―― 徳大勢至大悲観音菩薩由来 ――

 本堂(※1)の秘仏は三国伝来の閻浮檀金、御丈一寸八分の徳大勢至大悲観音(※2)であって、淳和天皇の奉納仏である。
この尊像は釈尊が在世の昔、天竺月界長者(※3)の願によって閻浮檀金を以て弥陀勢至観音の三尊を鋳たものであるが、因縁あって我が国に伝来し、中尊は信濃の国善光寺の本尊(※4)となり、観世音は武蔵の国浅草寺に安置し、勢至尊は当山第一の秘仏として無上無比の霊尊といわれ、当山ではこれを徳大勢至観世音と称えているが、俗にはただ観音といっている。
 
 その後当山中興第十四世法印有栄師の時、この像が忽然と失せて住職をはじめ一山の人々が驚いて八方行方を捜索したが見当たらず、信心の道俗男女は慈母に別れたように嘆き悲しんだが如何ようにもならなかった。それは宝暦元(1751)年の秋のことである。
 住職はこの霊像が再び帰山することを祈りながら、代を重ねて後任に遺言しつづけてきたが、其の後二十一年の年月を経て当山代十九世法印有秀の時、明和八(1771)年の夏、不思議にも帰山することになった。そのいきさつは次の通りである。
 飛島法木村で代々村長をつとめて、現住職とは俗縁がある斎藤長太夫というものが、その霊像を守衛して当山に来たのである。
長太夫というものが伊勢参宮の帰路、越後の柏崎の駅、池田屋喜右衛門方に止宿し長途の疲れでぐっすりと床に寝ていると、深更になって夢ともなく現ともなく枕上に声があって“我この家に住む事二十年なり、かくこの地に止まるものにあらず、汝我を伴い羽州庄内井岡寺に参るべし”と、奇異の思いをして、あたりを見まわしたが人影もないので、再び眠りにつこうとすると“我を井岡寺に伴い行くべし”と。
 こうして再三に及んで眠りにつかず、胸騒ぎして全身に汗を流すに至ったので、宿の主人をよんで、この事を話し、この家に尊い神仏の有無をたしかめたところ、亭主も又同じ夢想の告げがあった事を語って尊像帰山の法会を、意中の疑いが解けたといって物語ったことは 「今から二十年の昔或る日、何国の旅僧が一夜宿した折旅籠の料にと預かった小さい仏像一躯があるが、歳月は長く過ぎたけれどもその僧はその後一度も音信がなくそのままに今日となったが、その仏こそ井岡と申す寺の霊尊に疑いない。
 衆生に縁を結ぶために霊夢となって帰山の機を与えたにちがいない」とて、その預かったいた像を長太夫に渡したによって、長太郎が井の岡登山となったという。
二十余年振りに一と度失せた尊像が帰山したので、人々は蘇生の思い、歡喜の涙にむせんで本堂に安置し臨時に法会を行った。

 しかるに其の後天保六(1835)年の秋、住職純成師の代またも尊像が失せて人々驚嘆し、みなみな悲しんだがどうすることもならず、住職は代わって秀伝師が入寺してから、鎮守の神と開山に誓いを立て、不動明王の威力を仰いで尊像が再び帰山するように朝夕祈念した。
 そして安政五(1858)年まで十七年を経過した。この年四月、清水山柳福寺観音の開扉供養があって当山の秀伝師がこの導師をつとめる事になった。
 この時、鶴岡一日市町の商人佐藤万吉というものが参詣に登り、師に申すには 『おのれは年来多病にて常に苦悩す、医薬に心をつくすといえども効なし。この上は神仏を祈る外なし、何の仏神を念ぜんと思惟しけるが、我が家秘め置きたる小仏像あり。己十三ばかりの頃、養父より伝え聞ける霊像なり。まずこの霊像に祈念せんと、それより朝暮に供養し奉り怠りなく念じるが霊像の御威徳にや、いつとなく病もいえて近年に至り心身快哉を得たり。これ偏に霊験のしからしむる所疑なし。かかる奇特の霊像なれば結縁のため道俗群衆幸の時なり、導師開扉して諸人に拝まし給え』  といって小さい仏像を渡したので、師は謹んで壇上に安置して開扉したところ、不思議ににも御丈一寸八分の尊容で、御逗子の内に仏舎利と籠(※5)があってこれこそ多年さがし求めていた尊像に疑ないので、導師は万吉にその伝来する由縁を尋ねたが万吉は、『養父がいつか旅僧より求め置いたものである』という。よって師は、「当山第一の秘仏三国伝来の霊尊で、一度失せてから再現し、又再び失せてまた出現あるように日夜祈念していたが、今無事に拝することが出来たのは不思議である。まして御厨子の中に秘め置いた仏舎利三粒は、開山上人よりの相承で、一粒は弘法大師より御譲のもの、一粒は鑑真和尚よりの相伝で、後 後水尾院様より御寄附となったもの、外の一粒は仏身分身の舎利で嵯峨塵院(※6)より相承けたもので、疑いなくこの霊尊であるにより、このことを承知されて奉納されたい」旨を万吉へ話したので、万吉は喜んでこの事を諒承した。
 師をはじめ一山のもの民衆と共に大いに悦んで本堂に安置して早速供養を行った。

  ( 大泉村史P391,392,393 : 原文は明治11年8月霊尊開扉の際、住職の依頼により万福寺住職中里広運が記したもの )

※1 当時の本堂は現在の遠賀神社の拝殿の位置にあった五間堂程度の規模の堂。
※2 徳大勢至菩薩:大悲観世音菩薩は日本中に沢山いらっしゃいますが、徳大勢至観音菩薩という仏格は本当にとっても珍しい希少で貴重な(?)存在。観音菩薩という菩薩は日本中に仰山いらっしゃいますが、徳大勢至観音菩薩という仏格は他に聞いた事がない。確かに本文どおり極めて希少で貴重な(?)存在です。
※3 月界長者は浄瑠璃に出てきます」。善光寺阿弥陀(三尊)の縁起を浄瑠璃に書き下したものであるが縁起に月蓋長者という方がいるのを、はばかったかのか、パロディなのか不明。ここで月界を採用したのは中
里師が本歌より浄瑠璃に造詣が深かったの??・・
※4 善光寺式阿弥陀如来というのは一光三尊形式といい、光背(仏が放つオーラ)が一つで三躯の立像がまとめて並び中に入っている形式
※5 「籠」 不明 仏舎利入りの龕の事?
※6 嵯峨塵院 不明 嵯峨院か?