、インデックスによる計画交配の対象としては見てもらえなかったんです。だからチエアマンは当時授精所がとり組みだした計画交配で誕生したわけではないんです。
 北大の金川先生などの影響もあり、自らも当時としては最先端の技術である受精卵移植に積極的にとり組もうと思いました。手始めがわが家を代表するロツクマンでした。
 実際に、ロツクマンにどんな種牛で採卵しようか思案していると、授精所関係者からカルクラーク・ボード・チエアマンが良いと教えていただいたので、迷わず使ってみました。チエアマンの特徴は乳房が良く、泌乳能力が高いのはもちろん、ラグ・アップルをくぐっていないということが決め手となって使ったんです。ただ、欠点として牛が小さいということは少し気になりました。
 ロツクマンは11才という歳だったので、実際に採卵してもチエアマンの卵は一個しか採れなかった。その卵が無事とまって、しかも雌だった。この雌がチエアマン・ETなんです。その後トラデイシヨンで採卵し、4頭の娘が採れました。
チエアマンが成長して初産産んだときの印象は乳房がものすごく高くて前後が長かった、あれだけの乳房の牛はなかなかお目にかかれないと思います。乳頭の配置も理想的でしたし、なんといっても腹の長さと乳房の長さが同じくらいだった。これは自分の長年の経験から乳の出る牛の見分け方の一つですが、乳低盤の長さと乳房の付着点から脇までの腹の長さが等しい牛でないと乳は出ないんです。

〜チエアマンの写真を見ても質の良さが伺えますね。

 あの写真は2産目の時、北海道事業団の荒井さんに撮っていただいたんです。分娩後1ヵ月くらいだったと思う。前の日の晩9時くらいに搾って、翌朝9時頃の撮影でした。撮影終了後すぐ搾乳してやると最初はバケットに7分目で別のバケットに取り替えて、搾りながら話していたら、ジュウジュウとミルクを吸う音がするので、「あれ、さっきバケット取り替えたよな」と思って、見たら溢れていたんです。バケット一つで20s弱でしょ、それ2個でも溢れてしまうぐらい出ていたんだよね。次の日に検定が入って68s出たんです。本当にどこまで伸びるのかわからなかったですね。
 その後受精卵を採取しながら3回続けて2万sを搾りました。平成5年、4産目の時にマガジンの小川さんに家の前で撮影して貰ったんです。3回目の2万sを搾っている最中ですね。首を下げて配合を食わせながらの撮影も、すぐ食べられてしまって、結局箕にいっぱい食べられてしまった。食滞を起こさないか心配になるくらいでした。
 当時は毎年ドナー牛を6〜7頭用意して、各牛1回は採卵しました。チエアマンは年2回採りました。チエアマンの娘はみな採卵してきました。
 実は、チエアマンはおそらく日本で最初にバージンフラッシュで娘を作った牛だと思いますよ。テルスター・ETはこのバージンフラッシュで採れた卵で誕生しているんです。
 テルスター・ETは平成4年に4才で東京都の試験場に契約しています。最初は千葉県の嶺岡乳牛研究所から話があり、ある程度値も付いていましたが、売る気がなくて断っていました。
 ちょうど2万s搾っている最中に、採卵することになり、採卵用の種をプレリユードかスターバツクで迷って、結局スターバツクで採卵したんです。そうしたら東京からチエアマンを含めて4頭ほど欲しい、という話があったんです。テルスター・ETにはすでにリードマン、スターバツク、ソーの娘がいたので、テルスターともう1頭ロツクマンの流れの牛を付けて売りました。さすがにチエアマンは売れなかったです。それ以前に東京には3頭買って貰っているので、合計5頭持って行ったことになります。





龍田牧場で最初のスーパーカウとなった
ホナミ・MBB・チエアマン・ET(89)の
2産時(上)と4産時(下)


