12.美術雑誌掲載


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①  美術画報  現代作家 美の競演


 秀鋭作家として作品掲載

<行為と精神 時間の構造>戯画性豊かに描く哲学的主題 評論家  秋吉和夫<

「祭り太鼓」は 太鼓を叩く

人の男と、それをのぞきこむ男なのだが、良く見ると このフエルナンレジェ風の描写の

1つの肉体は 極めて奇妙な関係にある

太鼓を叩く二人の男は 融合し、二人は 黒い紐で結ばれている

のぞきこむ男の身体も太鼓を叩く男と 融合してしまっている様だ

太鼓を叩いている手はどちらの男か分からない。

これは 3人の男ではなく、1人の男なのではないか。

太鼓を叩いては 反対側に回って叩き、また戻ってその音を聞く、つまり、継時描写の一瞬化とでも言うべきか。

太鼓の響きは ピンクの波動となって遠くの上りの上に立つ神社へ到着する。

その上には 太陽が輝き、画面左手は 夜で月の満ち欠けや輝く星がある。

「写生」でも写生する男は、筆を持つ男、パレットを持つ男、考える男に分裂されている。

ここでも左側は夜で、半分闇の中からコンピュターが 笑う様に 男を見つめている。

この戯曲性の強い

作品に共通するのは 行為と精神の対立矛盾、時間の構造と言った哲学的主題である。



② 芸術クラブー32号 新様式を求めてー新たな芸術様式の地平を拓く


島田勇は 新時代芸術の先駆者の1人である   評論家  篠原誠司

時間や空間は 無限のものなのだろうか。また、私達がいるこの世界や私達自身は 本当に実体をもって存在しているのだろうか。

自分が認識したものは 実在すると言う考え方を示した、

デカルトの「我思う故に我あり」と言う言葉に集約される近代思想は 人間の存在についてのこうした疑問のこたえとして生まれたものである。

そして、その思想を受け継いだ近代芸術は、たとえば風景を写実した絵を通して


、実際には 見た事の無い風景を知るなど視覚と想像の作用に支えられた認識のシステムを作り上げてきた。

しかし、想像や意識が作り出す世界は、果たして本当に実体を持った存在なのだろうかと言う新たな問いは、自分が実際に触れ、感じたものの中から世界を知ろうとする、

人間の知覚や身体性をより重視したフーコーやメルロ=ポンテイらによる哲学を出現させたのである

彼らの思想を受け継ぎながらさらに、その先へと進もうとする中から生まれた島田 勇さんの作品は デカルトらによる近代思想に裏打ちされた芸術が、

いまだ 多く見られる現在にあって、新たな芸術の方向を指し示している。

人の身体とその周囲の空間とが交錯する様を一貫して描いた画面は 私達が自身を包み込む時空に触れ、

知覚する事で想起させられる様々な思考を代弁している。

また、作品それぞれにつけられた題名も、その本質をより明確に知らしめる役割を果たしている。彼は 新時代の芸術の先駆者の一人である。   

評論家。篠原誠司



 芸術クラブー36号 取っておきのアーチスト

あるーつの回答への試み

画面の内側だけで問題意識への回答を試み様としている 極めて思索的と感ずる。

 フランス芸術学者、評論家 シャルル フエロウ

画面の内側だけで問題意識への回答を試み様としている 極めて思索的と感ずる。 我々は日常の至るところで

”アート”に出会っていると言える。それは ポスターや雑誌のイラストレーションであったりする。

しかし、それらとギャラリーや美術館にあるアートを分ける境界線は 何か?

こうした二極分化に無関心のものは 幸福だが問題意識に目覚めたものは どうすればいいのか

”描く行為に対する方法論”を提示し、作品と鑑賞者の間に批評的なフィルターを置く事を試みる。

往々に見うけられるのは カンバスの外で奇をてらった方法だが、画面に着目すると、その“対象物”は 対立しているのではなく

循環的、相互補完的なあり方に思われ、主従の関係では 説明できない不思議な関係を、今、私は 感じる。

認識することで意識される枠組の生み出す断絶と拘束は たやすくは 超えられない。

だが、ここでは 描く主体と描かれる主体との複雑でデリケートな状態が示唆される。すなわち、極めて”思索的”と感ずる事を私に許してほしい

(評論家。シャルル=フエロー)


