≪メッセージの要旨≫ 2016年 12月 18日 待降節第4主日礼拝
聖書 : ルカによる福音書 1章 46〜55節
説教 : 『 胎内の子が躍る 』 高塚 郁男 牧師
1.今日は、「待降節第4主日」。
主イエス・キリストがお生まれになるのを期待しながら待つ最後の日曜日です。
アドヴェント・リースのローソクも最後の一本に火がともされました。
来週はいよいよイエス・キリストの誕生日です。
心が躍ります。
2.キリスト教が認められないどころか迫害されていた頃は、信者は地下に潜り、隠れて礼拝をしていました。
そこは、いまでも残っている地下墓地で、カタコンベと言われています。
「カタコンベ」の「カタ」は「地下」で、「コンべ」は「墓」という意味です。
ローマやギリシャだけでなく、フランスにも東欧にもカタコンベはいくつも見つかっています。
エルサレムにもあります。
地下ですから、どんなに大きな声で歌っても外部には漏れませんから安全な場所です。
しかし、彼らは大声で歌うことは殆どありません。
静かに、伴奏なしで、単音で、今私たちも式文の中で声を合わせて、心を込めて歌っているように、心で歌っています。
そのような歌はイエスの時代にも歌われていたと思います (マタイ26章30節)。
3.横道にそれますが、最近の人は「エモい」と言う言葉を良く使いますね。
何のことか解りませんでしたが、今年はやった流行語大賞語の候補に「エモい」と言う言葉がありました。
「あの曲はエモい」というように音楽関係で使われるようです。
それが一般化して日常語の中に入って来ています。
もともとは「エモーショナルな」という言葉から若い人たちが使う言葉だそうです。
4.今日のテキストに入る数節前に、イエスを身ごもっていたマリアさんが、既に身重になっていた親戚のエリサベトを訪ね挨拶した時、
エリサベトの「体内の子がおどった」(ルカ1:41)、「胎内の子は喜んでおどりました」(ルカ1:44)とあります。
マリアさんが身ごもってイエスの誕生の知らせを聞いて、マリアさんの親戚のエリサベトの体内の子までも「喜んでおどり」ました。
これは、体内の子さえ感動し、「エモい」話と言えるのではないでしょうか。
5.イエスが誕生する知らせは、いつの時代でも、どの人々をも喜ばせ感動させます。
今、私たちは「待降節第4主日」を迎え喜び、感動しています。
イエスの誕生は人々を感動させる大きな出来事です。
最高の良き知らせです。
地下のお墓の中で、イエス誕生の記事を読む人々はこぞって喜び、小躍り、
自分たちの感動をカタコンベの中で踊った姿が今でも想像出来ます。
私たちもこの「待降節」の時に、
ましてや「第1主日」「第2主日」「第3主日」と喜びは高まり、最高潮に達し、「第4主日」を今迎えてます。
巷ではジングルベルの音楽でイエス・キリストの誕生に合わせて商品合戦が繰り広げられていますが、
私たちは心の中でもっともっと喜んで、感動して救い主イエス・キリストの誕生を迎えたいと思います。
6.エリサベトの胎内の子は喜び躍りましたが、マリアさんは喜びを 「マリアの賛歌」 を歌って表しました。
「私の魂は主をあがめ、私の霊は救い主である神を喜びたたえます」(ルカ1:46〜47)と歌います。
バッハはこの箇所から 「マグニフィカート」 というトランペットやティンパニーで始まる美しい曲を作曲しました。
この曲は私のとても好きな曲の一つです。
もう45年も前になりますが、私は盲人の為に毎月テープを作り、そのバックミュージックにこの「マグニフィカート」を使っていました。
何故私がこの曲を好きになったかと言うと、曲もそうですが、この言葉にはひきつけるものがあります。
マリアさんはまず、
「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」(ルカ1:46〜47)と、
神を賛美する言葉で歌い始めます。
ここが大事です。
私たちは自分を持ち出し、自分のことをまず語り始めますが、マリヤさんはそうではありません。
自分をほめたり、高めたりすることはしていません。神をあがめ、神を喜びたたえています。
私たちには何一つ自分の力を誇るものはありません。
全ては神に造られ、神によって生かされているのですから、神に感謝し、神を誇り、神をあがめなければなりません。
7.この救い主は、身分の低い自分でも受け入れてくれるとマリアさんは歌い続けます。
「身分の低い、この主のはしためにも目をとめて下さったからです」(ルカ1:48)。
私たちはどうでしょうか?
私たちは自分を誇りたがります。
自分を高めようとします。
これでは本当の喜びはありません。
主の前に頭を下げ、祈り、悔い改めることができるなら、初めて喜びが心の底から溢れてきます。
そのとき、こんな価値のない私でも主は受け入れて下さり、引き上げて下さることが分かります。
8.「今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう」(ルカ1:48)。
この言葉はルーテル教会初めプロテスタントの教会はもっと大事にしなければなりません。
ルーテル教会はマリアさんがキリストの母であることを強調しません。
カトリック教会は母マリアさんを特別に祝います。
マリアが処女であったかどうか、あるいはマリアさんが罪のない女性であったかどうか、
マリアさんが昇天したかどうかは聖書に記録されませんから分かりません。
それらが記録されてないかマリアさんを高く評価しないと考えるプロテスタント教会は今日のテキストをしっかり読んで下さい。
聖書に紛れもなく書かれていますし、イエス誕生の記事には必ず今日のテキスト「マグニフィカート」が読まれます。
それだけ大事なテキストです。
「主イエス・キリストの母」 としてはっきり認識したいと思います。