守永親王ものがたり         昭和四十四年十月十日 「大平だより」という某社社内紙より。

 延元三年(1338)羽黒山と一水を距てた立谷沢城に、北畠顕信が守永親王を奉じて東国随一の勢力をもつ羽黒山僧兵8,000人、北畠勢500人、結城勢300名が立籠り、南朝勢力の再起をはかった。
 翌延元四年八月十六日後醍醐天皇が、吉野の行宮で世を去り、南北朝の対立はますますしのぎを削るようになった。
 東国に北の国に主導権を争ったが、南朝はみじめな敗北に帰し勝ちにのった北朝勢は討伐の名の下に奥州を攻略した。多賀城、美山城を撃破し、安藤、工藤勢又敗れ、出羽に入り立谷沢城を包囲した。籠城十五日兵糧も少なくなり北畠軍は守永親王と共に城を出て清川狩川の激戦を展開したが利あらず、藤島川の戦に決戦を期したのである。
 僧兵の吹く法螺貝の音は庄内の野に陰に陽にひびき渡り、両軍の死闘は続けられたが、南朝側はついに破れ、守永親王は五名にまもられ添川、大半田、大宝寺、京田、播磨、米出をのがれ野の道を宮の下村にたどり着いた。
 時に正平二年五月十四日夕刻であった。主従とも矢傷を負い鎧には十数本の矢がささり血まみれの姿で宮の下のはずれの右近太夫の欅の大木の前に倒れた。その時左近太夫宅で茶を飲み乍ら雑談をしていた原太夫、刑部太夫、地蔵坊が異様なうめき声に驚き駆け寄り親王他四名を地蔵坊へ運び村人の手厚い手当をうけたが、重体で危篤状態がつづきいた。村人は寝もやらず看病した結果、かいがあり全快されたが、北朝軍の詮索はきびしくいつも布で顔をかくし起居した。
 当時宮の下村落は椙尾(当時は杉尾)社を中心にした神仏混淆の集団で、六供、八太夫で構成され、太夫職家は菅原大和の守を神主とし、左近太夫、源太夫、刑部太夫、式部太夫、庄太夫の一族からなり、六供は岳頭山永福寺を主にして地蔵坊、少勧寺、金光坊、神宮寺、他一坊で湯殿、羽黒の分派として庄内一円の信仰の地であった。
 この地に守永親王の傷も癒え、杉尾社講堂に村人を集め、学問をひろめ、また馬術はすばらしく若者達と調教をしたり流鏑馬の弓術をおしえたりし、村人達により親しまれ、敬われて七年の長い間地蔵宿坊にいて東の空、京の過ぎし日の想い出、一族の安否を案じつつ病にて若き貴公子はこの世を去った。

また。親王はナンバン(唐辛子)が大好きで、自ら乱馬王と呼び、村人達はナンバ王とも云った。
 藤島川の戦に敗れこの地に逃れ倒れたケヤキの木の下に矢立神社を建立し今なお四月十五日、大山祭前日に流鏑馬の神事を行い、若くして異郷に散った皇子様を偲んでいる。
 地蔵院の墓地に村民が建てた乱馬王の墓があり、誰が供えるのかナンバンが時折供えられている。
 藤島川の戦に敗れた遺臣家族は一時金峰山の麓吉野村に隠れ、生石中平田(酒田市)に逃れ亡き一族の冥福を祈った。生石延命寺の板碑郡は当時の歴史を示す貴重なものである。

悲運の皇子が草深い西山のほとりで寂しく世を去った南北朝の物語も人替わり、時移り忘れ去られようとしているとする時、古里の歴史を綴り伝えたい。(大澤栄豊)