大字 | 字 | 地名 | 読み | 現状 | 概況 | 備考 |
寺田 | 大東おおひがし | 草田 | くさだ | 田 | 村の東に位置 | 鉄分が多く井戸なし、耕作が大変、良質の糯米が採れ藩主に献上。 |
宮の前 | みやのまえ | 畑 | 村より東南 | 柳田道と村堰の内 鎌倉期の遺跡住居井戸土器出土寺があったとも言われる。 | ||
石塚ノ畑 | いしづかのはたけ | 畑 | 石塚家の先祖が三瀬より移り住んだ跡地墓地があった。 | |||
波谷田 | なみやだ | 田 | 寺田堰と小淀堰に大揚げを作り大東一帯の田に灌水する時間上げにて正午から日没までとした | |||
間々田 | ままだ | 田 | ||||
仲道 | 田 | 道路、休場、道、 | ||||
続き橋 | ||||||
村東 | ||||||
谷地仲 | ||||||
道田どうでん | 下の野地 | しものやち | 原野〜畑 | 村の西北 谷地とも、 | 村の半数ほどの戸数の原野が有り、屋根葺きの材料を採取、昔は死んだ馬を埋めた場所もあった。 | |
道田 | どうでん | 田 | 村より北東 | 現在は一中、宅地2/3は宅地になる。道田(みちた)町 | ||
大道下 | 腰巻田 | 田 | 小淀川との道路中間西側 | 真田場の側 江戸初期に常照院という尼寺があった。清鏡寺の六面幢はここから移した。 | ||
屋敷の後 | ||||||
村作 | ||||||
日記田 | ||||||
彦次郎田 | ||||||
新田 | 地形が窪地になっており降雨時には冠水してしまう | |||||
下の田 | しものた | |||||
碇田 | いかりだ | |||||
横枕 | ||||||
休場道 | 楊のある場所の地名 | |||||
下道 | しもみち | |||||
眞田 | ||||||
後田 | 円蔵院田 | 田 | 村より西〜南西 | 元は円蔵院、寺ノ田(清鏡寺)等の所有地、小作田で後田には多くあった。 | ||
寺ノ田 | ||||||
上海(養海)塚 | 西側 | 後田地区は元より寺に関係のある場所らしく以前は5アールぐらいの墓地跡来期ものが畑地としてあったが、昭和30年の耕地整理で田にした | ||||
高道 | 謂われありそうだが不明 | |||||
覚地田 | ||||||
竹ノ花 | ||||||
鍋作り | ||||||
油田 | ||||||
二ツ揚 | 温海街道より南側目印の地名が多い | |||||
家の後 | ||||||
道上 | ||||||
出張 | ||||||
宮後 | ||||||
月記 | 殿前 | 田 | 田 | 鎌倉後期の排水路、住居跡、土器など広い範囲で発掘されている | ||
橋本 | ||||||
焼場 | 村より南200m | 明治以前のもの鶴岡の合併してから使用していない。屑焼きには使用していたが圃場整備の時に田にした。 | ||||
高道 | 南側 | 田 | 道路、その他 地名の目印が多い。 | |||
橋元 | ||||||
馬道 | ||||||
三角田 | ||||||
番田道 | ||||||
井岡道 | ||||||
月記 | ||||||
高道 | 高道 | 田 | 29年区画整理にて月忌、西田に分散編入 旧倉脇堰、船間堰、高道堰等水路が多い、水路は土盛りして高い所を流し、後田、月記等に灌水した、田は低い所は泥炭地の所もある。 | |||
番田 | 西田 | 西田 | 東南、旧倉脇北側 全体に泥炭層である。 | |||
深田 | ||||||
碇田 | ||||||
けぐろ | ||||||
地ノ内 | 地ノ内 | 田 | 番田道より南 | |||
番田田 | 田 | |||||
北田 | 番田小保田 | 番田道より北 | ||||
北田 | ||||||
続橋上 |
堀大明神 大泉村史(昭和三一年発行)より。
温海街道を鶴岡から出て、小淀川に分かれる所一本柳の追分と、私供は言っている。
そこから寺田に行く西の田の中に二、三本の杉などが見えて鳥居が見える小さな社の地があるのに、
そこを通る人は誰も気が付くものであって、歩くものにとっては、ただ田圃中を通るよりもちょっと、なぐさめになる一つの景色でもある。
これが堀大明神といって、小さいお堂とそれに柵がまわされている。仔細に見れば杉だけでなく小さい桜のひこばえも見える。
寺田の村の言い伝えに残る物語は、
十五里ヶ原の戦か、最上義光が庄内乱入の時の話か分明ではないが、その頃、尾浦の城の武藤家の家臣、堀越前の守という、かなり良い身分と思われるものがただ一騎、
戦にやぶれて、息切って寺田へ走り込み、その頃の村随一の大百姓と言われた治郎左ヱ門の家を訪うた。
家の者が見ると、よろひかぶとに身をかため、槍ひっさげた武士である。
空腹に堪えかね、食事を請うのである。治郎左ヱ門ではちょうどその時、子供が風邪をひいてこんこんと咳に苦しんでいた。
武士はお礼に風邪を治す事を約束して、食事を与えてもらう事と、身をかくまってもらう事にした。そして、数日は一室に身を託していたが、俄に敵の探索にあったが、厠にあって、咳払いをしたことから隠し身が知れて捕らえられて最後を遂げた。
治郎左ヱ門宅ではその不びんを憐れんで、その遺骸を田の果てにねんごろに葬った。それが則ち今の柵のある場所で、当時治郎左ヱ門の田は村からそこまでつづいていたという富農であった。
葬ったその地に桜の木を植えたが、このさくらの木皮は、風邪の薬として効能があるので、遠近からそれを求めて墓に参拝する者が多く、その桜は赤裸になって枯死するに至った。しかし、次々に蘖(ひこばえ)が出て今にそのかたみをのこしているのである。そして治郎左ヱ門だけでなく、村人一同葬った場所に、小堂を建てて掘大明神と崇めた。
堀筑前守が約束したように、風邪ひきの人々を治すことはこのようにしてはたされたのであるが、しかし桜の木の皮が風邪にきくことは霊験ではなく、科学的にもいわれるものであるという。
現在(昭和30年頃)でも、藤島、余目、浜中、三瀬へんから参詣にくるという。藩政時代には、藩庁から御酒を下され、清鏡寺の住職が主になって施餓鬼をおこなって祭典をして村中参詣となっていたものである。現在もそれをついで毎年八月十四日には寺田の人々はおまいりをする。
かつては寺田四ヶ寺といわれ現在の圓蔵院、清鏡寺の他に 宮生寺、常照院という二ヶ寺があったというが、歴史・宗派などは不明である。