「出羽国風土記」 新井太四郎 著 明治十六年 より
○郷社八幡神社 平田郷 (頁 407、408)
祭神は玉依毘賣命譽田別尊息長足姫命の三柱生石村矢流川に鎮座す
神殿三間二尺・四間 拝殿三間四尺・五間 境内千九十坪 氏子千百六十五戸
当社は五十二代嵯峨天皇の弘仁七(817)年丙申左大臣金光公此地に祠宇を創建し男山八幡宮を勧請す
同七十代後冷泉院の天喜五(1057)年丁酉八幡太郎義家奥州阿部貞任兄弟を征討の為下向の時朝日館に宿陣す
賊勢猖獗官軍に抗す義家乃ち当社に祈誓して戦勝を得たり
凱陣の後康平五(1062)年壬寅社堂再建寄付物あり
天正四(1576)年丙子九月十日領主武藤義氏神領九石三斗五升の地を寄付す両氏の印証あり
明治九(1876)年二月郷社に列す祭典は七月十五日なり
風土略記に朝日山八幡宮は館の鎮守なり
源義家東征伐の祈願に建給ふ
別当延命寺館主池田讃岐守没落の後矢流川村へ遷す
湿地なる故に延享年中古社地を繹ね舊地へ遷座すと有り
○真言宗 延命寺 (頁 411、412)
本尊は不動尊なり生石村字大森山に在り
智積院末派なり当寺は鷹尾山拝処繁栄の時表口の別當にして附属支坊十八院あり
當寺の北方に曼荼羅石と称する奇石ありて梵字を彫付て脇に承和建武正平等の年号あり
此石は昔時諸国より鷹尾山参詣の行者を先達するに此石路傍に在るを以て行者其石に休□(=憩=「既」冠に「土」=き)する時は必ず災難あり
依って之を怪しみ引起し見るに曼荼羅石なり
また続いて常香塚と云ふあり其脇に身洗河戸と云堰あり
此皆鷹尾山別當の時の名跡なり
當村八幡神社の別當にして弘仁(810〜
824)年中左大臣金光公男山の神霊(霊の別体字、本来は意味が違うが流用)を勧請せし
以来天喜(1053〜1058前九年の役の最中)年中奥州六郡司阿部頼良父子返逆を企て伊豫守頼義八幡太郎義家征討の勅命を蒙り下向の時に八幡宮に祈誓して當寺並十八坊をして大般若経転読をなさしむ
今に當山乾の方に大般若場と云処あり
義家凱陣の後神徳を感じ社殿及び寺坊を造営したる事舊記に詳なり
其後康平二(1059)年野火の為に焼燼し衰微せしを最上少将義光の時由緒を申しあげ黒印九石三斗五升を八幡別當領に寄附ありて再興せり
本堂の鰐口も當寺の南に若王寺と称する池あり 其の水底に時々光を放つ者あり 里人之を怪み避て妖物となす事久し
享保七(1722)年現在平田郷一同の人夫を集め池水を汲干して見るに延命寺赤湯坊建武二年と銘ある鰐口出たり
此赤湯坊は十八坊の内にして當寺焼失の時埋もれしと見ゆ
又麓の田畝に奇石あり
播州生石子の高御倉を移し祭りたり
慶長十(1605)年及海上人錫を留め當寺の衰頽せるを核(≒核=偏は立心偏)慟して千辛万苦日夜興復に志せしより十方信徒其篤志を感し協力して再興せり
彼上人を中興開祖と仰き法脈相承を目 今八幡宮並生石神社と分離し自檀のみにて保存す。
○観音堂 不動堂
(頁 413)
生石村字大森に在り観世音菩薩を安置す當村延命寺中興及海上人の慶長十五(1610)年西田川郡井岡村大日山井岡寺より勧請せし所なり
従来生石神社の本地物とし唱来りしを神佛分離に付信徒を募り明治十一(1878)年九月を得て現地に再建す
荘内巡禮十八番の札處なり不動堂は同村字北山に在り不動尊を安置す其由緒詳ならず