≪メッセージの要旨≫  2020年   4月 5日   主の受難主日     


        
聖書 : イザヤ書    50章  4〜9a節
             フィリピの信徒への手紙  2章  5〜11節
             マタイによる福音書    27章 11〜54節

        
説教 :  『 イエス、十字架に!! 』   木下 海龍 牧師 


 富士教会の兄弟姉妹と共に「受難主日」の礼拝に預かることを願っておりましたが、
コロナウイルスの感染の猛威に対処する一つの重要な選択肢として
4月の会堂内での礼拝は行われないことになりました。
極めて残念な選択ではありますが、お互いの命を守る観点からの苦渋の選択であったと言えましょう。

 はるか遠くに思いをはせれば
人類の一種として地球上に生き残ってきたホモサピエンス200万年の歴史の中でも
最も危機的な種の生存を脅かす脅威を感じております。今回の新型コロナウイルスの世界的規模の
脅威に当面して殊更に脅威を感じる理由を挙げれて見ましょう。

@ 極短期間にこれが世界中に蔓延したことです。
  同じ人類の一種である「ネアンデルタール人」は約三万年前に絶滅したと言われております。
  ホモサピエンスが新しい土地に到着するたびに先住の人種はたちまちに滅び去った。
  とユヴァル・ノア・ハラルはその著書で述べています。
  しかもその原因は「史上初の最も凄まじい民族浄化作戦が行われた可能性が十分ある」と。
  「サピエンス全史」上p32。

A 私が思うにはその説とは違って、両種の出会いによる闘いはあっただろうけれども、
  ネアンデルタール人の滅亡は単に戦いによるゼノサイドによるものではなくて、
  ホモサピエンスには無害ではあったが免疫力が全く無いネアンデルタール人にとっては、
  自覚無しにウイルス菌Xを保持していたホモサピエンス人と 接触と侵入による感染によって滅亡したのではないか、と。

B こうした考えが浮かぶのも、新型コロナウイルスの蔓延の速さは
  今の人間の世界移動手段が過ってない速さと世界的な広域にわたる状況などを見るにつけ、
  コロナウイルスの蔓延の範囲が、ホモサピエンス人の移動し定住した場所と
  ぴったりと重なっていることにある種の因果関係がありそうに思います。
  4月2日現在、世界的に
  コロナ新型ウイルスのクラスター発生による感染者数の増加と死者の数字が飛躍的に膨らんでいると報じられております。
  医学的対応値などから推察すれば4月5日にはおそらく100万人を超えていることでしょう。
  おそらく日本においても非常事態宣言が4月以降には出されるのではないでしょうか。

C ホモサピエンス人はこれまでの歴史の中で、
  ペスト菌、炭疽菌、コレラ菌、サーズ菌、マーズ菌、結核菌への治療薬を発見して難局を乗り越えてきたように、
  今回もこの菌への治療薬が発見され、製造されることでしょう。
  しかしそれまでの時間経過の中で多くの人の犠牲は避けられないでありましょう。

 さて、今日の主日は、「受難主日」です。
イエス様が十字架刑に処せられた金曜日を控えて、主イエス・キリストの十字架の死を思い起こす日曜日です。
イエスの十字架の死を思い起こすとは、限りない不条理に当面することなのです。
「こんなことがあってはならない!!」 しかし 「人間の手によって起こしてしまったのだ!!」 と

T:弟子の裏切りがあり、他の弟子もイエスを裏切って、逃亡したのだ!

U:最後の拠り所である裁判による正義の裁定も、
  自己保身と日和見主義によってイエスを十字架刑へと判決を出したではないか!

V:民衆が模範にし、正しい道を教え示してくれるはずの民の指導者である祭司長、律法学者も
  イエスを死に追いやることに積極的に扇動したではないか!!

W:ホサナ・ホサナとイエスを迎えた群衆が蜂起してでもイエスを擁護するのではないか。
  しかしその群衆はバラバの釈放を叫び、イエスを「十字架につけよ!!」と叫んだではないか。

 最後のところで人間の忠誠心や正義感や民の力とかが当てにならないとしたら、
今の我々は何を拠り所にすれば前向きに生きて行けるのでしょうか。

 先週はラザロの死とイエスによる復活が語られておりました。(ヨハネ11:1−45)
11:25 イエスは言われた。「わたしを信じる者は、死んでも生きる。」と。
人は生物体の一つとして個体によって寿命の長い短いはあるにしても必ず死を迎えるものです。
美しい死や悲しい死はあるでしょうが、人の死は自明の事であり誰もが通過するのです。
こうした人間の状況を踏まえて、「信じる者は、死んでも生きる」 との、
この言葉には字義的な理解をはるかに超えて語られているのだと思います。
歴史的に見ても、現実的にも信じる者も肉体上、一度は死を迎えるのです。
それを知りつつ、「死んでも生きる」とイエスは語ったのです! 
一般社会通念的な思考でもって「死んでも生きる」と言っているわけではありません。
生物としての人間は一度は死に当面するものではありますが、それがその人総体の死に終わらないのです。
肉体はいずれ終わりを迎えるのだけれども、人間全体としての総体は神に在って生きているのだ、と。
イエスは息を引き取る直前に「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」と叫ばれた。
命の最後の最後で自分の総体を託してゆける信頼を「わたしを信じる者」と言っているのです。
自分の生と死を司る神の慈愛の手にゆだねる信頼は裏切られない。
その確信がここにはあります。

肉体を持ってこの世界に生きる命はかけがえのないものであるゆえに、
その命が死ぬことは寂寥ではあるが、その人の生を空虚にしない。
神の手にゆだねて生きる命の領域を明らかに示しているのです。
その領域は神と人とが共に信じあう領域であります。
いわゆる異なる次元がイエスによってシンクロニシティする領域だと言えましょう。
肉体を持ってこの世に生きている時間帯に於いて既に
 「 生きているのは、もはやわたしではありません。
    キリストがわたしの内に生きておられるのです。
    わたしが今、肉において生きているのは、
    わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。
」ガラテヤ2:20
キリストの私への「真実」によって私の中に神の子への「信仰」を形成してくださったのです。
この「信仰」によって私たちは「死んでも生きるのです」。これがキリストの神秘です。
この世界の理屈や理解を超えて約束されております。

 これが出来事として我が身に起こる場は、どこで起きるのでしょうか。
それが起こるのが十字架なのです。
十字架に目を注ぐときに、その向こうに「神」を見るのです。
仮に「神」を見ないのであれば、悲惨で可哀そうな事件を見ているにすぎません。
眺めている十字架の場面には「神」は見える形では登場されてはおりません。
それにもかかわらず、
「何故十字架の出来事が起こったのか」と心が問う時に、初めて十字架の背後に「神」が見えてまいります。
するとイエスの死は父なる「神」の御心に従った聴従の道であったことが了解されて、
時を超えてイエスの十字架の死は「我が罪のためなり」と告白するほかには、自分の良心が満足しないのです。 

十字架の向こうに「神」を見るには、
 「イエスの十字架は、 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
    独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
    神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。

と信じている人が身近にいれば見えるはずです。          

憐れみ給え、主よ。アーメン。

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