A.人生を育む為に

自我の無と論理的追求

もはや意欲せず、評価せず、創造しない。ああいう大きい倦怠が いつまでも 私に近づいて来ないように!」(ニーチェ)

 今こそ人間が、自らの目標を立てるべきである。人間が自らの最高の希望の萌芽を植え付けるべき時である。まだ、いまだ人間の土壌は その植え付けをなしうるほどに 豊かである。しかし、土壌は やがて痩せ、軟弱になるだろう。そして、そこからは もう1っ本の大樹も生き出ることは 無くなるだろう。悲しいかな やがて、その時が来るだろう。人間がもはや、彼の憧れの矢を人減を超えて 射放つ事が無く、己の弓の弦を鳴り響かせることをも、忘れる時が来る。

 超人と猿との間に、張られた綱渡りである。いま、君は 君の職によって滅びてゆくのだ。君の為に、わたしは 君を私の手で、葬ろう。死んでゆく人には もう、答えが無かった。見よ、これらの善いもの正しいものを 彼らが最も憎むのは だれか、彼らの価値の表の板を砕くものである。「破壊者、犯罪者である」だが、それこそが、創造ことなのだ。

 「自分の人生。を育む為に」 子供や学生の時に 聞くことがなかった この事について自覚するやら 学ぶべきであったと反省をしております 人を育むと言う事は わが子を育てる時、考えざるを得ませんでした。言葉としては よく聞くことでもあります。 私としては 他者に対しての事として意識する程度でしか知識が無かったのです。 知識や学問を学ぶことを「頑張らなくちゃあ」と言いながら、 よーし、頑張ろうと 自らに強いたり、進んで探求したりして来たのですが、しかし、自分自身を己の内に 第三者的立場を持って 自らを「育む」と言った考えを持つとの認識がなかったことを いまさらながら後悔し、残念に思へて成りません。 もし、自身を育む為の心構えを意識した考えを持っていたとすれば 今よりも違った より深い人生を経験するに至ったのではないかと思うのですが‐。今更、悔いてもしょうがない事だと思いますが、遅れ馳せながら その方法を学び 探求しようと心得ているのです。

誇りとは 教養である。(ニーチェ)

 “変わらないこと”と“変わること”という 相反する対極概念、あるいは現象を同一のレベルにおいて、一つの“出来事”としてとらえている。生まれ死ぬる人、いず方より来りて いず方へか 去る。自分がどこから来て、何処へ行くのでしょう、自分は 自分を見ることなどできないということ。人々との相互作用をとおして、他との関連性のなかでとらえて行くより外に方法は 無さそうです。(宇宙)

永劫回帰というか 無の永遠たる。(ニーチェ)

君は 君自身を君自身の炎で焼こうと思わざるを得ないだろう。一旦灰になることが無くて、どうして 新しく、甦ることが 望めよう。

抒情的天才は 自己放棄と融合帰一という神秘な状態の中から 一つの形象世界、一つの比喩世界が徐々に生まれ出てくるのを感ずる。これは 彫塑家や叙事詩の世界とは まったく異なった彩色、因果律、速度をそなえたと言ってよい。(ニーチェ)

「無我無心によって、自己を放棄する」ことから 始めなければならないと言う事が必要のようです。それは どう言うことなのかを考えなくては成りません。まず一旦、自己知識をさておいて、他人の言う事や、より普遍的理論を探求する事から始まる事だと思います。それから学んだ 新たな理論は 「目的による統御」と「価値による統御」に対して、より高度な進歩のため、それまでの「さておいての知識と比較検討して、いままでの知識より濃密なものとして 或いは 新しい知識として、倫理的で、普遍的価値あるものを求めようとするものであると言うことなのでしょう。

そのような姿勢や行動の積み重ねは 自分探しの旅でもあり、人生の探求でもありました。又、人生の意味を発見する事にもつながり それが出来れば 最も幸福なことであると思われます。

それには 前方を見つめて、後を振りかえらず、過去から身を解き放つ事が重要であるようです。又、何が価値あるものかと言う問いを 解こうと試みなければならないのです。

 すべての神々は 死んだいまや、われわれは 超人が栄えんことを欲する。(ニーチェ)

