荘内の中世を語るBBS

 たとえば、出羽庄内に羽黒山があり、これは江戸時代、幕府朱印状をもつ寺院でした。庄内藩と同格で、羽黒山には、家老がおり町奉行所があったのです。  遡れば、戦国時代庄内は、武藤氏が領したと教科書に書いてあります。でもこれは間違いで、実際には、武藤氏の血筋が住職を務めた、「大宝寺」が羽黒山別当として庄内を領していたのです。 大宝寺は、羽黒山大衆を率いて合戦に及びました。酒田は東禅寺が城郭を構えていました。 しかし、この事実は取り上げられず、庄内は武藤氏という大名によって制されたと書いてあります。 庄内の中世の文書には、大宝寺はあっても、一度も武藤氏は登場しません。 このように歴史を誤ってしまった背景には、江戸時代の価値観で日本史を書いた為だと思い、今もう一度歴史を見直すべきだと考えているのです。

 冒頭から引用で申し訳ありませんがこれは堀宗男氏(富山の中世城郭を研究されている方)の話で「川中島の合戦は」という過去のBBSからのものですが、少し過激な部分はあるものの私としても同感するものです。(更に詳しくは「法師大名・羽黒山」http://toyama.cool.ne.jp/arahousi/syugennosato/hagurosan1.htmへ。)

江戸時代の羽黒山は天宥、天海の線で将軍家から直接朱印(領地を保証された)を貰い武力こそ無いものの石高1500石とはいえ庄内藩と同格(並)一つの行政単位いわば藩として独立した状態でした。酒井氏庄内藩としては天領の大山以上に扱いにくい目の上のたんこぶ状態だったと言えます。

  更に補足すると中世の庄内事情は 大宝寺城、藤島城(共に羽黒山別當の居城)、或いは砂越城、東禅寺城、(主に大宝寺氏同族)など在地領主、中小豪族、武装社寺の連合体が 大宝寺氏(武藤氏)を中心として武力と信仰で庄内を治めていたものではないかと思われるのです。大宝寺、東禅寺など「寺」の文字が気になります。「歴史詳細」本文で紹介した当寺懸仏の例はこうした連合体の証なのかもしれません。

 この物理的精神的両面での支配、武力・経済・信仰的支配力を持つ寺院、という形は全国的なものではないかと想像するのですが、少なくとも庄内の中世的政治形態ではなかったかと思います。  戦国末期になって武藤氏が台頭して中央集権的になってくると庄内一国という国意識も出ては来るのですが、これら城主は血族ではあっても結束の強くない連合体でしたので、内部分裂や対立が起き砂越氏の乱などが起こる訳です。そして時代の流れの中では、最上氏と上杉氏の草刈り場になってしまいます。

  結局 緒田氏以降最上氏など近世的な大名にしてみれば それまでの在地領主などは力の差は歴然としているのですから家臣にしてしまえばいい。しかし一向宗などの例を見るまでもなく寺社など信者・支持者が散在するような信仰がらみの中世的領地支配、武力などはじゃまな存在ですので、過激な宗団は一山解散、取りつぶし。それほどでもない宗団は宗教だけやっていなさいと、新たに将軍家から朱印状・各大名から黒印状としての減石された寄進(実際は安堵)をして、武力解散をし、大名の支配下に組み込まれていくことになったのではないかと思うのです。そして平和な江戸期になると社寺が武装していたことなど全国的に忘れ去られてしまう・・・。別のページにもありますが鶴岡西目荒倉山、三森山、酒田の鷹尾山などは解散、その他の寺社も取りつぶし、減石があったようです。

土塁・空堀

天正十七年十一月秀吉により、荘内三郡は上杉景勝の領地
十八年八月に太閤検地
十月、川北菅野等 一揆 上杉の挟撃に遇い退散
川南に平賀善可等一揆 景勝鎮定
   景勝は大宝寺城を直江兼続に、酒田東禅寺城を甘粕備後守景継に、尾浦城を下秀久に賜った。
   藤島城に金右馬充一揆 直江兼続が鎮めたが、
   大社大寺の衆徒山伏等は、租税を納めず新政にも服しないので、
十二月景勝はこれらの徒を不意に攻め、神社寺院を潰し追放した。

