≪メッセージの要旨≫  2016年  10月 16日   聖霊降臨後第22主日礼拝


         聖書 : ルカによる福音  18章  1〜 8節

         説教 : 『 諦めずに 』     高塚 郁男 牧師


1.今日のテキスト:「祈りについての教え」

・福音書:「ルカによる福音書」18章1節〜8節
 1)1節に
   「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された」
   とありますから、今日の中心は祈りです。
   イエスは諦めず祈ることを教えています。

 2)祈りは、たとえの中の一人のやもめのように、「ひっきりなしに」(5節)裁判官のところにお願いし行くように、
   断られても断られても「気を落とさず」「諦めず祈る」ことです。

・使徒書:「テモテの手紙二 3章14節〜4章5節
 1)いくつか良く知られた聖句が書かれています。
     @ キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵(3章15節)、
     A 聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です(3章16節)、
     B 御言葉を宣べ伝えなさい。 折が良くても悪くても励みなさい。(4章2節)
   言葉にも、福音書の「気を落とさず絶えず祈りなさい」と相通じる教えが含まれています。

・旧約聖書:創世記32章23節〜31節(ペヌエルでの格闘)
 1)ヤコブが何者かと格闘したとき、ヤコブが夜明けまで戦い続けたので、何者かは「夜が明けてしまうから」と戦いを止めようと提案します。
   しかし、ヤコブは「いいえ、祝福して下さるまでは」(32章27節)と執拗に戦い続けます。
   ここにも、いつまでも絶えず祈ることの執拗さが描かれています。

 2)ヤコブの執拗な格闘の故に、彼は「ヤコブ」という名前から「イスラエル」と名前に変えられます。
   今のイスラエルという国名になった大切な箇所です。


2.説教:「気を落とさずに」

 1)信仰は「気を落とさない」ことです。
   諦めないことです。
   たとえ人が自分を見放しても、神は自分を見放さない。
   神はこんな自分でも大切にして下さる。
   私をいつくしんで下さることを知ることが信仰です。
   神は、人が私を見放し、たとえ私が一人になってもいつくしんで下さる、愛して下さる方です。
   それをしっかりと知ることが信仰です。

 2)その信仰を知るには、正直言って、そう簡単ではありません。
   ですから、イエスは執拗に、諦めないで、絶えず祈りなさいと教えます。
   同時に今日のテモテの手紙でパウロがテモテに
   「御言葉を宣べ伝えなさい。 折が良くても悪くても励みなさい」(4章2節)と命じるように、
   テモテのような誰か御言葉を伝えてくれる人の指導が必要です。
   牧師がその指導に当たるでしょう。
   しかし、牧師だけとは限りません。
   み言葉を信じ、神を信じている信仰者の生きざまからでも私たちは教えられますし、
   その方が力強い教えを目の当たりにすることがしばしばあります。

 3)私自身、み言葉を純粋に信じ、神の福音をしっかり守っている信徒の方から教えられることがしばしばあります。
   そのような人の生き方を通して途轍もなく大きな確信を得ることがあります。
   意外に私たちの周りにそのような人が多くいます。
   今日は池山欽二さんのことをお伝えしたいと思います。

 4)池山さんは運送会社の社長さんです。
   彼と初めて会ったのは、私が名古屋の教会に赴任してすぐの1979年ですから、もう37・8年前のことです。
   私は名古屋に行くとすぐ朝祷会がどこで行われているか探します。
   名古屋ではYMCAで毎週金曜日の朝朝祷会をしていました。
   私が出席するようになって数週間後に名古屋で運送屋さんを始めた池山さんが来られました。
   年は私よりも20歳以上も上の方でした。
   彼はいつもガラガラ声で、喉を締め付けるような声で祈る人でした。

 5)ある晩、彼に用があり電話をしました。
   奥さんが出て、「主人は今おりません」と言うので、次の日にまた同じ時間に電話しました。
   返事は同じでした。 次の日もそうでした。
   私は自分が「ルーテル教会の牧師で朝祷会で一緒させてもらっている者です」と初めて自己紹介をしました。
   すると奥さんは、
   「ああ、牧師先生ですか。失礼しました。
     実は主人は毎晩夜8時から9時まで祈りの時間で、電話がかかっても取り次がないことにしていて、失礼しました。
     9時過ぎに折り返し電話するように伝えます」と言われました。
   彼は祈りの為に自分の家に祈りの部屋を、しかも、防音装置で部屋を作り、毎日毎日、来る日も来る日も祈っていた人でした。

 6)祈りは信仰から出ます。
   彼の信仰が彼の祈りを生み出したのです。
   祈りは一回すればよいものではありません。
   絶えず、執拗に、繰り返し繰り返しするものです。
   その時、神の言葉が良く分かり、神への信仰が確かなものになります。
   私たちルーテル教会は祈りの大切さをあまり教えません。
   しかし、祈りは初代教会から極めて重要な信仰者の証でした。
   祈りのない教会はイエスの教えを生きていないことになります。
   私は、富士教会の最初の説教で、
   「聖書は毎日、日本語で良いから読むことです。
     読み続けるなら神の言葉が良く分かる」と言いました。
   毎日祈りましょう。
   祈っても聞かれないこともあるかもしれませんが、気を落とさず祈りましょう。

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