それは「新しいエートスを求めて」と言う時のエートスにつながるものでもありましよう。そのエートスとは「歴史に係わりを持つような能動的な精神の態度」と言う意味となる
とのことです

 フランク博士によれば、「私は 人生にまだ何を期待できるか」と問わないで「人生は 私に何を期待しているか」と問わねばなりません。私達は 生きる意味を問うてはならない、人生が私達に問いを出しているからである。私達は問われている存在者、答えなければならない存在者である。 人生が出す問いは 具体的である。「ここ」と「いま」

a.何かを行なう事
活動したり、創造したりすることによって、自分の仕事を実現する事は 人生を意味あるもとする。

b.何かを体験する事

自然や芸術や人間を愛し、それに、身をささげる事により、困難に対して、どのよ
うな態度をとるかということのうちに、
その人 本来のものが現れ また、意味のある人生が実現される。運命を巳のものとして引き受け、人間性の輝きを発揚すれば、世界に意味のある事を証しとすることになるでしょう。

眼を見開き「何物かが,宇宙にあるに違いない、何物かが人生にあるに違いない」と、問い求めて行く、容易ならざる命の一瞬一瞬を手放さない時、私達は 何時の日か この自分自身に この動き行く自分に追いつき、そして追いぬき、最も新しい人間像としての自分に巡り会うことであるということです。

無とは 真っ裸のもの、裸々堂々と、全ての飾りを脱ぎ去ることである

東洋では 私の滅却を 無我無心になりきることを求める。滅我と、帰依とは、表裏一体だと言うことです。自己に固執すれば 自己を喪失し、自己を放棄する時に始めて、自己を完成へ導く事が出きる。

完全な自己否定を力説する仏教、それが、無我無心、涅槃の宗教であることは 多言を要しまい。キリストも「自分の命を自分のものとした者は それを失い、私の為に自分の命を失ったものは それを 自分のものとします」

「小我に死んで、大我に生きることである」。心身的生命から、精神的生命への、人間の自己超越現象の呼称にほかならない。(岩生)

認識の「進歩」とは 既に与えられた知が、その範囲、充実、確かさの点で、高まって行く事であるが、このことが行なわれるのは 存在者の動かざる理念を、踏まえているからである。これらの考え方から、現考学という立場で出発して、過去の歴史観とその分析によって 「目的による統御」を完遂する為の理論の構築をする。 その為の資料の収集に努めなくては成らない。自分自身の目的による統御は 『世界の芸術新様式理論の発見』の為のみである。それが、「新しき芸術様式の誕生」となることでしょう。(ニーチェ)

それは ピカソやカンデンスキー、シャガールなどの巨匠達の、絵画の分析と様式をあらわにして その作品に不足している理論を学び、表現することから、始めなければならない。彼らに不足している理論とは 存在するだろうか 

まずは 様式の歴史の研究と探求に尽力しなければならないだろう。

ピカソが死して(1973)約20数年、92歳で没する。私が 33歳の時である。私は 仮定する。もしピカソが、芸術学や哲学的研究を60歳位まで、おこなっていたとしても、約50年の長期に渡る空白の期間が生ずる。その間、学問の新しい考え方や理論の発見があったとしても不思議ではない。そうだとすれば理論だけでもピカソを超えることが出来る可能性があると考えたのです。

しかし、理論が発見されたとしても、他の人によって その理論が応用された作品が制作されているかもしれない。又いくら探求しても、新しい理論が発見されず無駄になるかも知れない。そんな不安を抱きながら暫定的に作品の目的、指針を設計し、芸術学から芸術表現様式の研究、そして絵画制作へと挑戦に至ったのです。

パンにただでありつくようになったら、気の毒である。その時 彼らは何を求めて、呼べばよいか、彼らは生計に苦労するべきである(ニーチェ)

知識のハングリー精神は お手のものと言えるほど、知識が不足しており、何も、持ち合わせていないので、自身を放棄する。すなわち、滅却と無我、無心に成る事は それほど難しい事ではありませんでした。理論的追求が出来ると言う事は より普遍的価値の考え方に近づける事が出来ると言う事であると 思えたからです。




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