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@  新しい価値と力

脱宗教化した「価値による統御」 
〜遠い空間と過ぎた空間を勝ち取る。



一旦破壊された古い世界の廃墟の上に、一つの新しい世界を打ち建てることになるのである。(ニーチェ)
彼らが最も憎むものは 創造するものである。既成の表と古い価値を破る破壊者である。それを かれらは 犯罪者と呼ぶ、つまり、善い者たちは 創造の力を持たないのだ。かれらは いつも終末の発端である。新しい価値を新しい表に書きつけるものを十字架につける、かれらは 己の為に 未来を犠牲にする。かれらは 人間の未来全体を十字架にかける。

 世界の回転の軸となるのは 新しい喧噪の発明者ではない、新しい価値の発明者達である。世界は 音もなく、回転する。

  人間の未来全体を十字架にかける。(ニーチェ)

* 有形的なものの対として、無形のものがそんざいしなければならない

* 遠い空間と過ぎた時間を勝ち取る

公式は 人間を暖かい腕で しっかりと抱きかかえる安楽椅子でもある。だが、反面において、その締め金から、抜け出そうとする努力は 一層の飛躍と 新しい価値をめざす。結局は 新しい公式獲得のための準備なのである。過去の作家の歴史的様式を知らなければならない。公式もいつかは その生命を失うもの、そして、新しく生まれ出る公式により、とって代わられるのだ。(カ)

宗教の世俗化と自然科学の発達に伴い、まずは 自然科学的なアプローが有力となると言う形で始まった。解明しえないことが明らかとなり、実存哲学や深層心理学などの形で、脱宗教化した「価値による統御」を目指す動きが、次第に有力となりつつある。

伝統的には「価値による統御」つまり、宗教や、道徳、倫理との関係が強かったが、近代化と共に、機能的な科学技術の要素が有力となる。

自己の内なる中心を発見する瞑想の旅である、価値の創造者とは、価値の発見者なのである。自律的となればなるほど、文化の位相は超越され、他律的となればなるほど、価値の位相は 文化の位相の中に拡散される。

    内的自然の意識〜時間的存在と社会的存在

    時間意識〜文化の時間と空間、

    社会意識のペクトルがきまる。()

芸術は 真理にもまして、いっそう価値が高い。(岩形

神、価値、超越の最高目標は 恒久的な限界を表すものであり、そこから出発して、人間は 根本的に、神でありたいと言う欲求である。(

価値の存在は 価値であることである。いいかえれば 存在で有らぬ事である。 価値は 当の諸行為のかなたにある1つのものとして、たとえば、崇高な諸行為の無限の向上の極限として与えられる価値は 存在のかなたに有る。

人間存在は 価値を世界に到来させるもので有ると言う事を当然、我々は 認めなければならない。価値付けられた存在は すべてへ向っての自己の存在からの離脱である。

価値は 全ての存在超出の無条件的な統一と考えられ得る。

最高の価値は 超越の「かなた」であり「目標」である。最高の価値 、同一性、純粋性、恒常性などの性格を備え、且つ、自己の根拠である限りにおける自己の絶対的な存在である。

価値を存在させるものとしては 同時に私自身を存在させる。 と言う事は 自由の観方による自由の思考と想像である。 これは 作品との対話が成立した事となる。この自由に措いて 他には 何も無い。 価値は 対自と同質である。対自が自らそれでありながら、それを欠いている1つの不在な対自と一体になろうとする企てをたえず素描している。対自の「欠如分」として、厳密に規定されるものは それは 対自の可能である。可能は 対自の無化にもとづいて出現する

スピノザ…諸可能は 我々の無知に対してしか存在しないのであって、無知が消失すれば、その諸可能も消失する。() 

