≪メッセージの要旨≫ 2016年 11月 20日 聖霊降臨後最終主日礼拝
聖書 : ルカによる福音書 21章 5〜19節
説教 : 『 神に信頼して生きる 』 高塚 郁男 牧師
1) 教会のカレンダーでは今日が最後の日曜日です。
今日は 「聖霊降臨後降臨後最終主日」 となり、来週から新しい年度が始まります。
新しい年度は 「待降節」 から始まります。
イエス・キリストの誕生を待つ季節です。
2) 教会のカレンダーが出来たのはキリスト教が公認された後のことで、4世紀以降ですが、
教会のカレンダーを作り上げた人たちは自分たちの信仰を、
まず救い主イエス・キリストの誕生から始めたのは至極当然のことだったと思います。
どの世界でも、赤ちゃんが誕生するのは喜びですし、うれしいもので、
4世紀のクリスチャンたちは喜びの内に、
キリストの誕生日から新しいカレンダーを作り始めたに違いありません。
しかも、誕生そのものから始めたのではなく、
誕生の前からその喜びを表すために待降節を作り出し、彼らの希望と期待を強く表したのだと思います。
彼らはそれを青色で表しました。
青は希望と、期待を表す色です。
そして紫に移って聖降誕日を迎えます。
紫は人間の気持ちを最も高らかにする色であり、
信仰の最高点に主イエスの誕生日を置き、それを紫で表現しました。
3)今日はその前の週です。
聖霊降臨後最終主日です。
テキストはイエスが「神殿の崩壊を予告」する話から始まります。
神殿は目を疑うほど豪華で、その大きさ、姿に人々は感心し、ユダヤ人の誇りでした。
当時の人たちはこの神殿こそ神が永遠に住む場所と考えていました。
それなのに、イエスはその神殿が崩され壊されてしまうと大胆な予告をしました(ルカ21:5〜6)。
残念ながら、今、エルサレムに行ってもその神殿を見ることは出来ません。
神殿はイエスが予告してから40年後にローマ軍によって壊されてしまいます。
予告はその通り起こりました。
神殿があった場所には今はイスラム教徒が金のモスクと銀のモスクの二つを作っています。
4)イエスの「崩壊予告」の後で、弟子たちは
「そのことはいつ起こるのですか。
また、そのことが起こる時には、どんな徴があるのですか」(21:7) と尋ねます。
イエスはいつおこるとも、どんな徴があるとも答えませんが、
「惑わされないように気をつけなさい」(ルカ21:8) と言います。
5)ここに信仰者が心しなければならない大きな教えがあります。
神を信じ、イエス・キリストを救い主と信じる人が取らなければならない大切な姿があります。
キリスト者は「惑わされない」ことです。
どんなことが起こっても慌てないこと、惑わされないことです。
キリスト者の特徴は、何が起きようが、この世がどのように変化しても惑わされないことです。
キリスト者はイエス・キリストが共にいてくださいますから「惑わされ」てはなりません。
6)今日は、私は藤林益三の話をします。
彼は99歳で亡くなった弁護士から最高裁の長官になった方です。
1977年に画期的な判決が出され、特にキリスト教会では大きな反響を巻き起こしました。
古いクリスチャンなら一度はそのことを聞いたことがあると思います。
三重県の津市の体育館の起工式が神式で行われたことに対してキリスト者が裁判を起こしました。
「津地鎮祭訴訟」として有名になりました。
その判決を下したのが藤林益三最高裁判所長官でした。
当時としては神式で公的な建物の起工式などが行われることは当たり前で、
多くの裁判官も地鎮祭が神式で行われることを支持していました。
しかし、彼は政治と宗教は厳格に分離しなければならないとし、
公的な建物の地鎮祭が神式で行われることに対して違憲の判決を出しました。
彼は多数者の意見に動じないで、周囲に惑わされることなく生きたキリスト者でした。
日本の第7代目の最高裁長官でしたが、退官の時の日記に、
「前日までに長官室の荷物をすべて片づけ、机の上に聖書一冊だけを残して退官の日を迎えた。
それを持って事務官らの拍手の中を一礼しながら退官した」 と記しています。
キリスト者の生き方の大きな特徴は周囲がどのように変わろうが、周りの人が何をしようが、
世の中が動こうが動揺されることなく、惑わされることなく生きることです。
7)もう一つ今日のテキストから注目したいことがあります。
イエスは11節と12節で
「そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。
しかし、これらのことがすべて起こる前に、・・・」 とあります。
世が終わる時には恐ろしい色々なことが起こるのでしょう、恐らく。
しかし、それらが起こる前にです。起こる前とは、今生きている時のことです。
イエスは世の終わりのことを良く語ります。
それは弟子たちが聞くからです。
イエスの答えは、
世の終わりのこと、私たちが終わってからどうなるかの問題ではなく、
今生きている時を問題にします。
私たちは死んだらどうしよう、どうなるのかと心配するのではなく、
それらのことは神様に任せて、今生きている生活を大事にして生きることが大切です。
死んでからのことを心配するのではなく、
今生きている時にしっかり主を信じ、神を受け入れる時、私たちは惑わされることなく生きることが出来ます。
父なる神に全てを任せて生きることに専念しましょう。