比企能員・土肥實平 と 井岡寺 比企能員

令和四年のNHK大河ドラマは『鎌倉殿の13人』でした。
「鎌倉殿」とは鎌倉幕府将軍のこと。
頼朝の天下取りは十三人の豪族が支えていた。
頼朝の死後、跡継ぎの頼家が幼年のため政治は十三人の合議制になった。
しかしすぐに彼らは激しい権謀術策の抗争を繰り広げる。
今より更に激動の時代でした。

主人公:北条義時・小栗 旬
敵役 :比企能員・佐藤二朗
他  :土肥実平・阿南健治
歴史というのはどちらの目で見るかで評価が変わります。
まして主人公がいる小説やドラマでは言うまでもありません。

当時は親子関係以上に育ての親である乳母と子供の繋がりが強かった時代です。
比企氏は将軍初代頼朝の乳母(能員の伯母 後に養子になる)、能員の妻が二代目頼家の乳母で、能員の娘は頼家の妻という北条氏より強い絆を持っていました。


図にはありませんが比企尼の息子朝宗の娘姫前が北条義時に嫁いでいて、
安達盛長に長女(丹後内侍)が嫁ぎ、その娘が源範頼に嫁いで、
更に川越重頼に次女(川越尼)が嫁ぎ、娘が源義経に嫁いでいます。

以下ウィキペディアより-----
寿永元年(1182年)8月12日、鎌倉比企ヶ谷の能員の屋敷にて、北条政子が頼朝の嫡男・万寿(のちの源頼家)を出産する。
能員の伯母(叔母)である比企尼は頼朝の乳母を務め、頼朝が流人となったのちも20年間支援を続けた忠節の報いとして、甥である能員を猶子として推挙し、その縁によって能員は頼家の乳母父に選ばれている。 頼家誕生にあたって最初の乳付けの儀式は比企尼の次女(河越重頼室)が行い、比企尼の三女(平賀義信室)、能員の妻も頼家の乳母になっている。
-----以上ウィキペディアより

比企能員は文治の役に於て、この地に来て田川太郎を討って功をたてたが、一且鎌倉に凱旋し、その後 当国下向の際 当寺南門の前を通過の折 落馬気絶に及び僧侶の祈祷によって平癒したので 能員は神威に感じ、其の後鎌倉へ訴え 寺領八百町歩を寄附ぜられた。
故をもつて能員の廟を井岡に移して供養したと伝えられるものであるが、建仁二年源頼家が将軍に任じられ、翌三年北条時政が頼家を伊豆に押し込め 実朝を立てて将軍としたが、此の時比企能員の子三郎、四郎、五郎は頼家の嫡男一幡を奉じて小館に立てこもつて北条氏を除こうとしたが事あらわれて比企一族は滅亡となつた。
そこで逃れた一族郎党井岡寺に止つて能員の石碑を立て,又遺骨を葬って菩提を弔ったとも伝えられています。



比企能員位牌

  

  建仁三癸亥暦
比企藤四郎能員 為阿耨菩提也
  九月三日


素材 檜 鑓鉋仕上
三個ある家紋は不明。
雲形位牌 様式、書式などは江戸初期ぐらい?



比企能員供養塔


     
「  建仁三年癸亥暦九月二日 
比企藤四郎能員君墓 阿耨菩提
 山□□普門日   地主別當井岡寺
 更貴往葬於此 」

堂山西側畑の北隅にある
時代、由来不明


土地柄平安末期には藤原氏・田川氏の庇護があったと思われますが奥州合戦のあとの勝者である鎌倉方に靡かなければ残れないという危惧があったのだろうと思います。
後世、武藤氏から最上・上杉、また最上と権力者が替わった時も上杉氏から仏像を貰ったり、最上氏にアピールし寄進(安堵)があったりと同じ様な事がおきています。
なお、ちょうどこの時代の遺物として優美な勢至菩薩が残されていて、比企能員の菩提を弔う為の阿弥陀堂・阿弥陀三尊があったかもしらないと空想も出来ます。

紙芝居「比企物語」埼玉県比企郡滑川町



土肥實平供養塔
  

堂山東側民家崖の上の山林を通る路から一段上がった五坪程の平坦地に東(羽黒山方面)に向いて建っている。

「徳□大禅定門
 土肥次良實平□」 

時代、由来不明

また、羽黒町史には戸川安章師が 昭和初期に当寺で比企のと同じ様な土肥實平の位牌を見た と書かれています。
黄金堂には實平の位牌が現存するとの事です。

實平は羽黒山荒澤寺正善院の黄金堂を建仁四年願主頼朝の命により建てる時の奉行であるが、当山との関係は不明。

余談・・頼朝が黄金堂を建てたのは奥州合戦の後なので
    その合戦の戦勝祈願ではない。




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拓本は先代の時に何方からかいただいた物 年々風化していく物なので残していただいた事に感謝します。