 チエアマンのインハーンサーによる娘ホナミ・MBB・テルスター・ET(85点)が平成4年、2産目で乳量2万sを突破、8年にはこのテルスターのリードマンによる娘ホナミ・MBB・ウーマン・ET(90点)も2産目で2万s突破し、網走市・佐藤牧場のデ・コールに続き、2組目の3世代連続2万sを達成した。ウーマンは3産連続で2万s、さらに、フルシスターのホナミ・MBB・リードマン・ETが2産続けて、サウスウインドによる姉妹ホナミ・MBB・サウスウインド・ET(90点)が2万s突破と、2万sファミリーとして足場を固めていった。その後リードマンのサンドによる娘ホナミ・MBB・サンドマン・ETが13年にわが国唯一の4世代連続2万sを達成したのである。
 さらに2万s以外にもリードマン・ETが5才型乳量日本記録を樹立、このほか一族の乳量、乳脂量記録がトップテン入りしているものは枚挙にいとまがない。


〜一族はこれだけ搾れるのですから、体のサイズもありますね。

 うちのバークの特徴は初産時は体が大きくない。搾りながら、とにかく食べて大きくなる。分娩時には140pそこそこで産んでいるんですが、産を重ねるうちに12〜15pぐらい伸びる。6、7産になってもまだ成長するんですよ。
 チエアマンが一番良い例かと思うんですが、バージンフラッシュした時は14ヵ月で120pぐらいしかなかった。こんなに小さいのに手を入れたらかわいそうだと言ったら、和牛ならこれくらいでやるよと言われたものです。初産産んだ時でも140pしかなかった。3回2万s搾って、最後は全農の青柳先生が茨城県にいたので、わざわざ茨城まで本牛を持って行って採卵したんです。2年間ほど預けていました。向こうで採れた卵で誕生したのがリンデイなんです。
 帰ってくる時は網走の佐藤久夫さんの2万s牛アイダ・ロツタと一緒に帰ってきたんです。アイダ・ロツタは大きな牛という印象があったのですが、トラックから降ろすと、チエアマンの方が大きかったです。体高は150p以上で、特に体長がありました。体重も1d近くはあったと思います。
 その後しばらくうちにいて、上士幌町のETセンターに移しました。そこには東京からテルスター・ETも来ていました。テルスターもチエアマンも左側の斑紋が全く同じなんですよ。区別が付かないくらいにね。見に行ったらどっちがチエアマンかわからないくらいでした。ただ、乳房はテルスターの方が少し下がっていて、チエアマンの乳房はまだしっかりしていましたね。そこで最後の卵がハーシエルで採れたんです。テルスターはとまらなくて、クローンをやったはずです。
 チエアマンは17才まで生きたんです。ロツクマンは18才、サウスウインドも17才まで生きました。初代のエンプレスも17才まで生きたし、長命の系統なんです。テルスター・ETも18才まで生きたそうですよ。
 長命ということは肢蹄が良くて体が丈夫だということです。早熟でなく、晩熟タイプの牛で、乳房がしっかりしていることが絶対条件です。うちの牛は今のようにフリーストールになって、細かなケアができないような状況では難しいかと思いますが、きちんとケアすればどれも長持ちする牛たちです。



ホナミ・MBB・テルスター・ET 85



ホナミ・MBB・リードマン・ET 85



ホナミ・MBB・サンドマン・ET 89


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(4)インデックスの申し子

 全国雌牛評価成績がNTP(総合評価指数)として発表されたのが平成8年秋。それ以前は経済効果による序列付けで上位のものが公表されていた。第1回目の公表は平成5年5月で、チエアマンが3位につけていた。6年前期公表の成績で、ついにチエアマンが第1位に、さらに5位にはロツクマン・ET(88点、母チエアマン×父バリアント)が入ってきた。チエアマンは7年後期まで1位、9年までは2位に留まっている。8年前期にはチエアマンに変わって1位に登場したのがウーマン(90点、テルスター×リードマン)である。
 8年後期には体型評価を加味したNTPが公表され、サウスウインド(90点、チエアマン×サウスウインド)が第1位で登場、なんと彼女は11年まで3年間1位の座を守った。さらに11年の前後期では、サウスウインドと彼女のニツクによる3姉妹クロケツト(89点)、チエアマン・ベル(89点)、トニツク(85点)がトップ4を独占したのである。12年に入ってもチエアマン・ベル、クロケツト、トニツクの3姉妹がトップ10入り、13年にはサンドマン(89点、リードマン×サンド)が7位、15年にはアンビシヤス(85点、サンドマン×ランツ)が4位、その後も常に上位に名を連ねてきた。