オメガ点理論は 実験的に反駁される時まで、そして、そうされない限り時空の未来の有力な理論になる価値があると私は 信じている。

我々の未来にオメガ点が存在すれば、それが今日の宇宙の条件に何らかの束縛を課するはずなので、実験的反駁は 可能である。オメガ点は 全知なのだ。 

4本の撚り糸、人間の状況の未来の成長に依存している、そして、我々には 未来にどの特定の知識が創造されるかは予測できない、それは もし出来たとすれば、定義によって、我々は その知識を現在既に 持っていることになるから。(世界)

「形あるものは 必ず消滅する」ため「形なき物から形あるものが生じた」とされ、「有形なものの対として、無形のものが存在しなければならない」形なきものとは「見えない世界」より、一つ上の四次元世界のことです

マンダラ哲学‐法身界「形が無いが、世界中のシナリオを内蔵した世界」一

生命エネルギーに満ち溢れ、鋳型の役割を担っているのです。(聖)

絵画は「新しい世界のビジョン」の提示だと言う事になる。()

ファションは 常に「新しい」ことが必要である。と同時に多くの模放者を生むことによって、はじめて成り立つのである。仕組みが把握できる図面的な精密さが要求されるが、図面ではなく、空間的な存在としての物が感じられなくてはならない。写実であると同時に、充分に省略され、暗示的でなければならない。精密そうに見えるが、人間に取り扱えそうに見えなければならない。()

バウムガルテン〜美学(自由技術の理論、下級認識論、美的思索の技術及び擬似理性的思索の技術として)は 感性的認識の学である。美学が哲学の総合的体系に組み入れられることによって、確固としたものとなる。哲学体系が、自らの改造あるいは 破壊を誘発する。 絵は 1つの文化記号である。文化の底には 自然がある。絵の底には 視覚と言う自然がある。

 私が りんごを見るというより、人間の受動性からすると「私にりんごが見えている」と言う方が、正しい。

A、手応えがある、

      B、硬い、

      C、軟らかい、

      D、つるつるしている、

      E、ザラザラしている、

 触覚表現と呼べるようなものではなく、言語表象なのである。なぜ、新しいかと言えば、そのものが、それまで所有していた我々の視覚表象の中に なかった物だからである。身体が動いている と言う事は 生きている。完全ないしは 不完全に動いている。 生きる事を;見る;ことにまで、抽象することである。

 新しい状態の一つの決定因子。

 1、「生からの後退」

     2、もはや芸術ではなく、又 そうあろうともしなかった方向の台頭である。

 3、自然や超越的なもの、歴史に対する閉鎖である。

 4、ヘーゲルが看取した芸術の分極化、散文的客観性という極と空想性」と言う極である。

 芸術は「言語」にほかならない


 

 ヘーゲルの 第一の確証は 想像力の領域とその限界に向けられている。
 
第二の確証は その形式に向けられている、変形した空想 組み合わされた空想。

問題構成→ 一個の進行中の科学の内部で、発展するものであって、決っして知及び認識における欠如から 発展するのではない。不連続性の観念を私達は、科学の発展に関する「中断的」見解と呼んで、差し支えないだろう。

人間諸科学に与えられた役割は 端的にいって、人間にとっての人間の意味を吟味することである。(フ全)

芸術は 単に、人生の闇や輝き、人生の神秘を表現するだけのものではなく、人間と宇宙の進化に貢献するという使命を帯びています、宇宙神殿舞踊たるオイリュトミーは まさしく、新しい人間創造の為の芸術なのです。()

芸術作品を造形して行くに際しては 言葉の響き、文章構造、詩形、並びに、精神的内実を分析し、更に 新しく創造されるべきフォルムによって、霊的な統一を性を再び目に見えるようにするという課題を持っているのです。

感受性を一変させなければならない。科学的合理性を根底から疑い、根本的に新しい健やかさの基準を確立しなければ駄目だ。

無邪気さこそ力、自我の力強さ、そして、全ての時間と物質を包摂する大統一理論を探求している。

     a、心の核心は 生態学的無意識である。

     b、はるか昔の時間史の初期条件まで遡る。

     c、生態学的無意識に内在する

     d、生態学的自我の創出。

     e、地球の責任を織り上げる。

     f、「男性的」性向の痕跡を洗いなおす事。

     g、工業的なるものを 超越すること、敵対ではない。

     h、地球の福祉と個人の福祉には 相乗効果をもつ。     ()

