≪メッセージの要旨≫  2016年  12月 25日   降誕祭(クリスマス主日)礼拝


         聖書 : ヨハネによる福音書      1章  1〜14節

         説教 : 『 闇(絶望)を照らす光 』    高塚 郁男 牧師


1.クリスマスおめでとうございます。
  待ちに待ったクリスマスが今年もやって来ました。
  とても嬉しいです。
  今日が与えられたことを感謝します。
  クリスマス、イエス・キリストがお生まれになった日です。
  私たちキリストを信じる人たちにとっては毎年この日を、心を次第に盛り上げながら待ち続けます。
  特に今年は皆さんと一緒に迎えることが出来本当に嬉しいです。
  来年は、私には違った使命が与えられ、皆さんと一緒にクリスマスを迎えることは出来ないと思います。
  それを思うと、今年は私にとって、また皆さんにとって、生涯でたった一度のクリスマスの日になるだろうと思います。
  感激です。

2.私は、クリスマスを迎え都度に、果たして来年もクリスマスを迎えることが出来るだろうかと、毎年のクリスマスの時に思うことがあります。
  と言うのも、私は殆ど毎年、今年も入退院を何度かしました。
  数年前は9時間に及ぶ手術をしたり、何回か続けて数時間の手術を繰り返していました。
  もう手術はむりですよ言われています。
  ですから、つい、来年のクリスマスは迎えることが出来るかと思ってしまいます。

3.クリスマスの良き日に、何か自分の「命」の終わりを暗示するようなことを言ってしまい申し訳ありませんが、
  実は今日のテキストの初めの部分に「命」と言う言葉が続いて出ています。
  ですから少し、「命」のことを考え、どのように毎日生きるのかお話し、皆さんの生き方の参考にしていただきたいと思います。
  その前に今日のテキストをもう一度見てみましょう。
  「ヨハネによる福音書」1章1節からです。
  少し注意深く、しかも集中しないと分かりにくい内容です。
  イエス・キリスト誕生のことを記した格調の高い文章です。
  しかも、著者はイエス・キリストの誕生と生涯を違った言葉で表しています。

4.「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」
  この「言」とはキリストのことです。
  この 言 は初めに 神 と共にあった。
  万物は 言 = キリスト によって成った。
  成ったもので 言 によらずに成ったものは一つもなかった。

  その次です。
  キリストことを「言」と表現した著者は、今度はキリストのことを「命」と言います。
  この「言」の内に「命」があった。
  「命」は人間を照らす「光」であった。

  今度は「光」です。
  イエス・キリストのことを 「言」 「命」 「光」 で表した著者は、次に、そのキリストがどういう人かを語ります。
  光 = キリスト は暗闇の中で輝いている。
  暗闇は光を理解しなかった。

  暗闇は この世 であり、私たち神を受け入れない人たち のことです。
  イエス・キリストは神と共におり、初めから神と共にいた。
  全てのものは神によってできたのだからキリストもすべてを治める力を持ったお方である。
  そのキリストは「命」を持っており、この世で苦しみ・悩む人間を輝かせる光である、と言います。

5.「マタイによる福音書」ではイエスの誕生の記事を馬小屋で生まれたイエスの物語として伝え、
  「マルコによる福音書」では殆どイエスの誕生のことには直接触れていません。
  「ルカによる福音書」では母親マリアさんの賛歌と結びつけて誕生を祝っています。
  「ヨハネによる福音書」では今見たように文学的というか哲学的というか、
  比喩的な表現を使ってイエス・キリストの誕生のことを語り伝えています。
  私は自分とイエスの関係を、イエス・キリストと出会って、こんな私にも生きる力を与えて下さったお方として強く理解しています。
  その一つに病の中にあって本当の生き方を示されたお方として捉えています。

6.私は繰り返す病を経験したことによって、まず、自分の「命」は一番大切なものではないことを知りました。
  「命より大切なものがある」と思うようになりました。
  命が一番大事だと思う人にとっては、「死」はもっとも恐ろしい敵になります。
  敵ですから避けなければなりませんし、戦わなければなりません。
  しかし、私たちは誰でもいつかは死にます。
  命も死も、私たちにとっては命の一部なのです。
  死も命も誰でも等しく一人一人に与えられたものです。
  「命」一番と考えると、年を加えるたびに死は恐ろしくなり、「死にたくない、死にたくない」と「死」をおびえるようになります。
  しかし、「命」も「死」も私たちの一部であり、「命」より大切なものがある、
  それは「死」さえも喜んで受け入れ、死の先にある神との楽しい交わりがあると思って生きた方が
  はるかに楽しい命を送ることが出来ます。

7.次いで、「病気は必ずしも悪いことばかりではない」ことです。
  病気は命にとって一休みだと考え、
  一休みしたからまた何か新しいことを始めるきっかけ、動機になると考えたら、病気になることも、前向きに考えることが出来ます。
  そして、最後に、私は自分の体験を通して、
  私たちの「命は自分の為にあると考えるよりも誰かの為にある」と考えることで残された人生を豊かに過ごすことが出来ます。
  マイナス×マイナス=プラスであるように、
  私たちは弱った体、病気になった体を人に仕えるようになる時、豊かな人生を送ることが出来ます。
  たとえ寝たきりになり、何も出来なくたって、人の為に祈ることが出来ます。
  寝たきりになり悲しみ、涙する日々を送るよりは、
  ベッドの上で自分の知っている人の為に祈って時間を費やすことが有意義な人生になります。
  「イエス・キリストは人間を照らす光であり、暗闇の中で輝いている」とはそのことを意味しています。

8.たとえ病を負っても、暗闇の中に私たちが置かれたとしても、
  それを照らし出し、他の人の為に照らすようにと主イエス・キリストは私たちを照らして下さるのです。
  その主イエス・キリストの誕生がいよいよ今日です。
  喜びの中で主イエスの誕生を祝いましょう。

9.〜〜ここで、「闇を照らす光」の実話を一つ話します。《音声メッセージ》でお聞きください。〜〜

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