傑僧及賢 文白崎良弥 「ものがたり 庄内と人物」大泉散士 より

鶴岡の泉町に龍覚寺という寺がある。高山樗牛の生家のすぐ前の寺であるが、今は古跡のようになって昔の面影はないが、酒井藩時代は藩の祈願所であって、格式の高い寺であった。流派は真言宗で文久年間から明治にかけて住職は宗賢という人で学問をよくし、独自の秘法を伝えていた。及賢はその弟子である。
及賢が若い頃龍覚寺の一室に寝ていると、本堂で物凄い物音がする、及賢は驚いて師匠に教わった九字の秘法を行うと静かになった。及賢は恐る恐る本堂に行ってみると、一羽の大きな梟が死んでいた。及賢は無益な殺生をした事を後悔したと言うことである。
及賢は天保二年飛島で生まれた、父は鈴木与兵衛と言ってその二男である。最初は飛島の興福寺に入り、次に吹浦の神宮寺、鶴岡の東昌寺、次に井岡の住職となって龍覚寺の住職になった。然し真言宗、特に自分の学んでいる学んでいる寺坦の衰えるを見兼ねてその秘法の衰えるを見兼ねてその秘法の伝授を思い立ち諸国を巡ろうと明治二十三年東京小石川の常泉院や埼玉県思障院を中心に開講してその秘法を伝えた。
及賢の名は天下に高く、或る時高野山に登って管長に会おうとしたが、その姿たるや汚い乞食坊主のよう、取次は変に思ってか取次がない。しつこく言うので仕方なく管長に取次ぐと及賢の名を聞いて喜んで玄関に迎え、草履の紐まで解く有様なので役僧達はびっくりして目を白黒させたと言う逸話がある。ここで秘法を管長に教えて再び龍覚寺に帰ってきた。然し及賢も老年、死は高野山で迎えようと鶴岡を立ち東京から川崎に立寄り、平間寺に開講した所、及賢の学を慕って集まる者群れをなし直ぐ立つ事も出来なくなった。しばらくここで開講する内に病重く高野山に登るを中止する事になった。そうして明治三十八年二月川崎の大師河原で死去された。行年八十三才。