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原口祐之の寿碑 (お墓ではありませんその人を讃え長寿を願う石碑です)

原口寿碑

鶴岡縣第二大區一小區
朝暘學校建築
明治九年丙子八月
 大工頭 鶴岡  大工町  高橋 権吉
 同町   石井 棟治
 大工小頭川北中島村 斎藤 文治
水沢村  瀬尾 平蔵
 瀬尾要太郎
鶴岡高畑町松村 嘉吉
荒町裏町 佐藤 伝吉
酒田近江町 五十嵐伝二
米屋町 相庭徳兵衛  
三ヶ沢村 半沢 重夫
鶴岡  東島 古沢 定吉
同   大工町石井 与作
 瓦師鶴岡鍛治町中村三治郎  
 壁師鶴岡大山海道 田中勘四郎
 石工頭 鶴岡三日町志田 繁蔵
十日町 進藤 弥蔵
 


 
 原口祐之 文政6年(1823)〜明治24年(1891)(異説あり)
工事監督、旧薩摩藩士
酒田県令三島通庸の命を受け 貴島宰輔の指揮下で鶴岡馬場町に建設の洋風瓦葺三階建朝暘学校(高さ六丈二尺八寸、建坪439坪、室数42、工人65400人、工費3万円)の工事監督を行った。明治11年2月山形県十等出仕に任じられ、山形の医学寮「済世館」(済生館)の工事監督にも当たった。
 
 とまあ引用なのですが、この三島、貴島、原口、高橋権吉のつながりや、高橋権吉と高橋兼吉との関係が今ひとつよく解らないのですが、ご存じの方御教授下さい。
 

なお、又引きになってしまいますが、「廣心堂」さんの庄内平野http://mi-ueno.hp.infoseek.co.jp/shonai/turuoka.htmに藤森照信さんの「日本の近代建築(上)−幕末・明治篇−」(岩波新書)「下見板系擬洋風の出現」が紹介されています。

鶴岡市のHPより、高橋兼吉高橋権吉

高校の同窓会のHPより昭和32年卒大先輩 渡部さんの投稿で原口氏の事が詳しく載っています。
http://y-kakusho.jp/toukou/toukou951.html










 我らの菩提寺
         七五老 小野青川


 十二天の 盤木蔵して 晩夏寺

 遅桜 永久に西向く 臥牛の墓

 寺宝幅 絢爛たるが 虫ばめり

 春愁や 優面長の 勢至佛

 村時雨 晝も小暗き 藩主の間

 庫裏薄暮 大竹林に 落栗す

 遠鵙や 日は力なく 石庭に

 からす瓜 垂れひそげしや 土塁蹟

 虎杖や 史蹟秘めたる 山の窪

 杉の月 洩れてと々けり 土肥の墓

 年惜しむ 娘のぬかづくや 歓喜天

 鵙遠し 新墓土を 盛りあげて

 宝蔵の 遅日はしやぐ 雀ども

 月いまだ 枝垂桜の 花あかり

 合掌す 絶家となりし 雪解墓

 開山の 墓や冬日に 影据えて

 とり残す 大根四五本 比企の墓

 口碑のこる 石佛秋之 日にぬくむ

 名家老の 墓碑盤石に 油蝉

 又リスが 胡桃落とすや 葬具小屋