当寺としては慶長一六年 衆徒が最上氏の庄内責めの時武藤氏の清水城支城の三森山に入城加勢し 破れると小国城へ籠もったとされています。そのため最上氏の時代になると山主及秀が山形宝幢寺で由緒書きなど持参し「衆徒のことは山主の存じ居らぬ事」など弁明に尽くしたが認められず引責引退。 京都にいた弟子久栄が跡を継ぎ宝幢寺で再度嘆願、暫くして黒印状の受領となり復興を許されたとあります。 井岡旧記

城郭寺院というと、一向宗の例が有名ですが古くは比叡山から金峰山吉野、根来衆などの例もあり一向宗にかかわらずそこそこの規模の寺院は城郭の態をなしていたこともあるようです。今の私たちの本山智積院も元は根来にあり、豊臣氏に攻められ再建されたのは徳川氏になってから京都に ですが、井岡寺と非常によく似た経緯を辿っているといえます。

 たまに高速道路建設などで山地から中世寺院跡などが発掘されることがありますが、寺社などは災害以外にそう無くならないものだと考えられていたのですが上記の理由などで 戦争に巻き込まれて焼けた、のではなく当事者として戦争をしていて廃寺になった場合もままあったのではないでしょうか。発掘の際 土塁・空堀の跡などないか注意する必要があるかもしれません。

 

 再度長くなり申し訳ないのですが堀氏のサイトから引用です。
(蕨岡大物忌神社http://members.tripod.co.jp/jyoukaku/warabioka/oomonoimi.html 画像などあります。)

蕨岡大物忌神社・口ノ宮

 山形県の日本海側の、田川郡から飽海郡にかけた地域を庄内といいます。この地名は戦国時代から見えると言われ、南に摩耶山、西には出羽三山、羽黒山・月山・湯殿山があり、北には鳥海山が信仰の山として聳え、これらの影響力がきわめて強い地域でした。

 庄内と秋田県の県境にそびえる優美な鳥海山は、度重なる噴火を繰り替えしていましたが、ここには大物忌神が宿るとされ、奈良時代、朝廷は不吉な事件はこの神々の祟りとして、国司に命じて御幣を奉った事が記録として残ります。この鳥海山をご神体とする蕨岡大物忌神社、口ノ宮は、大規模な城郭寺院でした。

 この遊佐町蕨岡に鎮座する大物忌神社口ノ宮境内の城は蕨岡館と称され、拝殿跡に遺構として、切岸や空堀が明瞭に観察されます。その構造は、能登霊山寺の城郭寺院の構造に類似します。  この拝殿跡は、一片が約70メートル余り台形を呈しており北端と南西に虎口があります。周囲は切岸で、削平した土砂で帯郭を形成する戦国期特有の形態が残り、北側の虎口から東側に約20メートルばかり、高さ1メートルばかりの土塁が伸びます。この土塁の下に、空堀が掘り切られた形跡が明瞭に存在します。

 築城年代は、背の低い土塁と空堀を根拠に、最終改修年代は永禄年間以降であろうと考えます。その理由は、この城郭の縄張りは西側虎口を防御するため土塁と空堀を組み合わせた構造が伺え、この土塁は銃眼の土嚢と考えてよいと思います。これは戦国末期、鉄砲戦に熟練した武将が築いた城郭の特徴を示すもので、鉄砲戦が中心となって合戦が行われた地域の城郭の一般的構造であると言えます。

 昭和の始めまで、拝殿には南側から参拝したが、西側に拝殿に登る旧道が認められます。かつてこの拝殿に至るには、現在、坂ノ下から四九九段、下の石段を登って上寺に至り、神門(旧仁王門)を入って、三一四段の上の石段を登らなければなりません。詳細は近世の絵図を参照下さい。

 『飽海郡誌』を参照すると、蕨岡館として何人がこの館を造営したかは不明とし、土人は、安部貞任と伝承し、「竜沢館伝記」には、永承年中(1046〜1053)黒沢五郎正任が始めた所というがはっきりしないとあります。また、住泉坊の跡を楯屋敷といい、村人が南にあると言った館跡であろうと考えます。北は、杉沢に陣屋楯跡があります。