BIEN びあん4号

独自のアンテナを持つ 魅力的な個人主義者たち ―試みの地平―


多宇宙―団欒

多宇宙―交錯

試みの地平

「―文化的パラノイヤの主要な源泉の1つは 人々がそうと信じている事柄と実際に行っている行動との間に永遠の裂け目が

存在していることである。

さらに言えば、そうした人々には 暗黙の了解があって、理想と現実の実践との間に矛盾が存在することこそ、

当たり前の状態だと考えてしまうことなのである」

ライオネル.ルビノフの言葉だ。以前にこの作家の作品を拝見した時に、私は こうした問題意識に“覚”を目指し、

ある一つの回答への試み“を行う”者と捉えた

そして今、新たな作品群に接する事を味わうのは 非常な安堵と作家を取り巻く環境への“大いなる”失望だ。

: つまり、それは 感情移入衝動が人間と外界の現象との間の幸福な汎神論的神話関係を条件としているのに反して、

抽象衝動は 下界の現象によって惹起される人間の大きな不安から生まれた結果であるのに‐ということだろうか。

私には 絶対実在を求めつつ“意識”の位置に身を置くことによって 初めて、

位相と人倫の歴史との重なり合う姿も内在的に把握しうると思えるのですが、だけど。

いや、簡単にいえば、作家の意識と画面の内側の“おぼろげなるテーゼは、

前作に比して飛躍的に大きな”合目的性“を受け入れる器を備え出したと感じている

。私が 憂うのは、それにも 係わらず、その結果として鑑賞者が表象化”裂け目“を枠組みと誤認してしまう

危険性が増加する周囲環境のあまりな遅滞なのだ

。それゆえ、あえて”大いなる“と表現させてもらった。この作家が命がけで”思索“し試みるものに対して、

我々のような立場にいるものが 同じものを懸けて”言葉“にするのは当然の礼儀だと心得る

だが、たとえば「多宇宙―団欒」と「多宇宙交錯」を同時に視認した鑑賞者に、それが果して可能か。そこに

まさに ボードレールいうところの悲しみではない

「多宇宙―団欒」に着目すると一種の反省作用のうちで 共存する分肢、“併合”を思うけど―確かに“目の前に羊毛をかざす”姿勢では 

考察すら、ままならないでしょうね。

詩人ノバーリスが「断章」の中で「すべての見えるものは 見えないものに、聞こえるものは 聞こえない者に

感じられるものは 感じられないものに 付着しているのだろう」と述べたように。

「前半はともかく」、後半の意見に対しては同意しよう。

だが、前に 対しては、それも 裂け目の一種ではないかと考察する。

「時熟―翁」に着目してほしい。この対象物の在り方は、スーラージュの言葉を借り、れば 賦与されるさまざまの意が かたち造られ、

消滅している。だからこそ、導き出されるのは 主観性の粉砕と非人称眼差しによって、示唆される、“断絶と拘束”へ の一つの回答だと、私は感じている。

ただ、そこでは―ある一定 レベル以上の話だが 様々な“思索”の集約上のパロメーターが移相している状況がある。だが

では、たとえ年代の場が面中の“青”という色彩を取り上げれば、それは“

ネプチーンということなのよね。

 私は 「転移の総合―ドライブ」ではまさに「”時間 中井正一著書「現代における美の諸性格」基付き 解体された存在、

自我の様相の溶解、躍進的不断の持続といったものを印象付けられる。

“流動”と“不安”という、それらを包括する流れにおいては「時熟―驚愕」も、大きな位置を占めているのではないか。

総じてー勝手なことをいうことを許してもらえればー彼の「サイクル」は 極めて俊敏であり、予想以上の力学値を示してくれた。

その“思索“と”姿勢“をとるがゆえに、あえて言うならば 他我の認識“と自己移入”―事実、彼が、

へとへとになるまで格闘したと思われるが―との闘いに於ける形相的還元の “示唆”を望むものである。

それは、更なる高次を 私たちに示してくれるだろう

シャルル フエロウ


島田からの質問への回答

.非常な安堵と作家を取り巻く環境への“大いなる

以前に島田氏の作品を拝見した

氏は "思索“者としての島田氏が 変わらぬ姿勢を保ち、たゆまず、

さらにその先へと試みを続けていることを 作品から感じ取れることに安堵していた。

そして、そうした真摯な作家を国の財産として 支援しない日本という国や、ルビノフがしてきするところの

、短絡的な解釈にも 右往左往してしまう一般鑑賞者の意識を歯がゆく思い、高まり続ける作家のレベルとの格差が、

このままでは 広がるばかりではないかと思わざるを得ない事に 失望を感じていたのである。

抽象衝動は~結果であるのに「このスメナグのやや独断的な言葉は 1950年代の心理学の論評であり、我々の見解ではない。

氏の先の言葉に対して、「それはこうした考え方を前提とした言葉なのか?」という意味で、この言葉を引用して尋ねているのである。