原子核と高エネルギー現象を通じて、素粒子に働く、新しい力を見出す事である。()

新たな全体の掘り起こしや全体と部分との新しい関係の発見が、次々とさかんに行なわれてきている。()

創造的表現は 主体の間を流通し、<沈殿>して文化のゲシュタルト.チエンジをもたらし、新たな<制度>を創設するのである。 既成の構造に埋もれずに、それにも基つきながらも、それを乗り越えて新たな上位の構造を創り出す能力こそ、人間行動に決定的な水準である。()

専門家になれる素質があるか見極める為の尺度に 独創性、新奇性、独自性が挙げられた。()

「表象の力を逃れ、表象の力を解体する新しい力と結びつかなくてはならない。この芸術そのものの新しい見方、新しい入門なのである。(

生命、労働、言語の力である」(つ138

「言葉は 芸術をおいて、あり得ない経験は 芸術によって浄化され、浄化された経験は 人間に生きることの喜びを感ぜしめるというべきであろう」

「必要なのは 芸術そのものの新しい見方 新しい人間なのである」

 歴史は 自ら歴史と共に発展するものであり、あらゆる物の見方に描きなおす事、この世界を描きなおす事、これは画家にとって、実に、巨大な、新たな課題となったのである

 画家の立っている場所 (彼の視線の出発点) も一緒に描き込まれているのである。それによって、絵画空間の隔たりが明瞭に成っている 空間表現の「形式」に対する関心が、ここでは 重要な役割を演じている。(芸空

<信は知の自覚>である。信は 知を超越し、大いなる物に触れながら、知の営みを続ける。こうして、真によって転換された知は もとの知でありながら、まったく、意味の転換を生じていると言う点で、それは 新たな世界の開けであり、創造であるとも言えるであろう。

 タイムトラベルが 物理的に可能である為には 多宇宙が存在する事が必要なのだ。 過去への通路が存在する事が 物理的に可能であるかどうか、と言う問題である。知識は はじめから、完成された形で存在しているのではない。それは 常に 問題と共に始まり、暫定的な新理論批判、そして、誤謬の除去を伴いながら、新しい より望ましい問題―状況に向って進むステップ、バイ、ステップの想像的な過程、つまり、進化的な過程の結果として存在する。我々の誰もが生活の中で、或いは 何か価値のある事を創造する際に出会う、大小のあらゆる問題を解くのも、このやり方である。新種の生き物が生まれてくるのも、このやり方でだ。知識は 人間の意図的な活動によって創造され、生物的適応は 盲目的な心の無いメカニズムによって、創り出される。我々は 理論の集まりを通して、世界を観測し、理解し、それが、パラダイムを構成している。

ランダムな変異を伴う集団に、自然淘汰を通じて作用する進化こそが、「種の起源」であり、生物的適用一般の起源である事を、誰も真剣に疑わないという意味で そうである。

目的を持ったように見える設計は 実在の中に最初から組みこまれていたのではなく、物理法則の働きの創発的な帰結である。

哲学者デイヴイツド、ルイスは その著書「世界の多数性について」の中で、哲学的な推論だけに基づいて、多宇宙の存在を前提している。

ポパーは「知識の理論は 事物を説明する我々の試みが なぜ、成功するのかを説明しようとしてはならない。ポパー自身が強調したように、進化論を含まなければならないのだ。実在の織物の統一された理論を真剣に受けとめ、其れをさらに発展させようとしはじめれば、競争相手に不足することはないだろう。いまこそ 進むべき時なのだ。(世界)

表象的世界が 構成されうるために、二つの新しい活動領域が勝ち取らねばならない。それは 直接的実際的世界の時間と空間における延長、すなわち、遠い空間と過ぎた時間を勝ち取る。(表色)



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