≪メッセージの要旨≫ 2015年 6月 14日 聖霊降臨後第3主日
一日神学校礼拝
聖書 : ホセヤ書書 2章 16〜22節
フィリピの信徒への手紙 3章 12節
マルコによる福音書 2章 18〜22節
説教 : 『「おめでとう」で始まり、「ありがとう」で終わる人生』
説教 : 市川 一宏 牧師
13:00〜14:40 一日神学校講演会 ルーテル学院大学前学長
『 これからの高齢者福祉 〜老いをともに生きる〜 』 市川 一宏 教授
(試聴できます)
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聖書 : マルコによる福音書 2章 18〜22節 より、明比牧師のメッセージ
説教 : 『 新しいぶどう酒は、新しい革袋に 』
本日は「一日神学校」日礼拝です。
ルーテル学院大学前学長の市川一宏教授をお迎えでき、感謝です。
ルーテル学院大学は、日本ルーテル神学校が母体であり、
後に日本ルーテル神学大学となり、現在のルーテル学院大学へと改組されてきました。
市川先生は、学長として長く貢献してくださり、現在も教授としてお働きくださっています。
今日は、主日礼拝での説教、『「おめでとう」で始まり、「ありがとう」で終わる人生』、
午後の講演、『これからの高齢者福祉〜老いをともに生きる〜』をお話しくださいますので、
お聴きするのが楽しみです。
今日は、聖霊降臨後第3主日であり、福音書日課はマルコによる福音書2章18〜22節です。
イエスさまが30歳をすぎて、宣教と奉仕(癒し)の働きをされた当時、
ユダヤ人社会は、ローマ帝国の直轄統治領となっていました。
ローマ皇帝が派遣する総督が、強大な軍事力によってユダヤを支配していました。
宗教的には、伝統的なユダヤ教社会であり、
反ローマの立場を明確にしているファリサイ派と、親ローマ的立場のサドカイ派の、二大勢力がありました。
聖書には登場しませんが、両派に属さないエッセネ派があったことも知られています。
この三教派の特徴は、次の通りです。
<ファリサイ派> ユダヤ教信仰、特に律法を厳しく守るため、律法を知らない人々から 自らを分離した(パルーシーム)ので、「ファリサイ」と呼ばれた。 10分の1税、割礼、食物規程など、浄・不浄についての祭儀律法、 安息日律法を救いの条件と考えた。律法だけでなく口伝の教えも重視した。 <サドカイ派> B.C.2世紀から、A.D.1世紀まで活躍したユダヤ教の一グループ・ファリサイ派と違って、 律法の中から「モーセ五書」だけに信仰の土台を限り、死後の生命(復活)や 天使の存在を受け入れなかった。 サドカイ派は、 エルサレム神殿を中心に活動する祭司、貴族階級に影響力をもっていた。 A.D.70年のエルサレム陥落後に、サドカイ派は消滅したと考えられている。 <エッセネ派> A.D.1世紀のユダヤ人哲学者ヨセフスの著作から、その存在が明らかである。 このグループは、私有財産を否定し、共同生活をしていた。 結婚をせず、独身主義を原則とした。 律法の研究に熱心で、安息日、水による清めの儀式を重んじた。 万事を神の手に委ね、神を畏れ敬い、人々に対しては平和主義的姿勢を保った。 死海のほとりで発見された「死海文書」の担い手クムラン教団も エッセネ派に属すると言われている。 |
マルコによる福音書2章18節以下には、4つのグループが登場します。
(1) ファリサイ派の人々 = イエスさまの言動を厳しく見ており、イエスさまと弟子たちを非難していました。 (2) ヨハネの弟子たち = 洗礼者ヨハネを指導者として、ヨハネに従っていた人々。 ヨハネは、ヘロデ・アンティパス王によって殺されました。 (3) イエスとその弟子たち = 12弟子の選びはマルコによる福音書3章13〜19節に記されていますので、 ここではシモンとアンデレ兄弟、ヤコブとヨハネ兄弟、 徴税人レビ(マタイ)の5人です。 (4) ユダヤ人たち = 2章18節で、「人々」と書かれている、一般のユダヤ人 |
ユダヤ人一般の人々が、イエスさまのところへ持ってきた問題は、「断食」に関することでした。
聖書では、神に向かってユダヤ人共同体や個人が、
その姿勢を正し、悔い改める時の象徴として、断食が守られていたことが記されています。
国家的に、エルサレム陥落と神殿の崩壊を覚えて行なわれたり、
個人的には、喪に服しての断食、悲嘆や悔い改めのために断食しました。
「ヨハネの弟子たちもファリサイ派の弟子たちも断食するのに、
イエスの弟子たちは、何故、断食しないのか。」と尋ねられ、イエスさまは言われました。
19節 : 花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。
ここでは、花婿はイエスさまのこと、婚礼の客はイエスさまの弟子たちを意味しています。
20節の「花婿が奪い取られる時」は、イエスさまが逮捕され裁かれ、
十字架にかかって地上の生涯を終えられることを意味します。
22節 : 新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。
21節以下の「新しい布切れと古い服」、「新しいぶどう酒と古い革袋」の比喩は、
日常生活の具体的事実から話されていて、分かりやすい比喩です。
しかし、ここでイエスさまが告げておられる言葉を、
自分自身の人生で生きることは何とむつかしいことでしょうか。
「新しいぶどう酒」であるイエスさまの教え、イエスさまご自身を受け入れるのに、
旧来の古い革袋では不可能です。
ユダヤ教そのものが、救い主イエスさまによって新しくされねばなりませんでした。
同じように、私自身が新しくされねばならないのです。