〜平成に入り、雌牛もインデックスで評価される時代となりましたが、最初から上位を独占していましたね。

 チエアマンが経済効果で1になり、その後ウーマン。NTPとして体型も加味しての評価となってサウスウインドが初代の1牛となりました。このことにより多くの計画交配が入り、多くの種牛を世に送り出すことが出来ました。
 平成12年にはチエアマン・ベルが1になり、100傑にホナミ・MBBが20頭も入ったんです。当時はウーマンが3回目の2万s、サンドマンも4代2万s達成と牛たちも絶好調だったのかも知れませんね。
 こんな好調なときでもトラブルはあるんです。たしか、8年だったと思うのですが、餌の問題で牛群が体調を崩したことがあったんですよ。その年の夏は非常に暑い日が続いたのです。前年から餌をTMRに変えていましたが、従業員の休暇のために夏の暑い日にもかかわらず、2日分をまとめて作りだめしてしまい、腐敗させてしまったんです。しかも悪いことは重なるもので、飼料タンクの縁にこびり付いたマッシュ状の餌にカビが生えたものを、たたいて落として餌に混ぜて与えてしまったんです。さらに、獣医さんの手違いなどもあり、治療が遅れてしまったことから、結果的に20日間以上乳量を落としてしまいました。
 また、能力の高い牛ほど食欲が旺盛です。繋ぎでは1頭ずつ量を加減できますが、フリーストールではいくらでも食べる牛が出てきます。ところが、機械のトラブルで餌をやれなくなったことがあり、空腹時間をつくった後餌を与えると、バカ食いして食滞を起こしてしまいます。そんなトラブルで高記録牛をフイにしたこともありました。良い勉強になりましたよ。

〜一族の採卵に対する反応はいかがですか。

採卵に関してはロツクマンが歳だったこともありますが、なかなかうまくいかなかった。その経験をふまえて自分なりに勉強しました。発情周期のコントロールも飼養管理もかなり吟味しないといけないし、時間のずれや薬の量をちょっと間違えても全然駄目なんです。特にPGの時間などはきちんと守らないと駄目だよね。あと採卵する牛には必ずビタミン剤を使っていますが、反応が良くなりますよ。
 なぜお金のかかる受精卵を採るのかと聞かれることもあります。実際に、ある牛が2産で86点、日量68sくらい搾っていて、ショウにも使えそうなすごく良い牛だったんです。でも、大腸菌であっという間に死んでしまいました。彼女にはルドルフの娘が1頭だけ残っていて、当然彼女に期待をかけました。彼女は初産で雌を生んでいたのですが、事故で殺してしまって、その後はなぜかとまらなくなってしまった。このルドルフの娘から何とか遺伝子を繋ぎたいと思って採卵に取り組みました。結局、種はとまらないので初産600日搾乳で23,000sぐらい搾ってしまいました。こんな経験もあり、良い牛の遺伝子は何とか残しておきたい。だから受精卵に取り組んだんです。
 ロツクマンは死んでから雪印の受精卵移植研究所で体外受精卵を取りました。レシピエントがもうすぐ分娩だというときに見に行ったらすごい腹していた、「これはコッコでかいし、移動させて殺してしまっても困るな」って言ったら、獣医の清家先生がうちで分娩まで見てやると言ってくれた。40日ぐらたって、そろそろ分娩だなと思って連絡しようとしたら、たまたま土日にかかって連絡できなかった。月曜日になって再度電話したら、「いま連絡しようと思ったところだった、今朝雌生んだんだけど、従業員が誰もいなくて、死んじゃってた」と言うの。56sぐらいあったらしいね。



