塔の山と宝篋印塔

 井岡塔の腰138番地あたりを中心に比高20mほどの小山が有り「塔の山」と言い、井岡寺開山当時に愛宕権現を勧請した場所とされる。
宝篋印塔はその平坦な頂上に建っていた。
寺伝には延享二年(1745年)藩主酒井忠寄が祖先の菩提のため宝篋印塔を建立、入仏供養には十四世有栄が導師となった。
翌年には制札を立て「宝塔内ニハ先祖代々御法号御座候間向矢弓引等又者石飛礫打又者昇等堅ク停止候也」と書かれたとあり、塔の山と呼ばれるようになったのはこれからだともいう。
 明治九年以降井岡寺は村民のため草刈り場として、また薯、大根等を作らせたのだったが、耕作権が生じ戦後農地解放の時には頂上塔の部分若干を除いて村民の所有となった。
 昭和四年(1929年)九月二十一日午後一時~二時半 朝香宮殿下がお成りになり、陸軍大学校の演習を統監され、大泉村村長三浦大助に「景色のよい高台故将来桜を植え、
遊覧の場にする様」とのお言葉があり、村長は委細お誓い申し上げ、十一月四日 村一同で頂上を整地して桜を植え付けた。
 また、二等三角点が設置されていて、見晴らしも良く 戦争中は監視所が置かれ、昼夜を分かたず飛行機の襲撃監視が行われたという。
昭和30~40年代、私が子供の頃にもそれらしいコンクリートの土台が残っていた。


画面中央右よりの前方後円墳形の所が塔の山で墳丘前方部分で黒く見えるのが飴嘗地蔵、耕作地にされていたため樹木はこのあたりにしか生えていなく他は禿げ山の状態だった。
塔は墳丘後円部頂上から西北西に十数メートルの黒い点がそれである。北東方面に湯田川街道が番田まで直線で延びていてこの塔を山当てして作られたと思われる。

 宝篋印塔は昭和三十九年(1964年)の新潟地震で相輪などが破損、傾いたが、鶴岡市の協力で復旧した。  しかし、昭和四十二年(1970年)には宅地造成のため山全部を切り崩し平地に変貌した。
その時に心ない業者にころげ落とされ塔本体は破損、納入品も一部を残し紛失してしまった。
 納入品は銅筒、同蓋、小仏像が認められた。落とされた時に銅筒は変形、仏像は劣化は少なかったが残ったのは本体首胴光背台座の一部で両手は欠損だった記憶がある。
他の例を見ると地鎮具や経石など地下埋蔵があり、内部にあったであろう経巻や「酒井家先祖代々法号」に関しても調査もされなかったのは残念である。
 その後、山の麓だった飴なめ地蔵(お地蔵様も3mほど後方に移動)の傍らに、やはり転げ落とされた文久元年(1861年)の愛宕大権現碑や他の石塔とともに移築されて昭和四十二年八月二十四日開眼されている。



 令和元年六月の地震で相輪がズレ落下しそうになり自治会の危険性があり不要とのことで移設するに到り、同二年六月に井岡寺仁王門前に移設した。
筒の蓋が閉まらないままで移築時に納入された様子で、令和二年六月移設に解体し内容を確認出来たが、筒の中は土に変わっていて、僅かに光背の木部が部分的に残るのみであった。
組み立てた塔の高さは丁度5メートル。
塔身に四方佛、台座に偈文が陰刻されている。
土台が三段あり、趣旨や関係者の名前が掘ってある様に見えるが摩滅が激しく殆ど読めない状態である。

 
北アク

不空成就

























東ウン

阿閦
























西キリク

阿弥陀


















南タラク

宝生


























-納入物- 銅筒 高さ 396ミリ、直径220ミリ
         肉厚 1.5 ~ 2.45ミリ
(銅筒銘文)

 藕按經意一時佛在摩伽陀國無垢園中寶光明池
 為大婆羅門無垢妙光及無量大衆説法時豊財園
 中有破壊寶塔瓦礫摧荊棘掩庭蔓草封戸是譬
 一切衆生崩倒木覺佛性為無明煩悩纏縛無佛住
 彼塔所在熟観見摧拆頻兵涙數行焉視寶塔壊
 則如來猶悲嘆况於佛子乎柳造塔功徳廣大無
 際而六能土盡豪瑞具見彼經所説固是一切如
 來大全身刹利所積聚無量威徳一切有情
 世間吉慶満焉 
(ここまでの文は一切如来心秘密全身舎利宝筺印陀羅尼経の要約)
 御城様   銀五枚
  金弐両      井岡村勧化
  同三両  發願 成 房
        取次 今野三左衛門
        隠居  同七郎左衛門
  同拾両       観音講鞠連中
             松浦安平伹中
  造塔施入十方壇主
   供養導師大願主
    大日山井岡寺十四世現住
              阿闍梨 有榮
    助願 寺田邑  圓藏院 栄春
    書記者細谷邑 寶藏寺 光岳
    筆者片貝邑   宮泉寺 宥賢
    石匠手向    五郎右衛門
惟時延享二已巳年四月二十八日
  金壱両一分  番田村 佐藤茂 内
  同貳分普銅八拾疋 遊佐郷 勧化


宝篋印塔 

宝篋とは、宝を入れる箱または籠で。印は、価値の高いことを意味し、宝篋印陀羅尼を納めた塔を、宝篋印塔と言う。

宝篋印陀羅尼

お釈迦様が、信者の家へ行く途中で、光明を放つ朽ちた塔を見つけ、その塔の貴重さと功徳を説明した、

一切如来心秘密全身舎利宝篋印陀羅尼経
(いっせいじょらいひびつぜんしんしゃりほうきょういんたらんじきよう)
に出てくる陀羅尼で、功徳は、無窮にて利益無辺、一切願を満つ。
貧窮のため服なく、食なく、命を続けられざるも、報(むくい)を滅し、富貴忽ち至る。百病万病一時に消滅し、壽命延長、福徳無尽。
悪人、地獄に堕ちるも苦を受けず極楽に至る。とされる陀羅尼である。
右周りで三辺 回って礼拝する。

仏頂尊勝陀羅(尼(ふていそんしたらんじ) 阿弥陀如来根本陀羅尼(あびだじょらいこんぽんたらんじ) と共に三陀羅尼と呼ばれ、よく使われる。


高さ5.0m 基壇幅1.9m
tounoyamahoukyouintou.html