≪メッセージの要旨≫  2016年  10月 2日   聖霊降臨後第20主日礼拝


         聖書 : ルカによる福音書    17章  1〜10節


         説教 : 『 一粒の信仰 』    高塚 郁男 牧師


1.3つの内容⇒赦し、信仰、奉仕

1)今日の福音書のテキストは小見出しにあるように「赦し、信仰、奉仕」の3つに分かれています。
  分かれていますからこの3つは関連性がなく 別々のテーマ になっています。

2)最初のテーマは「赦し」です(1節から4節)。
  「一日に7回あなたに対して罪を犯しても、
     7回、「悔い改めます」と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」

  で終わっていますから、
  明らかに「赦し」をテーマにしていると言えます。
  これ自体分かりやすい話です

3)二つ目のテーマは「信仰」(5節から6節)です。
  弟子たちがイエスに向かって「信仰を増してください」と聞くと、
  「もしあなたがたにからし種一粒の信仰があれば、
     この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くだろう」

  と答えています。
  弟子たちがどういう動機でこの質問をしたかはわかりません。
  きっと、自分たちの「信仰」が小さくてあまり役に立たないので、大きくして下さいと願ったのかもしれません。
  しかし、「信仰」は大きくなるとか小さくなるというのではなく、一粒ほどの「信仰」があれば十分である。
  「信仰」は祈れば祈るほど大きくなるものではなく、一度しっかり神に対して持てばそれで十分というのである。

4)3つ目のテーマは「奉仕」です(7節から10節)。
  「奉仕」というものは「命じられたことを果たす」ことではなく、
  むしろ、命じられたことをしたとしても、
  「わたしは取るに足りない僕です。 
     しなければならないことをしただけですと言いなさい」

  と言っています。
  命じられないことでも喜んですることである、と言わんばかりです。

5)これら3つの違ったテーマは別々に扱っても大きなテーマです。
  しかし、どうしてここに別々の3つのテーマが一まとめにして語られているのでしょうか。
  関係があるのでしょか。


2.愛の信仰:

1)実はこの3つのテーマは信仰を挟んで「赦し」と「奉仕」のテーマに分かれています。
  分かれているというより、「赦し」と「奉仕」は「信仰」に抱きかかえられるような骨組みになっています。
  人の「赦し」が語られ、人の「奉仕」が「信仰」を挟んで並んでいます。
  「赦し」は「信仰」が無ければ真の「赦し」にはなりません。
  「信仰」があるから人は人を「赦す」ことが出来ます。

2)「信仰」があるから人は「奉仕」が出来ます。
  しかも、イエスから教えられた「信仰」はいつも「愛」を持っています。
  「愛」があるから「信仰」者は「奉仕」の業に走ります。
  パウロは
  「たとえ山を動かすほどの完全な信仰をもっていようとも、
     愛がなければ、無に等しい」
(コリントの信徒への手紙一13:2)
  と言っています。
  真の「信仰」は「愛」と結びついています。

3)弟子たちが「信仰を増してください」(ルカ17:5)と言ったのは、
  信仰が小さかったからではなく、  彼らの「信仰」には「愛」が少なかったのでしょう。
  「信仰」が山をも動かす力がるのではなく、
  「信仰」にイエスから与えられた「愛」があるから山をも動かすことが出来るのです。
  真の「信仰」は愛を含んでおり、奇跡的な力を発揮するのです。
  「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。
     その中で最も大いなるものは、愛である」

  とパウロが言っている通りです(コリントの信徒への手紙一13:13)。

4)今日は長谷川保の話をします。
  多くの人は彼のことを知っている筈です。
  彼は浜松出身の社会福祉家であり、衆議院議員であり、浜松聖隷病院を作った人です。
  1986頃だったか、私がこの東海教区の教区長だった時、
  静岡のひかり教会で特別伝道集会をしたとき講師としてお招きしたお話をお聞きしました。
  一言で言えば、信仰に生きた人、信仰から出る愛 によって 人に仕えた人 と言えます。

5)彼は浜松商業高等学校を卒業後、ブラジルでコーヒー農場を作りたいと上京し、海外学校に入学。
  そこでキリスト教に触れ、大きな体験をする。
  東京で、礼拝中、
  「お前はブラジルに行くより日本に留まり、日本民族の為に働け」
  との神の導きを受け、浜松に戻る決心をする。
  そこで彼は一人の結核患者のために病舎を建て、「ベテル」=神の家と名付けた。
  27歳の時である。
  当時の結核と言えば誰もが恐れ、近寄ることもせず、隔離されるほどであった。
  彼の行為に対して周囲の反対は強く、彼自身周囲の人たちから嫌われることになる。
  1930年代のことである。
  どれ程反対が大きかったか想像出来る。
  しかし、彼は怯むことなく、その患者の為に働き、仕えた。
  彼を駆り立てたのは信仰である。
  いや彼の信仰の中にある愛が彼をそうさせたのである。

6)信仰の大小ではない。
  私たちがもっている信仰に愛があるかないかである。
  信仰そのものには愛がある。
  ただ、多くの人はその愛に気付いていない。
  信仰さえ持っていればそれでいいと思っている。
  しかし、どんなに小さな信仰でも、一粒の信仰であっても、そこにキリストの愛があるなら、山を動かす力がある。
  長谷川保のように聖隷福祉事業団を作り、日本最初のホスピスを作る力になる。

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