ホナミ・MBB・ウーマン・ET 90



ホナミ・MBB・サウスウインド・ET 90



ホナミ・MBB・チエアマン・ベル ET 89


〜今の牛群はチエアマンからつながる2万s4代の流れが中心になりますか。

 そうとは限らないね。ロツクマンやチエアマンの流れはもちろんだけど、マドキヤツプの流れも多い。マドキヤツプの流れも実際乳は搾れるし、雌が多いんです。かなり売っているんだけど減らないね。なにせ繁殖が良かったからね。もちろん牛群は全部ホナミ・MBBですよ。
 ロツクマンの流れでは愛知県豊橋市の前田さんに売った6代目エル・スター(父ブラツクスター)は90点もらいましたが、彼女の娘たちがずいぶん繁栄しているようですよ。彼女の娘が05年栃木全共の5才クラス2等賞のマリーデール・MBBジヤツジ・ウブ・ETなんですから。
 年間50〜60頭は売っていましたから、今までに1,000頭くらい売っていることになるかな。マガジン誌の高得点牛や高能力牛のページに自分の売った牛やその子孫の名前が載っているのをたまに見かけます。都府県で活躍している牛を見るとうれしいです。ただ、検定も何もしない人がいるでしょ、そういう農家に売ってしまうと、その娘の成績の時に記録が途絶えて困ってしまうので、注意しなければならない。

 龍田牧場では独自の系統表と体型スコアを付けている。このことにより、個々の牛について特徴を捉え、的確な交配、改良を進めてきたのである。特に体型スコアは一般的なボデイコンディションスコアとは別に、弥太郎氏独自の哲学と見方をもって分析され、結果として泌乳成績とも相まって好成績を収めているのである。

〜龍田さんは牛の名前だけですぐに母、祖母の名前や成績が出てきますが、独自の憶え方があるんですか。

 系統の早見表を作っているんです。生まれた順に番号を振っています。15番がロツクマンで151番がチエアマンなんです。これを見ればロツクマンやチエアマンに何代前で繋がるかがすぐわかります。もちろん乳量も各牛の毎月の記録を全て付けています。
 それに全牛の体型記録を付けておきます。見る時期は特に決めていません。初産の時に見たものでもそんなに大きく変わらない、未経産のうちに見たりもします。
 自分なりの線形を外貌、大きさ、乳器、乳頭の配置、尻台、四肢を1から5までに評価して付けています。これを乳量と比べてみると乳房の良い牛は乳量も出るような相関があります。昨年もプレジデントの娘でショウに引いていた牛がいるんですが、乳房と乳頭配置が4です。乳量もAランクです。牛を見て頭に入れて帰ってきてから紙に書くので、多少不正確ですが、そんなに外れていません。

〜具体的にどのような牛が乳が出ると判断しているのですか。

 長く牛飼いをしているので、自分なりに乳の出る牛を見分ける感覚というか、哲学をもっています。
 牛は三角形の集合体で、そのバランスが大事なんです。特にポイントにしているのは乳底盤と腹の下の長さが同じ牛、体長が体高の125%ぐらい、それに乳底盤の角度は40〜45°が望ましいという3点です。
 乳底盤の長さと腹の長さが同じでないと乳は出ない。初産牛で写真を写して踏み込んだとき前乳頭が隠れるような牛はあまり乳が出ないんです。
 体長と体高のバランスは体高よりも体長が長い牛が乳が出ます。ロツクマンは体長と体高の比率が130%でした。
 乳底盤の角度を見ると、今の牛は前乳房がないために角度が立ちすぎている牛が多いように思います。最近、後ろから移して、乳鏡の幅、高さばかり見せていますが、本当は牛は横から見なければ駄目なんです。
 ロツクマンやチエアマン、その後の2万s搾った牛たちはもちろん、うちのMBBに総じて言えることですが、乳が出てしかるべき体型をしていたということです。



龍田氏の体型の見方(搾れる牛の条件)
(A)腹の下と(C)乳底盤の長さが同じ方が望ましい。
乳底盤(B)と(C)の角度は40〜45°が望ましい。
体高(E)に対し体長(D)は125%が望ましい。


