≪メッセージの要旨≫ 2016年 11月 27日 待降節第1主日礼拝
聖書 : マタイによる福音書 21章 1〜11節
説教 : 『 人生の荷をいかに担うか 』 森 優 牧師
福音書を読むときには、その物語の登場人物に、自分をあてはめて考えると、意味を感じ取ることがあります。
きょうの聖書の箇所では、イエスさまがエルサレムに入られたときに
(エルサレムは城壁をめぐらしていますので、入城という言い方もします)、群衆が歓呼の声を上げて迎えました。
当然、弟子たちもイエスさまに従っていたでしょう。
ろばもいます。
1 わたしが、自分にあてはめた人々は、群衆と弟子たちです。
棕櫚(しゅろ)の葉を振って、新しい王の出現だと歓声あげた群衆は、すぐに、「十字架につけろ」とイエスさまをののしりました。
そうして、弟子たちは、イエスさまの十字架の場から逃げ出しました。
これが、わたしです。
不信仰で、頼りないわたし。
2 このだらしないわたしを、イエスさまはどうなさるでしょうか。
きょうの物語には、小さなロバの子が出てきます。
イエスさまをその背にのせて運びました。
わたしをロバになぞらえることはできない。
自分の人生の重荷にさえ耐えきれないでいるのだから。
そうだ、もしかしたら、イエスさまが子ろばとなって、わたしを背負い、生かし、運んでくださっているのかも知れない。
わたしは、自分の力、才覚で生きてきたつもりでいたが、イエスさまがわたしを荷ってくださっていたのだ。
3 このわたしは、もう一度、覚悟をきめて、ロバの子になろう。
熊本のバプテスト教会の牧師は、
「わたしは、ロバの子だ。イエスさまを運んで行く」 と決意して、60歳を過ぎて台湾に伝道に赴いた。
イエスさまに担われ、イエスさまを荷う。
これが信仰の姿。
4 村上春樹さんの小説に、『風の歌に聴け』というのがあります。
その中に、大きな、古い、こわれた時計を首にかけて歩いているヤギがいて、うさぎが新しい時計を贈ったら、
古いのと新しのを、二つとも首にかけて、重いおもいと、ふうふう言いながら歩いているという話だったと思います。
自分そっくりだなと思いましたが、そのようなわたしを、イエスさまが背に載せて生かしてくださっている。
振り落としたい、捨てたいと思っている、自分の重荷が、いつのまにか、イエスさまに見えて来る。
イエスさまを自分の背に、肩に、担っている、その喜びと、人生の荷を荷う力がわいてくるでしょう。