≪メッセージの要旨≫ 2015年 6月 28日 聖霊降臨後第5主日
聖書 : イザヤ書 58章 11〜14節
コリントの信徒への手紙U 5章 1〜10節
マルコによる福音書 3章 1〜12節
説教 : 『 手を伸ばして 』 説教 : 渡邉 進 牧師
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以下に、
イザヤ書58章11〜14節、マルコによる福音書3章1〜12節から、明比牧師のメッセージを掲載します。
『 安息日は喜びの日 』
東海教区には、4地区21教会があります。
東静地区 = 沼津、 富士、 清水、 小鹿、 静岡(音羽町、ひかり礼拝所) 駿遠地区 = 栄光(島田、藤枝、焼津礼拝堂)、 掛川・菊川(掛川、菊川集会所) 三遠地区 = 浜松、 浜名、 みのり〈豊橋、田原礼拝所〉、 岡崎、 刈谷、 挙母 尾張岐阜地区 = 知多(半田、常滑礼拝所)、 なごや希望(今池、自由ヶ丘、名東礼拝所) 名古屋めくみ、 復活、 高蔵寺、 岐阜、 大垣 |
同一地区には、共通の課題を分ちあい、
神さまから委託された福音・宣教と隣人への奉仕の使命に応えるため、「地区宣教委員会」を組織しています。
東静地区5教会では、4人の牧師(2人の現役、2人の牧会委嘱)が仕えていますが、
年に1回は、地区内の他教会礼拝で奉仕する「説教者交換プログラム」を実施しています。
本日は、沼津と富士の交換ですので、
富士へは渡邉進牧師が来てくださり、私(明比)は、沼津での奉仕に遣わされています。
このメッセージは、沼津教会礼拝での私(明比牧師)の説教を掲載しています。
2015年の教会暦では、6月7日から11月22日までの聖霊降臨後主日に、
福音書の日課として、「マルコへの福音書」を与えられています。
マルコによる福音書2章〜13章を読み進みます。
今朝は、マルコへの福音書3章に入ります。
1〜2章では、イエスさまは、既にガリラヤ湖の漁師をしていたシモンと弟のアンデレ、ヤコブと弟のヨハネの4人、
それに、カファルナウムの徴税人レビ(マタイによる福音書ではマタイ)の合計5人を弟子とされました。
イエスさまの伝道のメッセージの第一声は、
「時は満ち、神の国は近づいた。 悔い改めて、福音を信じなさい。」(マルコによる福音書1章15節)でした。
福音は、
イエスさまが来てくださり、罪の贖いのために十字架につけられ、
尊い命をかけて、私たちを救いに導いてくださり、
死からの復活によって、永遠の命を与えてくださっているという喜びの知らせです。
福音宣教と同時にイエスさまは、病気からの癒しのみわざをされました。
マルコによる福音書の中に記されている癒しは、次の通りです。
1) 汚れた霊につかれたれた男をいやす。(1章21〜27節) 2) シモンのしゅうとめや多くの病人をいやす。(1章29〜34節) 3) 重い皮膚病を患っている人をいやす。(1章40〜45節) 4) 中風の人をいやす。(2章1〜12節) 5) 手の萎えた人をいやす。(3章1〜6節) 6) 悪霊に取りつかれたゲラサ人をいやす。(5章1〜20節) 7) ヤイロの娘の復活と、長血で苦しんでいる女をいやす。(5章21〜43節) 8) ゲネサレトで病人をいやす。(6章53〜56節) 9) シリア・フェニキアの女の娘をいやす。(7章24〜30節) 10) 耳が聞こえず、舌の回らない人をいやす。(7章31〜37節) 11) ベトサイダで盲人をいやす。(8章22〜26節) 12) 汚れた霊に取りつかれた子のいやし。(9章14〜29節) 13) 盲人バルティマイをいやす。(10章46〜52節) |
今日の日課は、先週6月21日の続きであり、「安息日」論争が背後にあります。
場所は、カファルナウムの麦畑からユダヤ教の会堂に移っています。
1章21節に、「イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。」と記されていますので、
3章1節は、「イエスは、また会堂にお入りになった。」と書いています。
パレスチナの町や村なら、どの町、村でも会堂がありました。
安息日の礼拝は、讃美・祝福・祈り・律法と預言者の朗読がなされ、その解説または説教がおこなわれました。
イエスさまは、ユダヤ人として、自由に会堂へ入ることができました。
登場人物は、次の4通りの人々です。
1) イエスさまと弟子5人(シモン、アンデレ、ヤコブ、ヨハネ、レビ) 2) 片手の萎えた人 3)ファリサイ派の人々 4) ヘロデ派の人々 |
2節の「人々」は誰のことか示されていませんが、
「イエスを訴えようと思って、イエスの言動に注目していた。」とありますから、ファリサイ派の人々と考えられます。
ファリサイ派 = ユダヤ教の中で、律法を重んじ、その教えを忠実に実行しようとした人々 サドカイ派 = ユダヤ教の中で、「モーセ五書」だけに権威を認めた。 復活や、天使の存在を認めなかった ヘロデ派 = ファリサイ派、サドカイ派のような党派を意味せず、 ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスに追従していた人々のこと |
安息日は、創世記2章2節
「第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、御自分の仕事を離れ安息なさった」と記されていることに由来します。
出エジプト記20章8〜11節に、「十誡」の中で、
「主の安息であるから、いかなる仕事もしてはならない。」と労働が禁じられています。
マルコによる福音書2章23〜28節では、
イエスさまの弟子たちが麦の穂を取って食したことを、ファリサイ派の人々から律法違反として断罪されました。
今日の場面では、安息日論争に、イエスさまの見事な決着が書かれています。
律法主義に捉われて、規則を見て人を見ないファリサイ派の人々に、
イエスさまは「規則は何のためにあるのか。」と問われています。
「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか、命を救うことか、殺すことか。」
律法的な尺度で手の萎えた人を見るのではなく、
この人が真に求めていることは何なのかを、愛の眼差しで見ることをイエスさまは示しておられます。
安息日は、私たちが癒され、力を与えられる喜びの日です。