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(5)種雄牛として活躍 龍田牧場の歩み

 龍田牧場が生産した種雄牛は数多く、NTPの元年となった平成8年にMBB・マークウエイ(ABS繋養、母テルスター・ET×父チーフ・マーク)が第3位で登場、経済効果ではトップの成績だった。その後9年にジヤーナリスト(テルスター・ET×リードマン)が8位、ベル・オブ・ウイング(GH繋養、チエアマン×サウスウインド)が14位。12年にはニツクマン(LIAJ繋養、サウスウインド×ニツク)がNTPトップに、さらに13年グランドマーク(LIAJ繋養、リードマン×グランド)が13位、14年にはポーラーマン(GH繋養、サウスウインド×パトロン)が1に。16年にはチーフ・ブロツク(ABS繋養、リードマン×ストーム)が9位で登場している。
 また、実際にMBB・マークウエイの娘サイテーシヨン・マークウエイ・メイアー(82点、大樹町・穀内英雄氏所有)、MBB・トツプガン(チエアマンの娘×ウインチエスター)の娘ミルクハウス・トツプガン・エルク(79点、宮崎県小林市・富永正久氏所有)が2万s突破、トツプガン・エルクは4才型乳量記録を更新している。
 この他に本交用の需要も多く、龍田牧場でも自家繁殖用の種雄牛を所有している。


〜種牛も数多く作ってこられましたね。

 チエアマンに種雄牛サウスウインドで採卵し、2個採れた卵がどちらもとまり、1頭がベル・オブ・ウイング、1頭は雌でサウスウインド・ETです。ベル・オブ・ウイングはGHにスポット買いして貰った。 当時はトラデイシヨンの息牛などは高値で買っていって貰ったが、サウスウインドは種牛としての評価はされておらず、この牛はなかなか売れなかったので、GHに頼んで安く買って貰った。後で繋留所で見せていただいたが、当時飼われていた種牛では一番体長が長かったのが印象にあります。
 ニツクマンも最初は別の授精所が仮契約していたんです。LIAJは最新の種で指定交配するでしょ、これは指定交配で誕生した牛でないんだよね。でも、見に来てもらったら、良い牛だから持って行くわとなって。
 当時は後代検定にかけられている雄牛のほとんどが輸入されたもので、その中でトップに立ったということは嬉しいですし、交配に間違いがなかったということで喜びました。
 平成12年の春の雌牛インデックスでは富良野市・三好牧場のベルウードの3姉妹にトップ3を奪われてしまいました。自分はベルウードを使っていなかったので悔やまれました。でも秋にはニツクマンがbPで登場し、雌もニツクマンと同じ受精卵で誕生しているチエアマン・ベルがトップ、クロケツト3位、トニツク4位に入りました。これらは体型も良く能力とのバランスのとれた牛たちです。

〜次々と好成績の種雄牛が出ましたね。

 ニツクが良い成績だったので、パトロンの息牛も良い結果が出るのではと期待していました。ポーラーマンは農水の計画交配で誕生しているんです。2頭生まれて、1頭はLIAJが買ってくれました。残った1頭を当時のJHBSに買ってもらえないかと持ちかけたら、快く買ってくれたんです。成績が出る時には合併してジェネティクス北海道となっていて、トップ種雄牛だったジエスロを追い越して1で出たでしょ。予想以上で驚きました。

〜インデックスを維持するために種雄牛選びも苦労されたんですね。

 最初の頃のインデックスは体型も加味されてはいたが、やはり能力が重視されていたよね。最近はアメリカも日本も体型がかなり重視されている。そうすると、どうも理想とする牛とはややかけ離れてきているような気がする。だから上位にいるからといって、素直に使うかということにはならなくなっています。何故なら、上位にいる牛の中には気を付けないと、成分を下げてしまう牛がいるんです。一度下がった成分はなかなか上げるのが難しいからね。
 具体的にはブリツツは乳量上げるし、乳器が良いということで使ったんだけど、実際搾ってみると肝心な成分が低い、体型や乳器も当初思っていたほどの数字は現れていない。未経産時に自分なりの線形評価で3や3.5の牛がいて、戻って台帳見てみるとブリツツの娘だったということが多い。H・タイタニツクは体型も乳器もまあまあ良いんだけど、乳量が今一つ足りないと思います。