 いつの頃からか、蕨岡大物忌神社は山岳密教と神仏習合して一山三十三坊があり、龍頭寺を学頭寺として、山岳修験の寺院に変質していました。蕨岡の大物忌神社は、康平年中(1058〜1064)に阿部貞任、宗任らの前九年の役の兵乱によって、一山の衆徒悉く滅亡したと伝えます。また、前九年合戦で壊滅した蕨岡の宿坊には、他から移転したという伝承があります。ひとつは、八幡町菩提寺坊に住んでいたとか、また、三千坊谷地から移転したとか伝承されています。

 また蕨岡は、久安四年(1148)には遊佐荘として、左大臣藤原頼長の荘園となっていました。この荘園は、頼長が関白藤原忠実から受け継いだ荘園で、日向川以北から県境までの範囲でした。この荘園は、遊佐の豪族、遊佐氏から平泉の藤原基衛に寄進され、更に摂関家藤原頼長に寄進されたものです。

 では、蕨岡が城郭寺院に変貌した時期を考えてみよう。庄内一円の築城の事例を見ると山岳部に集中的に築城された時期が存在したようです。山形県教育委員会の調査では、庄内には184ヶ所の城郭があり、その三割が摩耶山系に集中しています。中でも、湯田川舘跡群と呼ばれる城郭群は極めて異常で、その中でも藤沢館は、今でも登坂が困難な巨大な堀切と平坦面を埋め尽くす畝堀が特徴です。これは破城の跡ではないかという説もありますが、築城時期は、伝承から天正16年頃の上杉と最上との合戦時期と、その後の土一揆が考えられます。

 蕨岡の城も、遺構から永禄年間以降であり、その時期に国人土豪が在城した伝承がないとすれば、戦国期の庄内の動乱から推定すると、天正16年頃に龍頭寺三十三坊によって築城された可能性が高いと考えます。

 上記湯田川舘跡群は井岡からもほど近く、これらのことから井岡山の土塁・空堀も古代の柵跡というより中世末期、蕨岡館とほぼ同時期の城郭寺院の土塁・空堀跡だったということも十分に考えられます。

 なお龍頭寺のことですが  現在遊佐町蕨岡上寺 鳥海山龍頭寺は当寺と同じ宗派に属しますが、「龍頭寺」というのは鳥海山山頂にあった大同2年(807)慈照開基の寺で、別に蕨岡には十一面観音を本尊とする「松岳山観音寺」があり里の坊であったと思われます。江戸初期明暦元年(1655)本尊鳥海山本地薬師如来を奉り鳥海山龍頭寺と改称した歴史があります。

 八幡町には観音寺や大蕨とかの地名がありしかも平地には国分寺跡と言われる堂野前遺跡があります。国府も近くの城輪柵と言われていますから、国府が移転した時期にでも国分寺も大蕨あたりに移転。「観音寺」(太宰府や多賀城廃寺の国分寺も観音寺と言った)として存続したのではないかとも思われます。

 また少し南の三千坊谷地(上記)には鷹尾山一山があって、本坊、表口別當といわれる近くの同宗派生石延命寺には平安期の優れた秘仏聖観音像があります。これは鷹尾山宝蔵寺の本尊であったか、またはこの「観音寺」から流出したことも考えられます。この宝蔵寺も国分寺からの別の流れであったかもしれません。なお宝蔵寺も引用の天正十六年頃の混乱で「一山離散」になっていて、「宝蔵寺宝印」は同宗派勝福寺で保管されています。

 龍頭寺は言うまでもなく本尊は薬師如来です。現在の龍頭寺には観音堂が別にあり、鎌倉時代頃の地方作ですが明らかに客仏と思われる観音、毘沙門、不動の三尊が祀られています。この観音堂こそがかつては国分寺であった観音寺の現在の姿ではないかとも考えられるのです。 出羽一宮である大物忌神社と出羽国分寺が一体化するのは必然性があったともいえるのではないでしょうか。
 

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