そこには否定的な感情が見えるのであるし、その後に「そうではないのではないか」という論旨で、自らの見解を述べているのであるし、

実際にも氏の見解はそういったことではなく、後に氏の誤解をとくべく文中で言い直している。


周囲環境のあまりな、遅滞


1で述べている対象を受けたことば、「日本という国の状況を鑑みるに、そうした流れを変える決定的処方は

 まだ発見されていないと思わざるを得ず、

そうした巨大な負の潮流の拡大に対して、敢えて“大いなる”という正の言葉で 皮肉な表現を行っている。意味するところ、

また作品に対する認識は 島田氏の解釈の通りである」


当然の 礼儀


「我々の立場にあるものの意識としては、全く島田氏の解釈の通りである。

だが、ここでは 我々の立場にいないもの=一般に於ける一般的な意味での姿勢意識ではない事について“礼儀”という言葉を使用した。

1つの姿勢に対して、真摯に向き合い 心を作用させることが“礼”といい“義”という日本語であると認識しているのだが

言葉の認識違いということであれば 深く、お詫びしたいと思う。


月の悲しみ

という言葉から、同名のボードレールの詩編からその一節を掃気している。

月の悲しみとは「聖なる詩人」の姿を月になおざえ、描いているが 孤高の“思索”者たる姿を作家とオーバーラップさせ、敢えて 詩的な表現をした


状況があるのだが

状況”という言葉は 島田氏の作品 世界の中の“状況”という意味である。

“断絶と拘束”への回答を試み続けている作家にあって、

表現の異なる“思索”の集約が 様様に開いているものと私は 認識している「さもなければ、

これだけの作品群がそれぞれの輝きを持っていると私は感じた」。

よって、聞いている瞬間の様相は 複合的な因子によって多彩なパラメーターを示すのではないか。

当然ながら その移相は レベルとは無関係である。そのことを、ルビノフの言葉を借りて述べたような日本国状況にある。

一般読者に誤解されないよう、改めて確認したつもりである」。


他我の認識“と”自己移入

{格闘したと思われる}と述べているように、“他我の認識”と“自己移入”との作家の戦いは、明らかに作品中に感じていると述べている。

それを認識するがゆえに、以前「芸術クラブ」に見解を述べた際に、“境界”について、述べたつもりである。

それはフッサールが「デカルト的省察」以後、格闘した問題に通ずる所と考え

今回の作品群に、それに対する一つの回答がすでに作家のまなざしに見出されていたと感じたからこそ、その“還元”をさらに拝見したい、

“示唆”した頂きたいと述べたのである。

私の作品に対して 御評論下さいまして 誠に有難う御座います

―作品から 絵画の芸術性に対する問題点とその本質的指針を御察し下さいましたことは 私の総意であり

それこそ 目指そうとしているものであり 評論の全てに感謝申し上げたいと思います。

フランスが生んだ哲学者、サルトル、メルロポンテイ。およびドイツのハイデッカー。

フーコーの理論は 人間や社会の問題点を 根源にさかのぼって問い直すことの重要性と方法論を教えて下さいました。

人間と芸術を考える時 フランス哲学をなおざりにすることは出来ません
 
これからも社会と学問の変遷と同時に 人間に役立つ芸術作品の追求に専念することに対する意を強くしております

フランスの哲学者達の理論が 絵画作品として表現され その人達の苦労に答えることが出来ればと思いますしかし

、まだまだ未熟な為、哲学者の先生方には失礼となるかも知れませんが 新しい芸術様式の誕生の為奮闘して参ります。

そこで 良きアドバイザーとして 御指導頂ければ幸いと思います

シヤルル‐フエロー様の御健康と 芸術界発展の為の 御活躍を お祈りしています。

                                                           敬具
-才能無く哲学理論と概念論に頼る男― 
住所 神奈川県綾瀬市小園南1-16-8 1島田 勇

フランスーブリジット ソーサックさんの採点表
1998.12.18」

島田 勇の絵は 全体として8点を与える。

色彩感応力 7点

広義のメッセージ性、純粋な動も含まれる。 
8点
全体としての完成度 7.5点

*過去最高点は 8.5である。書き入れないほうが多いとのことです。

0.5の不足分は色彩であると指摘されました。

自分勝手な色彩選びから、色彩の組み合わせを研究しております。

主に、ゲーテの色彩の組み合わせと補色の使用方法の研究です。

以後、バトルソンの見栄を求めて奮闘しております





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