〜種牛も順調に販売できたんですね。

 平成11、12年は指定交配が目白押しで、すごい数が対象となっていた。
12年1月の末にヨーネの検査を訓子府町全体でしたんです。うちは受精卵に早くから取り組んでいたので、対象の牛は白血病やヨーネは常に検査していましたし、一度も引っかかったことはなかった。だからどうせ出ないと思っていた。
 ところが1頭疑似牛が出たんです。チエアマンから3代目に当たるインスピレーシヨンの娘で、6月に分娩を控えていたのに処分しました。その頃指定交配でサンドマンにランツを掛けた受精卵が4個受胎していたし、その後も10頭ほど生まれてくる予定だったのが、一時的に移動禁止で授精所には売れなかった。その後の検査では全く出ないんですよ。
 この時のランツの息牛はランツマン・ETといって、本交で使って、娘は初産から50s出たり、15,000sの牛もいますし、検定に参加していれば乳量ではかなり上位にくるような種雄牛だったと思うんですがね。
 また、本交用にも結構売っています。毎年5〜6頭くらいは需要がありますよ。



ホナミ・MBB・ベル・オブ・ウイング・ET 92
ジェネティクス北海道繋養



ホナミ・MBB・ニツクマン・ET 88
家畜改良事業団繋養



ホナミ・MBB・ポーラーマン・ET 88
  ジェネティクス北海道繋養


〜立ち入った話ですが、個体販売の代金は設備投資などに使ったのですか。

 そうだね、設備投資が先かな。何か施設を作ると牛が売れたものです。住宅を建てたときも3,000万円ぐらい牛が売れた。何か作ると牛が売れてくれたんです。また、それだけ売れる牛が揃っていたんです。

〜これまで伺うと、ほぼ一代で今のホナミ牧場を築いてこられたんですね。

 そうだね、牛はもちろんこの施設、機械全て資金を借りないでやってきました。今もバンカーサイロの増設、子牛用の育成舎の建設を進めています。毎年500万近い金額を投資しています。
 今搾乳牛は350頭、乾乳など合わせると親牛で390頭ぐらいになりました。育成牛は2年間で300頭ぐらいです。
 土地は23fしかないんです。この辺は地価が高いんですよ。網走管内でも農地としては一番高いくらいで、今は反50万円ですが、一時は100万円もしたんです。だから高くて買えませんでした。山の方に行けば安いんですが、傾斜地で使いづらい。仮に50万円で買って飼料作物を作っていては合わないから、デントコーン以外は全て買い餌でやっています。
 デントコーンは連作です。スラリーはバイオ液を使って発酵させ、アンモニアを抜いているので、窒素分がかなり抜けていると思う。この液を秋の収穫後と春の2回播いています。それに堆肥と。これで何年も無肥料でやっています。
 あと20fくらいの土地があれば堆肥も自分のところで処分できるんですがね。今3割ぐらいは他に出しています。

〜今までで一番のお気に入りの牛は。

 ロツクマンとチエアマンは別格として、いろんな思い出深い牛がいますね。2万s3回搾ったリードマンは雌牛で一番気に入った牛です。資質といい、能力といい申し分ありません。太い乳静脈が3本あるんです。そして乳口が5つあるんです。まるでお化けですよ。バリカンをかけたら血管が走っていて、乳腺との間の腹の下が網のようにネット状になっているんです。あんな牛は初めてでした。

〜一族の特徴を短くまとめて下さい。

 総じてうちのバークの特徴は初産時に体が大きくない。とにかく食べて大きくなる。食べて腹が出て、分娩時に140pそこそこで産んでいる。産んでから12〜15pぐらい伸びる。6、7産になってもまだ成長する。
 それに泌乳期が長い、後半になっても乳量が落ちない。最初から最後まで同じような乳量で続くんです。肉が付かずに搾れるんです。そして長命、連産と、まさに自分の理想とする牛たちに成長してくれました。
 初代フエムコ・エムプレスをホル協の藤本虎之助さんが見に来て言われたのを憶えています。「この牛は本来なら手に入れることが出来なかった牛なんだから、カバンを下げたら駄目だよ」と。言われたときは何のことか分からなかったが、今考えると牛舎を空けて出歩いて、牛の管理を怠るようなことをしていては駄目だよという戒めだったんでしょうね。
 これまでこの牛たちと夢を追いかけ、時間も、疲れも、辛さも忘れて、ただひたすら前進、努力してきました。気が付いたら50年以上ですが、まるで夢のようでした。



MBB・バークとともに半世紀歩み続けてきた
龍田弥太郎氏と妻豊子さん